「新幹線から各駅停車へ」
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今日の宣教のタイトルは「新幹線から各駅停車へ」です。各駅停車から新幹線へというのなら分かり易いでしょう。技術革新に従って、より速いものを求めるのが世の常です。四国には新幹線はまだ敷設されていませんが、九州は昨年だったか一咋年に九州新幹線が開通されました。そこまでスピードを要求しないでもよいのではないかと思わせられますが、それでもつい少しでも速いものを利用したく思ってしまいます。確かに時間を短縮することで時間をより有効に効率的に使うのは悪いことではないのですが。 交通の発達は各駅停車から急行ができ、特別急行、特急となり、新幹線となりました。今では更に速いリニアモーターカーが考えられますが。 私はここで、交通手段のことを言おうとしているのではありません。聖書を読むことは「新幹線から各駅停車」かわっていくことをお伝えしようとして鉄道を譬にさせていただいたのです。 私もそうだったのですが、初めて聖書を読んだときにはその内容の分かる箇所はほとんどないと言ってよいでしょう。それはまさに新幹線ですっ飛ばして読むようものです。停車出来る駅はほとんどない。感動して立ち留まる箇所はほとんどないのです。それが偽らざる実情でしょう。私はそれでも良いと思っています。新幹線読みでも読まないよりはよっぽど良いからです。 聖書は感動して止まる箇所に出会うまでは新幹線のように読むほかないのです。それを無理して、感動も心に響きもしない箇所に、各駅停車しようとすると、その無理がたたって、すぐに嫌気がさして、聖書をほうり出してしまい、しまいに読まなくなってしまいます。 これを裏を返して申し上げれば、聖書は必ず感動して止まらざるをえない箇所を含んだ書物だということです。必ず停車する駅ができることを信頼して、ノンストップですっ飛ばして読んでも良いのです。このおおらかな信頼こそが祝福をもたらします。「聖書のあらゆる箇所に感動して立ち止まらねばならない」というのは福音とは対極の律法的な読み方です。福音、よきおとずれは義務によって手に入るものではありません。福音は、義務によるではなく、心ふるわせられる感動によって、得るものであります。一回目は何の事だか分からずにノンストップな新幹線読みであったとしても、二回、三回と読み返すごとに次第に停車する駅が増えていくものです。これは無理に増やすものではありません。このおおらかな信頼をもって読むのが福音にふさわしい聖書の読み方であります。
さて、今日与えられました箇所は、新約聖書の最初に記されているイエス・キリストの系図です。これは立ち止まりたくてもどうにもこうにも停車できないような駅です。初めて聖書を手にする人が読み始めるのはおそらく新約聖書であり、このマタイによる福音書から入っていくことでしょう。しかしこれは感動しようもない箇所に思えます。ただ長々とキリストの系図が記されてあり、舌を噛みそうな読みにくい片仮名の人名が延々と続く。おそらくは斜めに読み飛ばすか、はたまた、せっかく聖書を読もうと思っていたその意欲をそがれてしまったという経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。ほとんど例外なくノンストップ新幹線読みの取り扱いを受ける箇所でしょう。無理もないことだと思います。 しかしこの箇所は驚くべき深いメッセージを秘めたところなのです。それを読み取ることによって、この箇所は停車せざるをえない感動的な駅となります。その鍵は、この系図に含まれている四人の女性の名前にあります。 元来この系図は男系の系図であり、記されているのはほとんどが男の名前です。ところがその中に、四人だけ例外的に女性が含まれています。本来の目的からすると書かなくてもよいのをわざわざ書くのですから、そこには特別な意図があるはずです。その意図を探り出すことがメッセージを読み取る鍵となります。 しかしここに記されている四人は名誉を担うような人物では全くありません。名誉どころか、四人とも札つきの女性、罪と恥とに満ちた人物たちであるのです。3節タマル、5節ラハブとルツ、そして6節ウリヤの妻の四人です。 まずタマルは、自分の夫の父親、すなわち舅になりますが、その舅によって不義の子を産んだ女性です。創世記38章6〜30節。次のラハブは遊女であり、しかも異邦人。