「とこしえに導かれる神」
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先週は私の父の事を通して、神は凡てのことに働いて、たとえ人間の目からはマイナスとしか思えない事をも益と変えて下さるお方であることを語らせていただきました。私の父は80歳を目前にして、住み慣れた土地を離れ、全く初めての見ず知らずの場所である信州に住まいを移した事で心と身体の健康を損ないました。しかしそのことが生んだ心の空白や孤独を、神を求める事で埋めようとして教会に行きたいと思うようになりました。それは私の目には奇跡としか思えない出来事でありました。 先週も申し上げましたが、父たちが移って行った所は、長野県北安曇郡松川村、今でも人口が増えたとはいえ、一万人ほどの信州の小さな田舎の村です。移ってみ月目に、父の心と身体はバランスを失い、癲癇の発作を起こしました。そして今から思うと、この頃から痴呆が始まったように思えます。 それからの一年間も、いろいろ大変だったようです。今では家の真ん前に老健施設が出来ましたが、その頃は近くに老人医療の施設もなく、近くの内科の医者から精神安定剤をもらって、何とか過ごしていたようです。しかし状態はどんどん悪くなっていきました。父の部屋にはトイレが設置されているのですが、そこに閉じこもって、水洗の水を流し続けて部屋を水浸しにしたり、近所を徘徊するので、どうしようもなくなり部屋の鍵をかけておいたら、外に出ようとして部屋の鍵をがりがりと齧ったりと、家族の者は大変だったようです。私は言うと、その年は神学校を卒業して、大牟田教会に着任していましたので、現場にはおらず後で聞かされてとてもショックを受けました。痴呆になったといっても、完全に呆けてしまったのでなく、調子の良い時は全く普通なのですが、突然おかしくなったりするようです。父の場合は、季節の変わり目に変調をきたす事の繰り返しです。だいたい5月と11月頃にはそれが起こるのですが、それ以外の時は意識もはっきりしていたようであります。 そんなこんなで一年が経ち、私たち夫婦が両親の所を訪ねたのは、翌年の3月の事でした。久しぶりに会った父は思っていたよりは元気そうで、私は少し安心しました。この時です。父が突然教会に行きたいと言い出したのは。父が昔、それは40年前の事ですが、教会に通っていたのも、私は忘れていたので、急に何を言い出すのかと思いました。 皆さんは、父が教会に行きたいと言い出した背景には私の絶えざる祈りがあったのではないかと思われるかもしれません。が、そんなことは全くありません。家族の救いのことを真剣に願っていたわけではなく、ほとんど諦めていたというか、願うこともなく、またそのために時間を取り分けて祈ることもしていませんでした。 しかし私の妻は違いました。彼女は自分の家族のことは言うに及ばず、私の家族の救いのためにも真面目に祈っておりました。そして私の両親が少しでも感心を持ってくれればと思って、母にはマザー・テレサの本を、また父が昔染み抜きの職人だったものですから、絵というつながりから、星野富広さんの本を贈ったりしていました。 父の教会に行きたいという申し出を妻は心から喜びました。その姿を見て、息子の私はどう思ったかと言うと、「そんなこと真面目に取り合わなくても良い、考えるだけ無駄、息子の嫁の気を引こうとして心にも無いことを言っているだけ、しようがない親父だなあ」。このことを思い出すと、本当に神さまにも父にも申し訳ない気持ちでいっぱいになります。父の心にあった寂しさや真剣に求める気持ちに寄り添うどころか、息子の嫁さんに気にいられようとして、関西弁で言うところの「ええかっこしーな親父やなぁ、」と考えた本当にどうしようもなく親不幸でそして不信仰な息子でした。牧師全く偉そうに牧師だなどと言えないようなものでした。 日頃から祈っていた妻は真剣でした。老齢の父が一人で通える教会はないかとタウンページなどで調べ出しました。松川村は本当に何もない村です。当然教会は一軒もありません。すぐ隣の池田という町には教会はあったのですが、車の運転も出来ない父には行く事も叶いません。近隣の町や村の教会を地図で調べると、南安曇郡の穂高という町に駅のそばに一つ教会があるのです。その教会の最寄り駅は松川村からJR電車で四つ目です。しかも駅からもかなり近そうです。しかしその教会の属するグループは全く聞いたこともない名前の教団でした。「復活之キリスト教団穂高教会」。復活「之」の「之」は平仮名の「の」ではなく、漢字のしんにゅうの「之」です。なんだか怪しそうな匂いがしました。しかしここなら場所的にも一人で通えそうです。私たちは次の日曜日には大牟田に帰らなければなりませんでしたので、水曜日の昼の祈祷会に父を連れて行ってみることにしました。これから何が起こるのか、また神さまの不思議な導きをまだはっきりと感じていなかった私は、父の真剣さにも全く気付いておらず、妻に引きずられるように、それこそ渋々、試しに行くだけ行ってみようと思って出かけたのでした。 父の願いがどれほどのものであるのかと疑っていたこともあるのですが、私の中には所謂「福音派」の教会に対しての偏見というか、聖書の言葉を単純に信じるグループには学問的裏づけが薄いように思い、本当に失礼極まりないのですが、少し低く見る思いがあったのです。 私たちはこの教会がどんな教会であるのか、またそこの牧師ご夫妻がどんな方であるのかも全く知りませんでした。それは言い換えれば、その牧師も父のことだけでなく、私たちのこともご存じなかったということです。本当に私たちは何も知らずにその「復活之キリスト教団穂高教会」なる教会に出かけたのです。