「イエスはすでに岸に 立っておられた」
|
1月31日に雪の舞う 福岡空港を飛び立ち高知にやって来ました。空港に降り立った時は、さすが南国暖かだなあと思ったのですが、ご承知の通り、夜半より降り出した雪は翌日まで 降り続き、高知の町は19年ぶりの大雪となりました。妻からも高知の冬は温暖でストーブもそれほど必要ないと聞かされ ていたものですから、「ここはいったい何処であるのか?」と思わせられるほどでした。19年に一度のことですから、めったに経験出来るものではありません。実はまだ大きな荷物は届い ていないものですから、二階の牧師館は閑散としており、とても冷えました。しかしこれも神さまが天から雪を降らせて、私を祝福をもって迎えて下さったもの だと思っております。 昨年二度こちらの教会 にお招きいただき、共に礼拝を献げ、皆さまとのお交わりの時を持たせていただきました。その時の印象は無牧師の期間が二年近く続いているのにしてはとても 活気のある教会だと感じました。教会学校にも多くの子どもたちが集い、英語礼拝も行なっておられることには驚きさえ感じたほどでした。連盟や連合とのパイ プもしっかり保っておられ、そして何より感心しましたのは、この無牧師の間を基本的に信徒の方たちで宣教の働きを担ってこられたことです。本当にすばらし いことだなと思いました。 私にとっても前任地を 辞任してからの待機中の間はある意味神さまからのチャレンジを受けた時でありました。焦りの心や不安も覚えました。しかしその期間を通して学ばされたこと は多く、そのことを通して、より神さまに用いられる器として練り直されたのだと思っています。それは無牧師の期間を過ごしてこられた皆さんにも重なるとこ ろがあるのではないでしょうか。しかし神さまは私たちをお見捨てになることなく、いつも共にいて下さいます。今日はそのあたりの事をみ言葉からご一緒に聞 いていければと思います。 本日の聖書の箇所に は、復活のイエスさまに導かれて大漁となった物語が記されています。今年はイースターが例年より早く3月27日であることから、今週の水曜日から灰の水曜日が始まり、受難節・レントに入ります。そんな 時に何も復活の話をしなくてもと思われるかもしれませんが、今日は私にとっても、またこの教会にとっても記念すべき礼拝ですから、私たちがたとえ気づいて いなくても復活のイエスさまは私たちの近くにいて見守っていて下さることを語らせていただければと思います。 ヨハネによる福音書で は、イエスさまの十字架と復活の後、弟子たちが自分たちの生活の場であったガリラヤに帰り、漁をする生活に戻ったことを伝えています。舞台は「テベリヤの 海べ」ですが、これはガリラヤ湖のことです。テベリヤとはこの湖の西岸にある町の名で、この町はガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって建てられた町 で、ヘロデ・アンティパスがローマ皇帝ティベリウスに取り入るためのご機嫌取りにこの皇帝の名をつけたと伝えられています。 イエスさまがガリラヤ で宣教の働きをお始めになってまもなく、このガリラヤ湖で弟子たちとお会いになられました。その時からイエスさまと弟子たちの活動が始まったのですが、復 活の後彼らは再び自分たちのふるさとであったこのガリラヤに戻って湖で漁をする生活に戻ったのです。 その日も彼らは舟で出 掛けて夜通し漁をしましたが、その日は何も獲れませんでした。もう夜が明け帰ろうとした頃でしょうか、彼らに声を掛ける人がありました。 「子たちよ、何か食べ 物があるのか」 これは元のギリシャ語 では「食べるものは何も無いだろう」とも訳せる表現となっています。その人は更に続けて「舟の右の方に網を下ろすように」告げました。弟子たちがその人の 言う通りにすると、おびただしい数の魚が獲れ、網を引き上げることも出来ず網を引いたまま岸まで戻って来たのです。イエスの愛しておられた弟子、これはヨ ハネのことだろうと言われていますが、その声の主がイエスさまだと気づき、『あれは主だ』と叫びました。それを聞いたペテロは湖に飛び込んだのです。 この話を復活のイエス さまの出来事として記しているのは、ヨハネによる福音書だけですが、今日はこの箇所から宣教を受けるのに、聖書を一箇所見てみたいと思います。ルカによる 福音書5章10節です。新約聖書91ページです。 「恐れることはない。 今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」 これは先ほども触れま したように、かつてペテロが漁師をしていた時にイエスさまによって彼を召し出そうとして掛けられた言葉です。この時もペテロは夜通し漁をしましたが何も獲 れずにいました。その時イエスさまが「沖へ漕ぎ出し、網を下ろして漁をしてみなさい」と言われ、その通りにすると大漁となったのです。