「嫌われ者集まれ」
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皆さんお帰りなさい。聖書には福音書が4つあります。そしてその中のマタイ、マルコ、ルカの三つは内容が類似していることや共通のものが多くあることから、共観福音書、共通の「共」に観光の「観」共通の観方をしている福音書という意味ですが、共観福音書と呼んでいます。今日の話も共観福音書、マタイ・マルコ・ルカのそれぞれに記されています。しかしこれらはそれぞれの福音書記者がその人固有の意図を持って記したのだと思われます。今日はその中のマルコの記したレビの召命物語を中心に見ていければと思います。 13節は、マルコの特有の編集句とも言われるもので、所謂つなぎの言葉です。何気なく読み過ごしてしまうところですが、ここからイエスさまの行動パターンというか、イエスさまがどのようなことに心を向けられていたかが分かります。 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあります。口語訳ではここは「イエスはまた、海べに出て行かれると」とされています。「再び」「また」というのは、何度も湖、これはガリラヤ湖のことですが、そこに出て行かれた、それが習慣的な行為であったとマルコは述べようとしたのでしょう。たまたまガリラヤ湖に行ったというのではなく、何度も出向かれた、イエスさまの心がガリラヤ、これは当時は辺境の地でありましたし、1章14節にもあった通り、福音宣教の場にガリラヤを選び、そのことを実践しておられたことが読み取れます。 「群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」ここも日本語の訳には現われてないのですが、これも元々の意味は「群衆が彼のもとに来始めた。そこで彼は彼らを教え続けた」とそれがその場かぎりの行為ではなく、過去の習慣的行為であったことを示しています。すなわち、イエスさまは湖の畔でいつも民衆に教えていた」というのです。 そのように読むと、14節のアルファイの子レビがイエスさまに従って行ったのも、一人の取税人が召されたことのみをマルコは記そうとしたのでなく、民衆の一人として、それもこの後の話からも分かるように、取税人・罪人の一人として召されたこととして記したのだと思われます。ちなみに13節に当たる描写はマタイにもマルコにもありません。 14節 この人物の名前は、ルカでもレビとなっていますが、マタイではマタイとされています。さらに、レビという人物は12弟子名前のリストにはなく、ヤコブという名の人物が代わりに記されています。しかしここにおいては、その人物の名前にこだわる必要はありません。大事なことはこのレビが取税人であったということです。新共同訳では徴税人となっていますが、取税人の方が馴染みがありますので、取税人で通させていただきます。 当時のユダヤ地方はローマ帝国に支配された属州でした。ローマ帝国は税金を徴収するために、税金を集める仕事を請け負う人間を公募し、それに応えた者に税金を徴収する権利を売りました。そのためその権利を手に入れたこの取税人たちは権利を持っている地域においては、どんな税金の取立てをしても良かったのです。そして要求された以上に徴収した分は、すべて取税人の懐に入ったのです。ローマの後ろ盾があったのですから、相当乱暴に税金を取って私服を肥やしていたようです。このため彼らは人々の反感を買い、同じユダヤ人でありながら、ローマにその魂を売り渡した奴としてひどく嫌われていました。レビはその取税人の頭の手下の一人であったと思われます。 今日の物語の場面である収税所は一種の関所、税関のような所です。このレビはその税関に一日中座って、その街道筋を行く人をじっと監視していたのだと思います。関税を払わなければ通れないのですから、そこを通る人の中には物を隠して通り抜けようと思った人もいたでしょう。そういう者を呼び止めて税金を払わせるのです。そこに彼は毎日座っていた。自分でこの仕事に着くことを買って出たのですから、仕方がないとも思えますが、因果な商売です。彼の心はどんどんすさんでいったことだと思います。 彼は現場の職員として一日座ってそこを通る人を監視しなければならなかった。彼も一所懸命に目を光らせていたかもしれませんが、そこを通る者も特別な目でレビのことを見たにちがいありません。軽蔑の眼差しに晒されていたのです。排除と差別の眼差しです。のけ者にされ、嫌われ者を見る目で見られ続けたのです。その冷たい視線に耐えているようなレビの生活の中で、全く違った、新しい視線が注がれました。 14節の「座っているのを見かけて」とある「見かけて」という言葉は重い言葉です。そして「わたしに従いなさい」と言われて、レビは立ち上がってイエスさまに従ったのです。噂には聞いていたかもしれませんが、レビはイエスさまに会うのは初めてだったと思います。「わたしに従いなさい」との言葉だけでこんなに簡単に人がついて行くのかと初めて読んだ時は思ったものですが、それだけの変化を起させるだけの眼差しで、イエスさまは彼を見つめて声を掛けられたのです。 これより前の所でペテロたちもイエスさまから声を掛けられて、漁師の職を捨ててイエスさまの後に従って行きました。これもすごい決断ですが、その気になれば彼らは漁師に戻ることも可能だったでしょう。しかし取税人が再びその職につくことは不可能だったと思います。取税人であったレビにとってのイエスの後に従っていくという決断はそれほど重いものであったのです。彼はそれでも良かった。自分の心の空白を埋めてくれるものをイエスさまに感じ、レビはイエスさまに従って行ったのです。 