父にとっては、それは40年ぶりのことでした。 思っていたよりも若い牧師でした。私と年もそれほど変わらない、実際は私より2歳年上の先生でしたが、牧会経験は20年近くになられる方でした。その日読まれていたのは創世記35章でした。兄を恐れて、家族のもとを出て行ったヤコブが約40年ぶりに元の場所に戻って来て、そこに祭壇を築いたとその牧師は語るのです。「えっ、40年って」そこの聖書には40年とは書かれてはいません。しかし牧師は、40年ぶりにヤコブがベテルに帰って来て、神のために祭壇を築いたと言うのです。私は一瞬わが耳を疑いました。今日連れて来た父は40年ぶりに教会にやって来たのです。しかし神の導きに鈍感な私は「たまたま。偶然ってあるんだなあ、この先生が父のことを知っておられるわけがない。偶然数字があっただけだ」と思ったのです。 祈祷会が終わり、自己紹介の時となり、私がバプテストの牧師であり、今日は父が教会に行きたいと言うので連れて来た、実は私たち親子は京都に住んでいたのだが、昨年松川村に引っ越してきたことなどを告げました。すると父は、自分の名を告げた後、すぐに「先生、もうすぐイースターでしょう、その時に洗礼を受けさせて欲しい」と突然言い出したのです。私は驚くと同時に内心焦りました。「親父、一体何を言い出すのや、馬鹿なことを言わないでくれ。だいたいあんたは息子の嫁の気を引こうとして気紛れで教会に行きたいと思っただけだろう、そんな程度のことで気安く洗礼受けたいなどと言わないで」と口にこそ出しませんでしたが、私は心の中でそう思ったのです。さすがに受洗の申し出にはその牧師も「平林さん、今度一度日曜日の礼拝にいらして下さい。その時にゆっくりお話ししましょう」と言って下さった後で、「そうですか、平林さんは京都の方ですか、私は穂高の生まれですが、神学校は同志社なのですよ、だいたい私たちの教団でも私は変わり者で、同志社出身の牧師は後にも先にも私だけですよ。京都には私も4年間住んでいましたので、私にとって京都は第二の故郷です。」とおっしゃるのです。そして自分の妻は京都の人間だと言われました。 これには私も驚きましたが、それ以上に驚きつつ喜んだのは父でした。父にしてみれば、知り合いが一人もいない所に来たことでどれほど寂しさと孤独を感じていたことか。それで心のバランスを失い、身体にも変調をきたしたのです。それがまさか、たまたま息子たちに連れられて行った教会で京都の話しが出来る人間と出会えるとは思ってもいなかったでしょうから。 ここまで来ると霊的な目が開かれておらず、一連の出来事の凡てが神さまの手のわざであることに気付いていなかった私も、神さまが生きて働いておられることを認めざるをえませんでした。 何の予備知識もなく、たまたま父が一人ででも行く事の出来る教会と思って訪ねた教会。父にとっては40年ぶりの教会。身内以外に知り合いがおらず、話し相手を求めていた。その教会で語られた聖書の話が40年ぶりに戻って来た場所に祭壇を築いたヤコブの話。そしてそこで出会った牧師夫婦が自分の生まれ故郷に住んだことのある方たちであった。 詩篇48篇14節 「これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう」 これは奇跡という言葉で片付けたくない、いやそんな言葉で表現することの出来る話しではないように思います。全てをご存知のお方が、寂しさや孤独や苦しみを通らせた上で、最も良き道に導いて下さったのです。 その次の日曜日に父は一人で教会に行き、その後も通い続けました。そして父の心に与えられた洗礼を受けたいという思いは萎えることがなく、イースターには間に合いませんでしたが、その二ヵ月後の5月のペンテコステに受洗の恵みに与りました。 神さまは目に見える形でもしるしと不思議を見せて下さいます。しかし先週も申しましたように、神さまが起こされる奇跡は一匹の迷える子羊を探し出して救い出して下さることだと信じます。そして父の名は穂高教会の歴史に刻まれ、神さまの命の書にその名が記されることになったのです。 洗礼を受けてからも父の病状は年とともに悪化していきました。しかし父は身体のゆるす限り、教会に喜んで通い続けました。今現在は教会に行ける状態ではありませんし、おそらく次に父が穂高教会に行くのは自分の葬儀の時でしょう。実は先週妹からメールがあり、父はまた肺炎になり、一時は非常に危険な状態であったが、また持ち直しとのことでした。
ここまでが私が皆さんにお伝えしたかった父の救いにまつわる話であるのですが、最後にもう一つの神さまの不思議なるわざをお話しすることをおゆるし下さればと思います。それはその穂高教会の牧師のご夫人と私の妻の関係です。 妻がそのご夫人に自分は高知の長浜の出身であることを告げますと、この方がとても驚かれたのです。その驚かれた理由を尋ねてみると、今は天に召されたけれども、自分の祖母はずっと長浜で保育園をやっていたとおっしゃるのです。それはおさなごの園と言い、そこは何と妻が通った保育園であったのです。この園長であられたおばあさまの子どもさんが結婚して京都に行かれ、そこでお生まれになった方が長野出身の神学生と結婚し赴任されたのが、復活之キリスト教団穂高教会だったのです。
「これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう」 アーメン。お祈りをいたします。いつものように黙想の時を持ちたく思います。
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