彼は一切を捨ててイ エスさまに従って行きました。 それからおよそ3年が経過し、イエスさまは十字架に つけられて処刑されました。彼らの悲しみは大きく、追っ手から逃れるためにペテロはイエスさまのことを知らないと言い、その挙句戸を閉ざして家の中に隠れ ていました。そこに復活のイエスさまが来て下さり、「安かれ、父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす」と言って下さいまし た。そして今日の物語では、彼らの日常の生活の場、働きの場にまでお姿をあらわして下さいました。復活のイエスさまはただ教会にだけ現われて下さるのでは ありません。私たちが普通に生活している所にも、また仕事をしている所にも来て下さるのです。 さて、今日の湖でのた くさんの魚が獲れた話と、今見ましたルカによる福音書のペテロが召し出された話を重ね合わせて考え、私たちの伝道の働きのための導きを受けましょう。 どちらも、魚を獲るた めに夜通し漁をしましたが、全く収穫はありませんでした。今日のヨハネの話を弟子たちが「人間をとる漁師」として伝道していることの描写だと考えてみま しょう。 弟子たちは「わたしは 漁に行くのだ」と言ってイエスさまのことを述べ伝えて人々を導くためにテベリヤの海辺に行くのですが、人々を捕らえることが出来ないでいました。彼らは夜 通し人々に伝道しました。夜の闇が深く見通しもたたない中、彼らは一所懸命に福音を説きますが、収穫はありません。 そんな弟子たちに向 かって、イエスさまは21章5節にあるように、親しく「子たちよ」と呼びかけられます。聖書のある訳では「幼な子らよ」と なっています。これは大人が幼い子どもに愛情を込めて呼びかける言葉であります。一所懸命に働いても実を結ぶことの出来ずにいる者に対しての愛情と心遣い が込められています。そして意気消沈している者に対しての力づけと導きを与えて下さっているのです。「舟の右の方に網をおろしてみなさい、そうすれば何か 獲れるだろう」と方策を示して下さるのです。そしてみ言葉に忠実に仕えることを通して、やがてその収穫は舟で引き上げられないほどになることをこの福音書 の話は私たちに示してくれます。 イエスの愛しておられ た弟子は「あれは主だ」と叫びました。彼はこのような導きを与えて下さるのは主しかないと思い、そのように告白したのです。わたしたちは何かことがうまく 運んだ時に、それを自分の力で成し遂げたような気持ちになるのでしょうか。それを自分の手のわざとして誇るのでしょうか。私たちは思わぬ大漁を得た時にそ れが自分の力によるものではなく、主のわざであることを心から感謝する者でありたく願います。主はその働きに仕える者のために場を備え、時を備え、たとえ それが夜の闇の中で漁をするような状況にあったとして、主ご自身が導き働いて下さるのです。 さて、今日の宣教のタ イトルにもあげましたのは4節のみ言葉です。口語訳聖書には「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」とありま す。ちなみに新共同訳聖書では「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」とあります。「既に」という言葉を「夜が明けた」にかけて訳されていま す。ここは元の文章では、確かにこの「既に」という言葉は記されてあり、新共同訳のように訳しても全く差し支えないと思いますが、この「既に」は「イエス が岸に立っておられた」にかかるものとする解釈するも成り立ちます。それゆえタイトルのように私は「イエスはすでに岸に立っておられた」というように読み たく思います。 徒労の夜が明けて、弟 子たちは重い体と心で帰ろうとしていました。獲物を得る希望は消えて疲労だけが残っています。しかし実は「すでに」イエスは来ておられたのです。弟子たち がそのことを知らないだけなのです。彼らは問題に対する答えが見つからずに途方にくれています。しかしそんな中に主はすでにやって来て岸に立って、弟子た ちの働きの一部始終を見守っていて下さったのです。 自分では主のため、教 会のためと思って精一杯働きをします。しかしそれがやっただけの成果があげられないことがあります。「神さまどうしてですか」と叫びたくなることがありま
す。うまくいかない中で、神さまが見出さず「神はどこにもおられないではないか」と思う時があります。しかしそんな時であっても復活のイエスさまはすでに
やって来て私たちのことを見守り、導きを与えて下さるのです。今日の弟子たちのようにその導きに素直に従う時、それまで収穫がなかったのがうそのように、
豊かな収穫が与えられるのです。お祈りします。本日与えられたみ言葉を反すうするあめにしばらくの間、黙想の時を持ちましょう。 |