「不公平な神?」
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お帰りなさい。先週は新共同訳聖書での初めての礼拝でした。新共同訳聖書には慣れられたでしょうか。口語訳聖書で覚えておられるみ言葉もおありでしょうから、最初は馴染みにくかったり、違和感があったりすることでしょうが、新しいものへの切り替えの時はどんなことにおいてもそうなるものです。少し時間はかかるかもしれませんが、しだいに慣れていくものだと思います。 言語学というのは、当然聖書においても研究は及んでおり、日々進化というか、研究が進んでいます。この研究の成果を取り入れるならば、聖書も10年に一度は改定する必要があると言われています。しかし、10年毎に聖書の改定作業を行なうというのは、とても無理な話しです。何せ対象が聖書ですから、言葉一つひとつに対する思い入れというか力の入れようが並ではありませんから、大変です。たとえば、今回の新共同訳においても、イエスとするのかイエズスとするのかは大変だったようです。私たちプロテスタントからするとイエズスと書かれてもピンとこないものです。しかしそれはカトリックの方からするとその逆であります。また、口語訳においては「バプテスマ」だったものが、新共同訳においては「洗礼」とすることとなった。しかし、これにはバプテスト教会が黙ってはいなかった。それで最終的には「洗礼」にバプテスマとルビをふることで決着したのですが、このように聖書の改定はそれぞれ の教派の主張があるためとても困難な作業です。しかし言語学の成果を取り入れる必要はありますから、30年に一度は改定をすべきものだと思います。バプテストの他の教会においてはどうなのかとよく尋ねられるのですが、2003年度のアンケート調査によると、全体の6割ほどが新共同訳を使用しているとの結果がでています。また、ミッションスクールでは生徒には100%新共同訳を配布しています。ですから、ミッションスクールに通う子どもたちは新共同訳を持っています。そのようなことからも、時代は新共同訳聖書に傾いていると思います。皆さん戸惑われることもあるかとは思いますが、だんだんとこの訳に慣れていって下さればと願います。 さて、今日の箇所ですが、ここを読んで皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。神さまは悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるのであるから、全く公平なお方だと思われるでしょうか。正しい者や善人と同じように正しくない者や悪人をも養い生かされる神さまが公平な方だなんて思えない。悪人がのさばっているのに、その悪人をこらしめにならず、どうしてほっておかれるのか分からない、と思われる方もおられるのではないでしょか。 一体神さまは公平なお方なのでしょうか。善人は報われず、悪人が好きなことをしておいしい目をしていることが世の常だとも思えます。正直者は馬鹿を見て、要領よく立ち回り、不正をしてもしらばっくれるような者が得をしているように思えます。しかし、それだけでなく、持てるものはますます多く持つものとなり、持たざるものはそのなけなしのものさえ奪い取られるようになってはいまいか。また、持ち物だけでなく、生まれる環境や、才能の面においても全く平等だとは思えないことが余りにも多くないか。裕福な家庭に生まれ、その容姿さえ美しく、性格も人から好かれるような人がいる一方、貧しい環境に生まれ、能力も持ち合わせていない人が多く存在する。神さまが公平なお方であるなら、こんな理不尽なことをお許しにはならないのではないか。 それは全くその通りだと思います。そのように環境や持ち物といった目に見えるものの尺度で見るならば、世の中には平等などということはありません。ですからその面から言えば、神さまは人に分け隔てなく公平にお与えられるお方ではありません。全ての人間に等しく与えられているのは、死ぬことと苦しむことだけでしょう。 今日のこのマタイの5章43節は、同じような趣旨の話がルカ伝にも記されています。これも余談ですが、新共同訳の便利な点の一つですが、並行箇所が載せてられていることです。これはほとんどが福音書においてのことですから、四つある福音書を読み比べることで、それぞれの福音書記者の視点から見たイエス像を浮き上がらせることが出来ると思います。 ここの並行箇所はルカ伝の6章です。そことを読み比べてみると、いずれもイエスさまは愛すること、それも自分の敵を愛せよ、そして自分を迫害する者のために祈れ、ということを教えようとして、今日のみ言葉を語られているのが分かります。天の父は悪人であるか善人であるかにかかわらず等しく太陽を昇らせられる、また正しい者であるか正しくない者であるかにかかわらず同じように雨を降らせられる、あなたがたも天の父の子となるために、敵を愛せよ命じておられるのです。 