お帰りなさい。受難週が明けて、イエスさまのご復活をお祝いする、共に喜ぶイースターとなりました。皆さんのそれぞれの受難節、受難週はいかがだったでしょうか。私の受難週は「大変」の連続でした。ここではそのことについて詳しくは述べませんが、週報にも少し記しましたが、妻が所属している、また私も前任地辞任後お世話になった福岡国際教会は地盤が沈下し、今も建物自体が傾いている状態で、倒壊の危険もあるほどです。他にも福岡連合の教会の中には、壁にひびが入ったり、天上が一部抜け落ちたりしているところもあります。是非お祈り下さいますようにお願い申し上げます。
私たちの信仰の根幹となるのは、イエスさまのご復活です。その意味においては、クリスマスよりもイースターだと言えると思います。決してクリスマスがどうでもよいというわけではありませんが、イエスさまの復活がなければ、私たちの信仰は希望へとつながりせん。欧米のキリスト教国においては、クリスマスの時よりも、イースターシーズンの方が教会だけでなく、町中が盛り上がるのです。それは信仰的には正しいと思われます。
ところで、クリスマスは毎年12月25日なのですが、イースターは毎年変わります。これは、春分の日の後の最初の満月の後に来る最初の日曜日をイースターとすることによっています。もう一度言います。春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日がイースターです。ただ春分の日は世界中でさまざまとなりますから、キリスト教界では、春分の日は3月21日で全世界統一しています。確か昨日か一昨日が満月であったと思います。そしてその直後の日曜日が本日3月
27日となります。ですから、今年のように3月にイースターとなる年があるのです。今はまだ2004年度ですから、今年度は二回イースターがあるおいしい年になります。そうすると2005年度はイースターはありません。しかし心配ご無用です。これは4月から3月までを一年度とするからであって、必ず毎年イースターはやって来ます。
本日の聖書箇所は交読でもお読みいただきましたが、13節から続くエマオ途上での二人の弟子のところにイエスさまが復活のお姿を顕された話しです。この話しはマルコによる福音書16章にも同じと思われるものが記されていますが、今日のルカ福音書においては、復活のイエスと出会った話しをより詳しくまたとても印象深いものとして福音書記者ルカは残しています。
最初にこの二人の弟子ですが、一人はクレオパと名が記されていますが、もう一人の人物に関しては名前すら分かってはいません。クレオパの方も、ここ以外には登場しない人物で、ただヨハネによる福音書19章にクロパという名があり、これと同一人物ではないかとの説もありますが、正確には判りません。また、エマオという村に関しても諸説があり、その村がどこに存在していたのかも判らないようです。エルサレムから7マイルばかり離れた所と13節にありますが、これはだいたい12`ほどですから、エルサレムからそう遠くない場所であったようです。
24章の最初のところで、女たちが墓に行ってみると、墓の石が動いており、中にはイエスの遺体もなく、そこに現れた二人の天使が「イエスは生きておられる」と告げられたことが記されています。この出来事は町中で評判になっていたようです。弟子たちを始め、イエスに従っていた者たちの心は不安と恐れに支配されていたことでしょう。19節からにもあるように、イエスさまこそがイスラエルをお救い下さるお方であると望みをかけていました。しかしそんなお方にしては、あまりにも惨めにまた無力なまま、あっけなく十字架で死なれました。そんな時に、「イエスは生きておられる」と告げられても、彼らは信じられずにいました。
15節には、「語り合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」とあります。復活を信じられずにいる者の所に、イエスさまの方から近づいて来て、一緒に歩いて下さった。イエスさまはおっしゃいます。25節「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。」しかしそんな者の所にご自分の方から近づいて来て下さり、聖書全体にわたり、ご自身について記してある事を説きあかして下さったのです。
イエスさまから直接聖書の説き明かしを受けたというのですから、羨ましい限りです。しかし彼らの目が遮られていて、その人物がイエスさまだとは彼らには判りませんでした。
