「イエスさまの線引き」     


 ルカによる福音書6章20〜26節 
 2005年4月24日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。今日もこのようにご一緒に礼拝を献げられる幸いと恵みを心から感謝いたします。私にとって高知はずっと憧れの地でした。そして実際に高知にやって来てもその思いは萎えることはありません。その理由の一つは、他の真似をするのでなく独自の道を歩もうとするユニークさにひかれるからです。高知には町づくりとしてユニークな姿勢が多く見られます。馬路村しかり、まんが甲子園しかり、それ以外にも他に追随するのでなく、新しい視点や文化を創り出そうとされているのはとても魅力的で、21世紀の時代を生き抜く未来の視点があるように思えます。先月行われたストリートダンスの全国大会の取り組みもとても興味深かったです。ブレイクダンスといういまだ、一つのダンスのジャンルとしては市民権を得ていないこのダンスの全国大会を若者だけでなく、町の活性化のためにと商店街のおかみさん会が後押していったことなどとても面白い取り組みだと思いました。実は今日は高知県内在住の外国人青年による土佐弁ミュージカルが追手前高校で夕方の五時から行われます。総会の終了時間がとても気になるのですが……。私もこの町の発展のために少しでも寄与できればと願っています。

今月はずっとイエスさまの神の国の宣教について学んでおりますが、皆さんはどのようにお感じになっているでしょうか。私は今一度、イエスさまの教えの厳しさと深さ、そしてその意外性に驚かされています。私はつくづく思います。イエスは世界で最も過激な人物であることを。それは当時においては言うに及ばず、二千年の時を経た現代においても、これほど過激な人もいないだろうと思います。これは殺されても仕方がない。いや仕方がないというと、十字架に付けた罪を正当化することになりますから、それほど人々の心を刺激したと言うのがよいのでしょうか。イエスさまは人が最も衝かれたくない点を衝いてこられるのです。イエスさまの教えには甘さというのがありません。これくらいはまあいいかというのを赦されないのです。自分はあの人とは違ってちゃんとしていると思うそういった心には妥協されないです。

私たちの心には「自分は大丈夫と」いう思いがないと言えるでしょうか。自分は教会生活も長いし、それなりに真面目にやってきている、人さまにもそれほどの迷惑をかけているわけでもない。確かに自分にも悪い点はあるし、完全ではないとは思う。しかしまあ、警察のお世話になるほどのことはしていないし、この社会に生きる者としては人から後ろ指を指されるほどの人間でもない。この代表がファリサイ派であり、律法学者であったのです。彼らは当時の社会においてはちゃんとした立派な人でした。社会的にも宗教的にも、きちんと責任を果たしたひとかどの人物たちであったのです。しかし彼らの心には「自分は大丈夫」があったのです。イエスさまは彼らのこの心には全く妥協されずに徹底的に戦われています。

イエスさまはその一方、当時の社会において差別され、疎外されていた人たちに近づいて行かれました。彼らはその日常生活においては報いを受けていないように思っていました。その彼らの心に寄り添っていかれ、自らその友となられたのです。そしてあなたたちも神からの報いを受けることが出来るのだと宣言されたのです。今日はこの神からの報いに焦点をあてて、共にみ言葉に聞いていければと思います。

さて今日のルカによる福音書の箇所ですが、同じような内容の話がマタイによる福音書にも記されています。そことも比較した上で見ていきたく思います。

今日の箇所の前のところでは、イエスさまの教えを聞くため、また病気をいやしてもらうために、おびただしい数の群衆が集まってきていました。この時点において既にイエスさまに対しての注目は大きなものがありました。多くの病を持つ人々を癒し、汚れた霊に悩まされている人にも力あるみわざをなし、律法学者やファリサイ派の人たちとも堂々と論争をし一歩もひけをとらずにおられたイエスさまに対しての民衆の期待は絶大なものがあったのです。彼らは固唾をのんでその口からである教えを待ったのです。

「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」

その言葉は衝撃的なものでした。貧しい人々が幸いであるというのです。旧約の時代においても貧しい人たちを守るような律法の規定はあります。しかしそれは憐れみを受ける対象としての事であって、貧困であることを幸いな事と述べる考えは当時に考えられない教えでありました。

また、ここにおける「貧しい」と訳されている言葉は、元々は「物乞い」をするという意味です。ある聖書の訳ではここは、「幸いだ、乞食たち」としています。私たちもこの不況で以前よりは貧しくなったという程度の貧しさでは全くなく、その日の食べ物にも事欠き物乞いをしなければ生きていけない人々に対して、イエスさまは幸いな人々であるとおっしゃっているのです。

「貧しさ」だけではありません。21節「飢えている」「泣いている」人々、22節「憎まれる」「ののしられ、汚名をきせられる」時、「あなたがたは幸いである」と言うのです。

貧しいこと、飢えること、泣かねばならないような状態にあること、また「人の子(これはイエスさまのことですが)」のために追い出され、ののしられる」これはイエスさまのことで迫害を受けることでしょうが、これらは考えるまでもなく、本来的には避けたいことでしかないことであり、どう考えても幸いなこととは思えないことです。それをイエスさまは「幸いである」と断言されているのです。

最初にも述べましたように、これと同じような内容のことがマタイによる福音書5章に記されています。しかしそこをよく見ていると幾つかの違いが見出されるのです。

まず、最初に気づかされるのは、マタイがこの「貧しい」に「心の」を付加している点です。これはマタイが物質的な意味の貧困ではなく、精神的な貧しさの問題であると解釈したのでしょう。しかし聖書学において言われているのは、元々の原型を留めているのはルカの方だろうと言われています。イエスさまはそのものの貧しさを念頭においておられるのです。