敵を愛すること、これがどれほど困難なことであるかは、私たち一人ひとりが胸に手を当ててみれば考えるまでもなく分かります。困難というよりも不可能なことだとも言えると思います。それも今日のパラグラフの最後の48節では「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」とおっしゃっています。天の父である神さまと同じように完全なものになんかなれっこない、それが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。 しかしイエスさまは敵を愛せよ、とおっしゃる。敵を愛するということは、私たちが教会の外に出て行ってはじめて経験することではありません。ギブアンドテイクが世の中の常識だとされています。しかしイエスさまの愛は見返りを求めず、ただ一方的に与え続けることだと教えられています。ひたすら与え続ける愛の世界があるのではないかということです。与えたらそれを何らかの形ですぐ取り戻そうとする。何かをいつでも期待している。愛とは裏返しの憎しみの世界に生きていることが余りにも多いように思えます。親子の間でも、夫婦の間でもすぐにそうなります。それだけに今日のみ言葉の前に、私たちはとまどい、たじろぎます。私たちの現実とは余りにも違うかけ離れたことをイエスさまは望んでおられるように思えるからです。しかしだからこそ、私たちはなぜ、こうなってしまうのかを正直に顧みたく思います。そこに現われてくるのは、私たちの罪の姿です。 棕櫚の主日の時にもお話しましたが、エルサレムに入られてイエスさまが最初に何をされたのか、それは宮清めでした。エルサレムの宮において商売している商売人の台や腰掛けをひっくり返し、その商人たちをみんな追い出された。それはイエスさまが私たちの罪と対決するためになさった事でありました。 詩編51編を見てみましょう。
旧約聖書の884頁です。(1〜21節)これはあのダビデが自分の部下のウリヤの妻バトシェバとの姦淫の罪を預言者ナタンに指摘された時に詠んだ詩だとされています。私たちは罪の中に生まれ、罪を犯し続けた者であることを告白しています。このダビデの姿は私たちの姿であります。私たちの心の内側は、人を愛するどころか、人に無関心であったり、またどうでも良かったり、利害が絡むとその相手を恨んだり、呪いを願ったりする者であるのです。 聖書教育にも触れられているように、福音書特にマタイとマルコにおいては、イエスさまは「罪人」とおっしゃらずに、「悪人」「悪い者」という言い方を多くなさっています。「罪人」は、律法を守らないという外面的特徴を指し、ファリサイ派が好んで用いました。それに対してイエスさまは、心が曲がっているという内面的な面を指摘される時に、「悪人」「悪い者」という言い方をされるのです。心が曲がっているとは、心が正しい方向に向いていない、すなわち神さまの方ではない、別なものに心が向いていることを指します。私たちの心は神さまの方にいつも向いているでしょうか。心が神さまの方に向かない時に、私たちは罪を犯してしまうのです。 ひまわりという花があります。これは英語でも“sun flower”といいますが、だいたいどこの言葉でも、太陽と関係した名前がつけられています。これはその花びらの姿が太陽をイメージさせるからでしょう。ひまわりは、常に太陽の方に顔を向けている。太陽を求めています。その命の全てを賭けて太陽を慕っている。するとどうなったか。その姿までが太陽に似るものとなった。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(Uコリント3章18節)私たちも主の方にいつも顔を向けていると、ひまわりがその姿が太陽のようになったように、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられることを信じたく思います。 今日の箇所に出てくる「悪人」とは誰のことでしょうか。「正しくない者」とは一体誰のことをイエスさまはおっしゃっているのでしょうか。ここは山上の説教と呼ばれているイエスさまの教えが記されている中の話ですが、ここを読むととても厳しい、とても守れないと思ってしまうほどの勧めの連続です。 たとえば、5:21〜22、27〜30、38〜39。
この山上の説教においてのイエスさまの教えを何一つ守れないような者であることを思わせられる時に、私たちは自分が恵みを受けるのに値しないものであることを、また罪赦されざるものであることを示されます。そう思うと、悪人が懲らしめを受けずにいることに対する不満ではなく、自分のようなものが赦され、神さまによって愛されていることの感謝が起こされます。神さまは不公平な神なのではなく、すべての悪人を赦され生かされる、愛と恵みの神であることを思わせられます。神さまは今日も私に太陽を昇らせて下さって感謝します。アーメン。お祈りをします。黙想の時を持ちましょう |