さて今日の28節です。二人は目的の村に近づきましたが、イエスさまはまだ先に進もうとされたので、二人は強いて引き留め、どちらかの家なのか知人の所なのかある家に一緒に泊まっていただきます。イエスさまは食卓につかれると、30節「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡」されました。すると、31節「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわか」りました。これは所謂「最後の晩餐」ではなく、「五千人の給食」と言われる二匹の魚と五つのパンで男だけで五千人の人々をにお腹いっぱいの食事を与えた出来事を二人に思い出したことによると思われます。ルカ9章16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた」この時、彼らは道すがら共に語り、聖書の説き明かしをした目の前の人物がイエスであることが分かりました。
16節では「彼らの目がさえぎられて」とありました。彼らの目がさえぎられていたのは彼ら自身に原因がありました。別な訳の聖書では、この16節は「悟りの目が遮られていた」とされています。彼らは自分たちが期待していたメシア像と十字架で亡くなったイエスの姿のギャップに悩んでいました。自分たちを導き解放して下さるお方だと思っていた主を失った悲しみと失意とで、知らず知らずのうちに心をとざしていたのです。過ぎ去ったことにこだわり、そこから一歩も踏み出そうとしない姿勢こそが、自分たちの前にお姿を顕して下さった主を認めることを遮っていたのです。私たちも過去に拘り、後ろ向きに生きるとき、甦られた主と出会うことを自らで遮ることになります。
しかし、甦りの主は自分のことを認めない、分からない者の所にご自分の方から近づいてきて下さいます。この31節の「彼らの目が開けて」とされている部分は、元の言葉では「開かれて」と受身形になっています。復活の主を見えなくしているのは、私たち人間の側の問題であるのですが、その遮られている目を開くのは、自分の人間の側の力ではなく、神によって開かれるのです。神さまが私たちの遮られた目を開いて下さるのです。弟子たちの自然的な認識能力によるのではなく、神さまのイエスさまの働きかけによって、目は開かれます。これは大きな慰めを与えられます。
復活の主と出会えない、イエスさまの復活が信じられないという者であっても、神さまはその目を開いて下さり、甦りのイエスさまを分からせて下さるのです。
彼らは言います「道々お話しになったとき、また聖書を説き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」
互いの心が内に燃える、それはどんな時であったか。それは聖書が説き明かされた時でした。そしてそのことを通して目が開かれたのです。礼拝での宣教で心が内に燃えること、そしてイエスは今も生きておられるという信仰が思いが与えられること、それがルカがここで私たち読者に伝えようとした復活の主との出会いなのです。決してこれだけが復活のイエスとの出会いではありません。皆さんの中にも、復活の主をこの目で見たという方がおられるかもしれません。また別な形で復活の主との出会いが与えられた方もおられることだと思います。しかし、イエスさまの約束が信じられず、闇の中で苦しむ時、聖書の説き明かしを通して、「イエスは生きておられる」「主は今も私たちの傍らにいて下さる」と思えること、それも復活の主との出会いであり、キリストの甦りをこの身で体験することであるのです。
この後、教団讃美歌の39番をご一緒に賛美いたします。お伺いするところによると、この讃美歌はこちらの教会ではあまり歌われないものであったようです。
「日暮れて四方が暗く、身を寄せるところもない時、また人生の終わりが近づいた時、世の暗闇が押し迫り負けそうになっている時」そんな時に「主よ共にやどりませ」と歌うのです。
5節では「十字架のくしきひかり、閉ずるめにあおがしめ」とあります。閉じてしまった目であっても、主が開いて下さる、そんな目の者であっても、十字架を仰がせて下さることを信じます。
喜びのイースターを心から喜べない心にあるとき、イースターだから喜ばないといけない、ハレルヤと言わなければならない、でも喜べない、言えない、そんな時もあると思います。しかし大丈夫です。聖書の弟子たちもそうであったのですから、今日のエマオ途上の二人の弟子もそうであったのですから。だからこそ、共に歌いましょう、賛美しましょう。
「主よ、ともに宿りませ」と。
お祈りします。しばらくの間、黙想の時をもちます。
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