15節からには、イエスさまがレビの家に行かれ、食事をされたことが記されています。この時イエスさまの弟子たちだけでなく、多くの取税人や罪人とされていた人たちが同席していたことが波紋を呼びました。イエスさまという人は常識的に生きている者にとっては、とても人騒がせな人物です。取税人は先ほども述べたように人々から嫌われて社会から排除されていた種類の人間です。また、この「罪人」というのも、一言で言えば、神の掟に背く生き方をしている人のことです。ですから世の常識に従って生きている人間からすれば、これまたのけ者であり、嫌われ者、もっと言うとならず者の集団のことです。 ファリサイ派の律法学者たちにはそれがどうにも我慢がならなかった。この人たちはとても真面目人たちでした。真面目というのは字義通りの意味であり、心から熱心に神を求め、その神からの掟である律法を守ることに誠心誠意尽くしていたのです。彼らは取税人のように金に釣られて民族としての誇りを失うような類の人たちではなく、それどころか政治権力に身を屈めることなく信仰の筋道を通そうとした人たちでありましたし、律法の定めを守ることに思いをすべてを注いでいたのです。それゆえ彼らには、律法を守ろうともしない者や守れずにいる者のことが受け入れられなかったのです。 聖書教育にも記されてあるように、食事を共にすることは愛と友情のしるしであります。罪人と一緒に食事をするという事は、罪人に身を委ねることであり、罪に身を染めることになると彼らは思ったのです。だから罪を犯さない者だけが神さまに招かれるのだと信じていました。そんな彼らが民族の裏切り者とも思える取税人や神さまに招かれることなどありえない罪人たちと平気で食事をするイエスに対して憤りを感じたのは当然のことでありました。 しかしこれこそがイエスさまがこの世にお出でになった目的であったのです。17節でイエスさまは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。嫌われ排斥されている者、仲間に加えられずにいる者、そのような人々よ集まれ、私はあなたたちとこそ食事をする、罪あるあなたたちをこそ招くのだ、と。 イエスさまは罪の概念そのものに疑問符をつけられました。罪を罪として規定する律法主義的あり方そのものを問題視されたのです。罪が赦され、汚れが清められて初めて受け入れるのではなく、ファリサイ的律法主義によれば罪人として社会から排斥されてしまうような人々とこそ、自分は積極的に連帯するのだと宣言されたのです。人間を罪人とみなして正しい人と区別し、共に食事することすらしないという分け隔てを批判されました。それも言葉の上だけでなく、実際そういう人々と食事をすることで、彼らを罪人と決め付ける視点そのものを廃棄されたのです。 16節のファリサイ派の人のイエスさまに対する批判をルカは「つぶやき」と記しました。ルカの5章30節です。マルコにもマタイにもそのようには書かれてはいません。これはルカが書き加えたものだろうと言われています。ルカはファリサイ人たちの批判の中につぶやきを聞き取ったのです。つぶやきは不信仰という最も深刻な病気にかかっているしるしであります。エジプトから導き出された旧約の民たちもつぶやきました。エジプトの苦しい境遇から導き出された彼らは、四十年の荒れ野の旅の中で、モーセに対してどれだけつぶやいたことか。それは神へのつぶやきでした。神さま、どうして私たちにこんなつらい旅をさせるのですか、私たちは飢えています、渇いています、何とかして下さい、と何度もつぶやいた。エジプトにいた時はいた時で、耐えられませんからどうぞ導き出して下さいと言っていたのですから、全く自分勝手なものです。しかし喉もと過ぎれば熱さを忘れるように、エジプトから出てからも、何でこんなつらい目に遭わせるのですか、とつぶやいたのです。 しかしこのつぶやきの物語を出エジプト記の中に読む進む時、思いがけない言葉に出会います。出エジプト記16章8節です。(読む) わたしはあなたたちの不平、つぶやきを聞いた。だからあなたがたに日々、朝に夕に必要な糧を与える。不信仰のつぶやきを聞きながら、ただそれをさばき、叩き潰すのが神さまのなさったことではなかったのです。つぶやきの中に聞こえる、人の病、人の惨めさ、その悲しみを神さまは癒そうとなさったのです。 先週も申し上げたように、イエスさまは決して罪人たちだけに目を注いでおられたのではなかったと私は思います。取税人たちを排除したファリサイ派の律法学者たちのことを、ただ一方的にさばかれたのでないと思います。その律法学者たちの心にあったつぶやきにも心をとめておられたのだと思います。 私たちの心にもつぶやきがあります。自分でも気づかないうちに、たとえ声には出さずとも、すぐにつぶやき、不平を言いたくなっている自分があることを思わせられます。しかし出エジプト記に記されているそのつぶやきを神が聞き届けて下さったように、私たちのつぶやきにも耳を傾けて下さることを信じます。これは大きな慰めを与えられます。 「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」ピリピ書2章14節とパウロも言っているように、つぶやきは罪です。しかしその罪を犯す者をもイエスさまは招いて下さるのです。嫌われ者は取税人だけではありません。律法学者たちもそうでした。私たちは嫌われ者になることを恐れます。また嫌われ者であることを気にします。そんな嫌われ者を招いて下さるのがイエスさまなのです。 お祈りをしましょう。今日与えられたみ言葉と導きに心を向けるために黙想の時をもちましょう。 |