「神さまの気前よさ」     


 マタイによる福音書20章1〜16節 
 2005年4月17日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 お帰りなさい。本日の聖書の箇所は「ぶどう園の労働者のたとえ」として良く知られた話です。前にも申し上げましたように、本年度は聖書教育に沿って、礼拝のメッセージをさせていただきます。4〜6月までの三ヶ月間はイエス・キリストの宣教、中でも「神の国」の宣教について取り上げます。神の国とは、神さまの支配の及ぶ所であり、それはこの世の価値観とは異なる場所です。それは私たちの理解を越えた教えではあるのですが、ただ理解を越えているという言葉だけでは言い尽くせず、私たちのこの世の常識から判断するならば、とんでもない教えでした。それは当時の人々を混乱させるだけにとどまらなかった。生き方そのものが揺さぶられた。今まで拠り所としていたものが根こそぎ覆されたのです。

 先々週イエスさまは目に見える状況としてはとても悪いさなかに「神の国はすでにやって来た」とおっしゃいました。これは信じ難いことでした。また先週は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と命じられました。これもとても困難、いや不可能とさえ思えることでした。イエスさまは全く意表を衝かれるお方です。世の常識という物差しでは全く測ることの出来ないお方です。当時の人間からすると何を言い出すか分からないおたずね者であったと思います。そしてそれは現代に生きる私たちにとってもそうなのではないでしょうか。

 私たちはもっとみ言葉に驚く必要があると思います。特にイエスさまの言葉には人を驚かすだけではなく、人の魂を揺さぶり、ある意味ずたずたにするほどの力があるのですから。変にイエスさまの言葉に馴れてしまう方が良くないのではないでしょうか。毎回、このお方は何を言い出されるのかと不信に思う方がみ言葉に反応しているのかもしれません。以前に読んで、もう既に分かっているなどと思わないことです。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ人への手紙4:12)

 さて、今日のたとえ話ですが、これはさまざまな解釈がなされております。最初にイエスさまが「天の国は次のようにたとえられる」とおっっしゃっているように、これは天の国、すなわち神の国を教えようとして話されたたとえ話です。労働者の働き始めた時間を、生涯における神との出会いの時期とする解釈があります。また一日中働いたのはユダヤ人で、後から来た者は異邦人とする考えや、朝から働いたのはパリサイ人や律法学者たち、途中から働いたのは取税人や罪人たち、さらには、一日中働いたのは弟子たちで、後の者は後から教会にやって来た新来者たち。そのようにさまざまな解釈があります。どれもその通りであると思います。                                        

 しかしこのぶどう園の主人のやり方は世の常識からすると、受け入れ難いものであることは確かです。彼は夜明けから働いた者に「1日につき1デナリオン」の約束をしているのですから、不当なことをしているわけではありません。でも、夕方の5時から働いた者に1デナリオンを与えているのですから、夜明けから働いた者たちが不平を言うのは当然のことに思えます。しかしこれこそが、今日のタイトルにもしましたように「神さまの気前よさ」であるのです。

 この「気前のよさ」のところは、文語訳聖書では「我よきが故に汝の目あしきか」とされています。原文に忠実なのはこの文語訳聖書の方です。「わたしが良いのであなたの目が悪くなったのか」という意味です。

マタイの6章22節に「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」とあるように、心の目が曇って悪くなると、妬み心が起こってくるのです。心の目というだけにとどまらず、目に見える顔つきの目、目つきまで悪くなることでしょう。そして妬むことで罪を犯してしまうのです。この妬みの原因は自分がどのようにもてなされているか、扱われているか、それをいつも他人と比べてしまうことです。自分の方がもっと評価されてしかるべきなのにちゃんと評価されていない、それに比べてあの人は実際以上の取り扱いを受けている、と妬み、嫉妬が起こるのです。そして目つきまで悪くなってしまうのです。