ヨシュア記2章。ルツは健気で嫁の鑑のようにも思われていますが、これまた異邦人です。聖書においてはユダヤ人以外の民族はそれ自体で罪びととされており、まともな人間としては扱われてはいませんでした。ルツ記。最後のウリヤの妻、このバテシバはあまりにも有名ですが、ダビデ王が自分の部下の妻を横恋慕することで、夫を殺され、ついに二夫にまみえた女であります。サムエル記下11章。 普通ならばと言うか、日本ならば、かりにもそのような人物が自分の先祖にいたならば、極力隠して公表しないものでしょう。ところがこの系図は、これらの女たちを本来の目的からすると含まなくてもよいところを、わざわざ書き留めているのです。このあたりが聖書のすごいところだと思います。人間の罪も恥じも隠しはしない、それどころか、全く赤裸々に書き記すのです。先祖の罪を露にするということは、自分自身の罪をも神さまに隠さず申し述べるということです。 一つの同じ系図に入るということは、具体的には連帯関係に入ることを意味します。すなわち恥も誉れも共にする、一蓮托生の関係になることです。このイエス・キリストの系図にこれらの女性を含めるということこそが、罪びとと連帯化して、罪人を救い出して下さったというメッセージになるのです。救うということは、救う者が救われる者の所まで来て下さって、それと同じ立場になるのでなければ成り立ちません。イエスさまは天の御座にただ鎮座ましますのでなく、罪びとの家系に入り、罪びとと同化して、私たちと同じものとなって下さった。これこそがインマヌエルの神であります。神我らと共にいます。インマヌエルの神とは、どんな時にもともにいて下さることでありますが、どんな時にも共にいるということは、その人間と連帯化することであり、それは罪も恥じもすべてを共にすることにほかなりません。 しかしここに一つの盲点があります。一例をあげましょう。借金の連帯保証人、連帯保証人は文字通り債務者と連帯化してその債務を返済する責任を負います。しかし最初から同じ立場にあるならば、かえって連帯保証人にはなりえないのです。たとえば夫の保証人には妻はなりえない、一般には妻は夫と最初から同じ立場にあり、経済的にも一心同体ですから、夫が借金の返済が出来ないで夜逃げする時には、妻も一緒に夜逃げをするでしょう。連帯保証人になることが出来るのは、債務者とは別な立場にある者だけです。債務者とは全く別な立場にある者、他者的なありかたをしているものだけが借金の連帯保証人となりえるのです。 今日の系図の最後のところにはイエスさまがお生まれ下さったことが記されています。先にも述べましたように、この系図は男系であり、最後にはイエスの父であるはずのヨセフが登場します。しかし今日の箇所の後の記事では、イエスはそのヨセフの子ではなく、まだ処女であったマリアから生まれたとされています。所謂「処女降誕」です。すると、長々と書かれた系図は、結局イエスとは関係のない系図となってしまうのではないか。処女降誕はこの系図を無効としてしまうのでしょうか。 そうではありません。救いとは、罪びとから超越している聖なる神が罪びとの世界に下りて来て下さって、罪びとと一体化することによって、成り立つことであります。しかしはじめから、罪びとと一体化しているだけの存在であるなら、救いと称しても、結局それは、すねに傷を持つ者同士が傷を舐めあうことになってしまいます。 イエスさまは罪びとの世界にお生まれ下さり、罪びとの家系にまで入って歩んで下さったのですが、そのイエスさまがキリスト、救い主となるには、それと同時に罪を超越したお方である必要があります。キリストは罪びとの責任を負って十字架の刑罰を受け、救い出す。それは完全な救いであって、人間の側でのいかなる条件の必要もない無条件の救いです。それが系図のメッセージです。しかし、そのキリストは本来的に罪びとであるのではなく、罪から超越した聖なる存在であるままで、罪びとと連帯化されました。この超越性が処女降誕に含まれるメッセージなのです。
最初は立ち止まりたくとも停車しようもなかった駅、新幹線ですっ飛ばしていかざる得なかった駅が、聖書を読んでいくに従って停車する駅が増えていく。「新幹線から各駅停車」に、聖書という鉄道を進む列車は、その停車する駅を増やしつつ、新幹線は特急に、急行に、そして各駅停車へと発展していくのです。
お祈りを献げましょう。み言葉を受け取りつつ、黙想の時をもちましょう。 |