さらにルカには、マタイにはない「不幸である」(口語訳は「わざわいである」)とされる言葉が24節から記されています。「富んでいる」「満腹している」「笑っている」「人にほめられるとき」不幸であるとおっしゃっています。こちらの方が幸いな状態であると考えられるのですが、イエスさまはこういった人々は不幸だと断言されるのです。イエスさまは両者の間に線引きをしておられるかのようです。

 しかしマタイでは「心の貧しい人々は幸いである、天国はその人たちのものである」と、全て三人称で書かれているのに対して、ルカでは「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と二人称で記されています。マタイもルカも弟子たちに向かって語られているように記されていますが、マタイでは語った相手が明確に記されていないのに対して、ルカは6章20節で「イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた」とはっきりと弟子たちへの言葉として書かれています。実際弟子たちは家族や仕事を捨てて、イエスに従ってきたのですから、貧しく、また飢えていたでしょう。しかし、この後半の不幸の項目の24節においても「富んでいるあなたがたは不幸である」と述べているのです。そうすると、前半は貧しい弟子たちに向かって語られた言葉で、後半は富んでいる弟子たち以外の人々に語られた言葉になりはしないでしょうか。

 イエスさまは明らかに線を引いておられます。その線は年収がいくらまでが貧しいものであり、いくら以上が富んでいるものであるというものではありません。また、GDP 国内総生産がいくらまでと線引きされているのでもありません。貧しいものもあなたたちなら、富んでいるものもあなたたちなのだとおっしゃろうとされているのでしょう。誰だって今日の勧めを聞けば、自分もある程度は裕福かもしれないが、あの人よりは貧しいと自分を納得させてしまうものです。今朝は朝寝坊したので、今お腹が空いている、だから自分は飢えているのだ、というものでは全くないのです。

 この線引きは私たち自身の中に引かれているのです。私たちは富める者になり、満腹する者になり、笑っている者にもなり得るし、すでになっている場合がしばしばであります。ここには弟子たちがいる。その弟子たちを見ながら、イエスがおっしゃった。富んでいる人たちはそこにはいない、満腹している人たちもいない、しかし貧しく、恵みが少ないかのように思えるあなたたちもすぐに富める者としてのわざわいに落ち込む危険があることを指摘されているのです。

 今日の言葉は貧しい者にだけ語られているのではありません。ルカによる福音書には、19章で富んでいる者の代表とも言える取税人ザアカイの物語があります。イエスさまはザアカイの家に泊まられ、その富める者の財産を用いてのもてなしを喜んで受けられています。また同じルカが記したと言われている使徒言行録、口語訳では使徒行伝ですが、そこにも紫布の商人であったリディアの話もあります。そういった裕福な富んでいる者にも福音を説いておられるのです。一見すると、イエスさまは弱い人、罪ある人にばかり目を向けておられるようですが、決してそうではなく、今日のところの言葉で言うならば、不幸だとされている「富んでいる人」「満腹している人」「笑っている人」を切り捨てておられるのでは全くありません。

 また、イエスさまは決してここで、あなたがたが貧しいときに、また飢えているとき、泣いているとき、その貧しさや飢えているということの中に値打ちがあるのだと言っておられるのではありません。貧しければよいというのではないのです。問題は今日のそれぞれの勧めの後半を見れば分かります。 

 21節 あなたがたは満たされる

 23節 天には大きな報いがある

 24節 あなたがたはもう慰めを受けている

 問題となるのは、今現在満たされているか、報いを慰めを受けているかということです。そこに線を引かれているのです。この地上において報いを受けているか、天の国において報いを受けるかということです。富める者たちはその富んでいるということによって、24節で言えば慰めを受けてしまっているということにあります。また25節の言葉で言えば満腹しているということです。この地上では、今たとえ報われていないとしても、キリストが与えて下さる絶大な慰めと満たしと報いを期待しているかということです。今受けている報いに満ち足りて、イエスさまからの報いを拒否してしまわないようにすることを、イエスさまは指摘しておられるのです。

 ヨハネによる福音書16章16〜24節を見ましょう。新約聖書200ページです。

 ここでイエスさまがおっしゃっている「父のもとに行く」というのは、ご自分が十字架にかかられて苦しみを受けて殺されることです。ですがこの時の弟子たちはその意味が分からずにいました。そして実際イエスさまが十字架に死なれた時、彼らは嘆き悲しみました。

 20節「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に苦しむ

     が、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜

     びに変わる。」

22〜24節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、

     わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜

     ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者は

     いない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何

     も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたし

     名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今ま

     では、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなか

った。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは

喜びで満たされる。」

 このイエスさまの約束は、復活というかたちで成就しました。イエスさまは根拠の無い絵空事を約束されているのではありません。この世において報われることがなくとも、また今悲しみに暮れて泣いているとしても、それは喜びに変わる、笑うようになるのです。

 私たちがこの世にあって、財産が与えられているならば与えられているままに、知恵が与えられているならば与えられているままに、あるいはまた、その知恵にいささか貧しいところがあり、物質の宝において、いささか貧しいところがあったとしても、私たちが受ける真実の報いは、この貧しさの中には無いのです。またこの豊かさの中にも無い。死を越えた彼方になお生きておられるイエス・キリストが、そしてその父なる神が与えて下さるとこしえの宝の中にあるのです。だからこそ、私たちは貧しいことに耐えることが出来る。あるいは時には、喜んで貧しくなることが出来るのです。そして私たちの主なるキリストに望みをおいて、すべてをより頼んで歩むことが出来るのです。お祈りをいたしましょう。いつものようにしばらくの間黙想の時をもちましょう。


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