 またこの「良い」と訳した単語は「完全な」とも訳せる言葉です。ですから「わたしが完全な者であるのであなたの目が悪くなったのか」とも訳せます。この主人とは神さまのことですから、神さまが完全に神でいて下さる、神さまが全く神としてふるまっておられることになります。すなわち「自分のものを自分がしたいようにするのは当たり前のことではないのか、したいようにしてはいけないのか」という問いであるのです。神である私が自分の物を自分の思う通りに用いて、振る舞って何故悪いのか、全く自由に神であろうとする。その振る舞いを見て、人は何故目が悪くなるのか。

 神さまには神さまの計画があったのです。それは一人でも多くの人を働かせて、報酬を与えたい、恵みに与らせたいという計算です。しかし朝から働いている労働者はそういう計画を知りません。朝広場に立った時はみんな条件は同じだったはずです。その時点においてはまだ誰からも雇われずにいた。もしそのまま雇われずにいたら、家族は飢えに苦しまなくてはならない。それがたまたまというか運よくと言うか、朝一番に雇ってもらえた。そこでなるほど、一日汗水たらして働いたかもしれない。そしてその得たお金で家族が暮らしていける。生活さえ出来れば満ち足りるはずなのに、それだけにとどまり得ない。他人と比べてしまう。そこで平等に扱われてはじめて、正義が成り立つとは考えないのです。ましてや自分が失業中のことや、自分が雇われることで仕事にあぶれた者のことなど、思い浮かべることもしないのです。働きの場が無いことの苦しみを知っているはずだけれども、しかし一度自分が恵みを与えられると、自分が残してきた仲間のことを忘れてしまう。いや、本当は覚えているのです。そしてその人と比較して、「ああ、自分はあいつのようにならなくてよかった」と満足するのです。

 しかしこの不平を主人はたしなめます。そして誰に対しても同じように報いたいし、恵みたいのだと言います。これが神さまのお考えになる気前よさであるのです。この神さまの気前よさは、誰がどれほど働いたかということを超えて、その人にとって最も大切なものをその人の思いにまさって与える、気前よさを意味するのです。そういう神さまの善意です。何にも束縛されず、全く自由に、私たち人間の知恵が心得る平等の原則などというものに束縛されず、全く自由に「この人には何が必要であるか」ということだけを考えて、そのことだけを願って、慈しみを与え、憐れみをほどこす、神の全くの善意であります。最初にも述べましたようにさまざまな解釈があり、どのようにも読めると思います。ただ重要なのは、これを神と自分との切実な物語、もっと言えば神さまがどれほど愛して下さっているかを読み解くということです。

 自分をどこにおいてもよいのですが、今度は最後に雇われた者の立場に立って考えてみましょう。もう日も暮れかかっています。一日立ちんぼうをしても仕事がなかった。そんな時に、「なぜ何もしないで一日中立っているのか」と声を掛けられた。今からでも遅くない、来て働きなさい、私が雇う、絶望することはない、私のぶどう園でならば一人前に扱うと言って、自分について絶望し始めている者を神はお招きになるのです。たった一時間でもよい、ぶどう一房でもよい、私のために働いてごらん、とそう言って、招いて下さるのです。これが私たちの姿です。しかし私たちはその招かれたことを忘れてしまうのです。そのようにしてかみさまの憐れみによって招かれたのに、いつの間にか、自分は一日中十分働いた者だと思い込んでしまいます。

そして神の国での報いの与えられ方は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ようなものだとイエスさまはおっしゃいます。これは先にいると思っている物にとっては大きなチャレンジであり、また試練の時となります。私たちはどうしても順番を気にしてしまいます。しかしいただけるものは決まっているのですから、そして気前のよい神さまはそれを裏切られることはないのですから、その神さまを信頼して待つことを神さまは求められます。神の国に招かれる資格は誰にもありません。それは雇い主が労働者を雇うように、ただ雇い主の考え方次第なのです。自分のような者さえ、ぶどう園の中に迎え入れられていることを今一度感謝すると共に、自分を愛して下さっている神の愛が、一人でも多くの方を捕らえるように願いたいと思います。



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