「「ろばに乗った王さま」(棕櫚の主日)    


 マタイによる福音書21章1〜11節 
 2005年3月20日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。今日は「棕櫚の主日」です。英語では“Palm Sunday”と言います。これは、先ほどお読みいただいた聖書にもありましたけれども、イエスさまがエルサレムに入城されたことをおぼえる礼拝であります。今日のマタイによる福音書には「棕櫚の枝」とは書いてありませんけれども、並行箇所のヨハネによる福音書では、人々は「しゅろの枝を手にとり」と記されております。そこから「棕櫚の主日」と呼ばれています。また、この日を「受難主日」と呼ぶ教会もあることからも分かるように、今日から受難週に入ります。2月9日から始まったレント、受難節の大詰めです。これまでもそうであったのですが、このエルサレムにイエスさまが入られてからの一週間で十字架にかかられることが決定的なものとなりました。そのクライマックスが金曜日の受難日です。この日にイエスさまが十字架にかかられました。全く当たり前のことであるのですが、イエスさまのご受難がなければ復活は、そしてイースターはありません。苦しみを通り抜けたところに喜びがあります。では何故イエスさまは苦しみを受けて、十字架にお架かりにならねばならなかったのか、それは私たち全ての人間に罪があったからです。「あった」と過去の出来事としてだけ語れるものではなく、今も罪が「ある」からです。私たちは毎年、いや毎日、毎秒罪を犯してしまう者です。だから、毎年毎年イエスさまは十字架に架かられなければならないのです。

 今日はそこまでは読みませんでしたが、この箇所の後のところ12節からにはイエスさまが宮に入られ、そこの庭で売り買いをした人々をみな追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をくつがえされた、とあります。所謂イエスさまの「宮清め」です。これは一般的に私たちが思い描くイエスさまの姿とはかけ離れた姿にも思えるほどです。何故そんな行為をされたのか。宮の中で商売をすることは、律法においても許されていたのです。それは私たちの罪と対決されるためです。これは何もイエスさまが感情的になられて、そこにいた人々に腹をたてて腹いせに暴れられたのではありません。イエスさまは私たちをどんな罪びとをもお見捨てになられずに、罪と向き合って下さったのです。苦しみを受けることを承知の上でエルサレムに入って来られたのです。それは言い換えれば、私たちの心の深いところにやって来て下さるお方であるのです。
そこでイエスさまが出会われるのは何か。それは私たちの罪です。その罪を見て見ぬふりはされない、その罪を清め、その罪と対決されるためにエルサレムに、私たちの内側に入って来て下さるのです。
 イエスさまがエルサレムに入られて、最初にされたのは、この「宮清め」であります。受難週を私たちはどのように過ごすのか、先ずイエスさまに「宮清め」をしていただくことで始めなければならないのです。今回私はこの箇所を読んで、そのことを教えられました。

 5節に旧約聖書の言葉が引用されています。これはゼカリヤ書9章9節の言葉ですが、そこに「あなたの王がおいでになる」とあります。そうです。イエスさまは王としてエルサレムに来られたのです。
マルコによる福音書10章32節に次のような言葉が記されています。これはエルサレムに上る途上にあった時のことですが、「イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」それまではイエスさまは先頭に立って行かれることはなかった。おそらく、弟子たちにしてみれば初めて見るイエスさまの姿であったのでしょう。集団の先頭に立って決然としてエルサレムに向かわれる姿を見て、弟子たちは驚きました。それはきっと目をエルサレムに向け、緊張感も漂ったでしょうが、激しさを伴うものであったことだと思われます。今日の正にエルサレムに入られる時は更に決然としておられたことだと思います。マタイによる福音書ではエルサレムにやって来られるのはこの時が初めてです。それは十字架に架かられるためにこられたのですが、それは私たちの罪と戦うためにその心の中に入って来られたことであります。このマルコによる福音書の様子からも、イエスさまは王として来られた、それはご自身王になろうとしてエルサレムに来られたのです。

 そのように考えると心によぎることがあります。それはイエスさまが王になるなんて、イエスさまには相応しくないのではないかということです。しかしこれは後で述べるようにエルサレムに君臨するため、この世的な意味での王になろうとされたのではありませんでした。そしてまた、それと同時に私の心の中にイエスさまを王としてお迎えするのにある種のためらいがあるのです。それは、ためらいというよりも私自身の信仰の心構えの問題だと思いますが、イエスさまを心の王座に迎えているかと尋ねられたら、一瞬どきっとする心があるのです。
 イエスさまを心の王座に迎えること、イエスさまを信じることは、自分の全生活にわたって王として迎えることです。それはイエスさまに全てを委ねる、すべてをイエスさまに投げ出すことです。それが出来ているかと問われると不安になるのです。
 
