驚きへの道

2004年 1121

マタイによる福音書24:38−39

詩編136

コリントの信徒への手紙一1:18−25

 

まず、自分が歩んできた教育の歴史から話を始めたい です。大学時代に、私は自然科学を学んでいました。そして今日でさえ、科学は自分の人生にとって、たいへん愛すべき学問です。しかしそれが持っている重要 な部分がなくなった時、今日の科学にたいしてがっかりします。私が教わった科学的方法とは:考察においての考えは、まず不正確であると考えられて、それか ら、正しいと証明される。そのような方法でテストされるやりかたです。多くの領域で、今日私たちは、科学者が正しい考えを示すための実験をするという仮定 の科学を生み出すことをみている。また、今日の科学はしばしば驚くに値しない概念で働き、それらの考え方に合致しないと、どのような情報であっても簡単に 廃棄されます。これは、本当の科学ではないのではと思います。

  ご存知の通り、自分には4歳になる息子がいます。彼の年齢になると非常に恐竜 にたいして興味を持ち始めます。これが問題の発端でした。また学校の始まりになったのです。

「どれっくらい前に、恐竜は生きていたの?」「どう して空が青いの?」「本当に大きな洪水があったの?」「なんで星があるの?」などなどです。親であるみなさんにも思い当たることではありませんか。

 しかし、クリスチャンとして、どう答えるかに注意 を払わないといけません。この世的に生きていますか?もしくは、自分の信仰と神様の言葉に従いますか?

  西暦100年に、プトレマイオスという名の人が誕生しました。 彼は、偉大な思想化でした。科学者や哲学者の仲間入りをするため、アレクサンドリアに引っ越しました。みなさんは、彼の名は、ご存知ないかもしれません が、彼のやったミスについては、ご存知であると思います。プトレマイオスは、地球が太陽の中心であり、太陽や他の惑星が地球の周りを公転する事を述べた天 動説を考案しました。これがたんなるミスから来た考えなのか、人のエゴから来たものなのかは、分かりませんが、それが間違いということはだれでも知ってい ます。

 しかし、私たちはプトレマイオスの考え方の前に何 を信じていたのでしょう?多分、太陽が太陽系の中心であることを信じていたようです。プトレマイオスの考えは非常に普及し、アレクサンドリアの多くの人が 彼を支持しました。その考え方が広がり、教会もプレッシャーを感じ始めました。結局教会でさえも誤ったプトレマイオスの考え方を支持し、信仰心のない人々 によって、その考え方が一般化しました。西暦1300年の時代、この過ち(天動説)が正当化され、これに反対する市民は迫害されまし た。それは、教会の歴史における悲しい時代でした。クリスチャンたちは、神の声ではなく、世の声に従いました。(従わなければ行けなかったのです。)

 しかし、結局この考え方(天動説)は、クリスチャ ンたちにより、誤りということが証明されました。コペルニクスという人物が天動説を否定し、太陽が中心であったという考えを復元しました。彼の死後出版さ れた本の注にそれが初めて書かれました。ヨハネス・ケプラーという信仰深いクリスチャンは、それが(コペルニクスの考え方)が正しく、今までの考え方が間 違っていたということを証ししました。ケプラーは、どう惑星が動くか、またもっとたくさんのことを発見しました。ケプラーについては、ほとんど記録が残っ ていませんが、一つの事実として、彼は聖書から見る地球の年齢が6千年から1万年であるということを初めて計算した人物の一人でした。

 そうすると、どうして恐竜が数百万年前に生きてい たことになるでしょう?私は学校ですべての科学が同じ考えであることを学んだ。プトレマイオスの天動説が、間違っていることのように、今も世界は同じよう な誤りを犯しているのでしょうか?科学はまた実は間違っている考え方を捨てるのに、また1300年かかるのでしょうか?クリスチャンとして、私たちが教え られたのは、この世の知恵に従わない事です。

 では、子どもたちにも、それを教えるべきでしょう か?教えるとなれば、たくさんの不安が出てきます。もし自分の息子にこの世の考え方が間違っていることを教えたら、彼はどうやってこの世で調和して生きて いけるでしょう。学校で生活できるでしょうか。私はまだ、それについて答えを出している途中です。しかし、はっきりと言えることは、私たちの信仰が土台に なり、神様の創造物の不思議について教えることです。

 聖書の教えを無視することは、聖書の教えを信じる 力を失い、私たちの信仰を駄目にします。信仰を通して、調べて考えてみてほしいです。私は、世間の目よりも、神様の目に注目したいです。そのとき、あなた は神の創造物、不思議、偉大さ、哀れみ、愛に驚かされるでしょう。それは驚きへの道。