「アメイ ジング・グレイス」
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この前の所 で、この手紙の著者であるパウロは「私たち」のためにキリストが十字架にかかって死んで下さったことを述べました。私たちが正しい人であるからでも、善い 人であるからでもなく、私たちが罪人であるからこそ、その罪人のために死んで下さった。そしてそのことを通して、私たちは神の怒りから救われ、義と認めら れたことが記されています。私たちは神と決裂していたけれども、このキリストの十字架の贖いを通して、神と和解させていただいたと言うのです。 ロマ書は紀元 56年から57年頃に使徒パウロによって書かれたと言われています。およそ2000年前のことです。書かれたと言いましたが、パウロが直接紙に向かってし たためたのではなく、口述筆記、パウロが口頭で語ったものを誰かに書きとめさせたのではないかと言われています。題名からも分かる通りこれはローマの教会 の信徒たちに宛てて書かれた手紙です。ローマは当時の世界の中心でした。パウロはまだ行ったことはなかったのですが、ローマを今後の宣教の拠点にすること を考えていましたから、ローマ行きは彼の強い願いでありました。ここにおいてのパウロの論調からは、とても興奮して語っている彼の姿が見えます。そのため か、文章として読むならば意味が取りにくいように思える点が見うけられます。 今日の箇所で 最初に気づかされるのは、それまでは主語としてずっと用いられていた「私たち」が突然出てこなくなることです。これは「私たちは」とするよりも、キリスト の出来事はすべての人に当てはまるより普遍的なものであり、全人類に対して起こったことであることを強調しようとしたことによると思われます。 ここでパウロ は二人の人アダムとキリストを対比させています。アダムが罪を犯したことによって死が入りこんで来た。これは創世記2章に記されているエデンの園における 食べてはならないとの神の命令にそむいて禁断の木の実を食べた出来事です。これを原罪と呼びます。ここでアダムを登場させているのは、このアダムこそが私 たち人間を代表する者であるからです。アダムの罪は、アダムだけのものではなく、私たちの罪であります。罪の責任はアダムにだけあるのでなく、全ての人に あります。ここにおいてアダムと私たちは一体です。私たちはアダムと共同に罪を犯した存在であるのです。 その罪を犯し たアダムのことを、14節で「来るべき方を前もって表す者」だとパウロは述べます。「来るべき方」とはキリストのことです。これはどういうことでしょう か。罪を犯した者が、キリストを前もって表す者、以前の日本語の訳では「きたるべき者の型⇒タイプ」だとされています。しかしここにこそ、キリストの十字 架の絶対性が隠されているのです。イエスさまは罪を犯されませんでした。罪を何一つ犯されなかった方が十字架で身代わりに死んで下さったからこそ、私たち 罪人の罪が贖われたのです。 フィリピの信 徒への手紙2章6節から8節に次のみ言葉があります。お開き下さい。 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わ ず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」 イエスさまは 人間と同じ者となられた、また人間の姿でこの世にお生まれ下さった。これは神が人間となってこの世に降って下さったことであり、それはイエスさまが罪人そ のものになって下さったことに他なりません。罪は何一つ犯されなかったけれども、罪人と同じ者になられたのです。神そのものであることにこだわらず、自分 を無にして、コリントの信徒への手紙8章9節の表現を用いるなら、「主は豊かであったのに、私たちのために貧しいもの」となっ て下さったのです。 「アダムは来 るべき方を前もって表す者」であったとは、まさにこのことです。イエスさまは神としてこの世に臨まれたのでなく、罪人の代表的存在であるアダムそのものと なって下さったのです。罪を犯されなかったお方が、罪人そのものになって下さったというのですから、これはもう論理的にはおかしなこと、考えられないこと です。荒唐無稽とも言えます。しかしだからこそ、「アメイジング・グレイス」なのです。 「アメイジン グ・グレイス」は更に続きます。この神さまの「アメイジング・グレイス」によって、神は人にいかに多くの罪があってもそれを問わない、無罪であると宣言し て下さったのだ、とパウロは言うのです。 神さまは罪を 喜ばれるお方ではありません。何故、ノアの洪水が起こったのでしょうか。それは地上に罪が満ち、神さまが人を造ったことを後悔するとおっしゃったほどだっ たからです。そのため洪水を起こされました。 私たちクリス チャンは、神さまから赦しの宣言をいただいていることを知っています。それゆえ、罪とは赦されるものと思ってしまっていないでしょうか。断じてそうではな いのです。罪とは「さばかれるべきもの、さばかれなければならないもの」なのです。それを神さまは無罪の判決を下すと仰るのです。一切の罪を無罪放免とす ると仰るのですから、これこそ「アメイジング」と言うほかありません。 16節「この 賜物は、罪を犯した一人の人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、 いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」 罪は一つひと つさばかれるべきものなのですが、恵みを与えると決断された神は、何も問わずに「もうお前たちの罪はすべて赦す」と言って下さるのです。何故そんなことが 成り立つのでしょうか、それは罪の無いお方であるキリストを罪人の象徴であるアダムそのものとして下さったからです。 恵みとは、一 方的に与えられるものです。それはその対象がどうゆう者であるかを問いません。正しい人や信仰深い者にだけ与えられるのではないのです。罪がなくなったか らではなく、罪人のままでその罪を赦すと仰って下さるのです。この「アメイジング・グレイス」を心から感謝し、信じるものとなりたく思います。 最後にヘブライ 人への手紙2章14と15節をお読みします。お聞き下さい。 「ところで、子らは血と肉とを備えているので、イエスもまた同様に、これらのもの を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるた めでした。」 アーメン。 |