 イエスさまの王としての入城はろばに乗ってでした。これ旧約聖書の成就、先ほど見たゼカリヤ書の成就です。旧約に書かれていることをイエスさまは当然ご存知でありましたし、またご自身がエルサレム入城されるのに相応しい乗り物はろばだと思われたのです。

 私も実物のろばを見たことはないのですが、ろばは立派な動物ではありません。英語でもろばは愚か者の意味があります。当時もろばは人々から大切にされていた動物ではありませんでした。マタイによる福音書でははっきりとは分かりませんが、マルコやルカでは「まだ誰も乗ったことのない子ろばであったと記されています。ゼカリヤ書では、ろばと子ろばとされているのを、マタイではそのまま引用していますので、ろばか子ろばかどちらに乗られたのかがはっきりとは分かりません。それはどちらでもよいと思います。大人か子どもかどちらであっても、要はろばに乗られたのです。私もろばには乗ったことはありませんが、とても力のあるもので、早くは走れませんが、とても頼りになる確実な乗り物だそうです。馬のようにさっそうとは走れませんし、歩くのもヨタヨタだったことでしょうが、思い荷物であってもしっかりと運ぶ動物であります。しかし王としてろばに乗ったイエスさまの入城は、変というよりも、滑稽でさえあったでしょう。しかしイエスさまはろばをご自分の登場に相応しい動物だとされたのです。

 出エジプト記の34章19〜20節に「すべて初めに生まれる者は、わたしのものである。すべてあなたの家畜のういごの雄は、牛も羊もそうである。ただし、ろばのういごは子羊であがなわなければならない。」ろばは献げものには相応しくない、献げものにはならない動物だとされているのです。家畜の初子はすべて神さまのものだから献げものの対象なのですが、ロバのういごだけは例外対象でありますが、ろばだけは例外なのです。神さまへの献げものにもなれなかったのです。イエスさまはそのような神さまへの献げものともなりえないものを自分の乗り物とされました。これは非常な慰めを与えられます。

 榎本保郎牧師は、自分こそ「ちいろば」だとおっしゃいました。自分は大きな働きの出来ない「ちいろば」のようなものだけれども、イエスさまのエルサレム入城の乗り物として選ばれる光栄に与ることが出来た「ちいろば」の姿は自分の姿だと思われ、あの有名な本を書かれました。子ろばは人々からもかえりみられず、神さまの献げものとしても用いられることのないものでした。しかしそんなものをイエスさまは自分の王としての入場の乗り物に相応しいものとして選ばれました。
 旧約聖書においては馬は、軍事力の象徴です。戦争に出かける時に乗るものは、当時は馬でした。ろばに乗って戦いに出向きますか。おそらく誰もろばに乗っては戦争には行かないでしょう。ろばは戦争をイメージさせる動物ではありえないのです。ろばこそが平和の象徴となりうる動物です。

 イエスさまはこの世の王として、エルサレムに君臨するために来られたのではなかった。十字架に架かるため、人々の罪と対決するためでした。先ほど交読しましたイザヤ書53章はイエスさまの歩みの預言するものだと言われていますが、あれが王の姿でしょうか。イエスさまの王としての姿は、人々の病や苦しみを身に負うて、罪と戦うものであった。そのイエスさまの入城は、ろばに乗る王こそが相応しいものであります。
ですから、今日のみ言葉にも、「見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」と記されているのです。

 始めにも申し上げましたように、このエルサレム入城は、私たちの心に深く入って来られる出来事です。イエスさまが入城後最初にされたのは宮清めでした。私たちの心を洗って下さるのですが、それは私たちには反発を感じるものでもあるかもしれません。しかしろばに乗って心の王座に入って来ていただくことを通して、私たちは平和な存在にかえられていくのです。イエスさまの姿に倣うものとなるのではないでしょうか。私たちはイエスさまに宮清めをしていただき、ろばに乗って入っていただくことで、争いをつくりだすのではなく、平和をつくりだす者となり、また柔和な者へとかえていただけるのです。

 今日から受難週です。金曜日にイエスさまが十字架にかかられました。いや、今年もこの金曜日に十字架にかかられます。そのためにもイエスさまを心の王座に迎えて、この受難週を過ごしたいものであります。今日からが特に大切な時です。この大切な時をどのように過ごすかで、私たちがかえられるチャンスとなるのです。お祈りしましょう。
 いつものように少し黙想の時を持ちます。


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