「神の御心って?」     


 マルコによる福音書3章31〜35節 
 2005年5月8日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



お帰りなさい。今日もこうして皆さんとご一緒に礼拝出来る恵みを心から感謝申し上げます。今日は年に一度の野外礼拝の日です。こうして大自然とはいきませんが、この穏やかな季節に屋内ではなく、外に出て礼拝を献げ神さまの創造のわざに触れることで、神さまをより身近に感じることが出来れば感謝です。

皆さん、来週の日曜日は何の日だかご存知でしょうか。イースターから50日目の記念日、そうです、ペンテコステです。このペンテコステこそがキリスト教会が歴史上に初めて生まれた日です。教会暦をあまり重視しないバプテスト教会においても、このペンテコステとイースターとクリスマスだけは記念日として覚える必要があるのではないかと思います。ペンテコステに聖霊が使徒たちに降り、その場にいた多くの人たちがキリストを証し始め、そこに教会が生まれました。私たちも聖霊を受けて、キリストを証するものとなりたく思います。来週はそのペンテコステの出来事から語らせていただければと思っています。ご加祷下さい。

ご存知のように四月より聖書教育の教案の箇所をテキストにメッセージさせていただいています。この三ヶ月はマルコによる福音書を中心にイエスさまの教えを通して、今一度キリストと出会うことが出来ればと願っています。また今月のテーマは「人々と共に」です。これは世にある人々と共にということもありますが、特に教会に呼び集められた人々と共にということを念頭においています。教会を指すギリシャ語のエクレシアは「呼び集められた者の群れ」という意味です。今日はその呼び集められた群れである教会に与えられている使命、神の御心を行うこととはどういったことを指しているのかを聖書に聞いていければと思います。

毎週述べていることですが、今日のイエスさまの言葉もとても過激です。ここにおいてイエスさまは、血縁集団としての家族のあり方を否定されているように受け取れます。身を案じてやって来た母や兄弟に対して「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」と言われたのですから、ショッキングです。自分の子どもや兄弟からこのように言われた時のことを想像してみて下さい。特に母マリアの心中を思うと何とも言えない気にさせられます。

またこのことがイエスさまの母や兄弟たちだけでなく、律法学者を刺激したことは言うまでもありません。彼らにはこの発言はとんでもないものでした。十戒の中の「汝の父と母とを敬え」との教えに抵触するものであり、彼らにとっては到底受容出来ぬものと思わせたに違いありません。それだけでなく、「わたしの母、わたしの兄弟」であると言われた当の人々にとっても驚きと同時に戸惑いを覚えたことだと思います。

ではイエスさまは血縁関係など取るに足らぬどうでもよいこととしてこのようにおっしゃったのでしょうか。そうではありません。イエスさまが母マリアの身をどれだけ案じておられたことか、捕らえられて十字架につけられた時にもマリアのことを弟子に託することを告げておられることや(ヨハネ19:25以下)、また、「永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいか」と尋ねる金持ちの青年に対して「父母を敬え」との戒めに言及しておられることからも、イエスさまが父と母との関係、また家族を大切にするように教えておられたのは明らかです。ではどうしてイエスさまはこのような過激でショッキングな発言をされたのでしょうか。

今日の話に先立つ3章21節には、イエスさまの身内の者たちが「あの男は気が変になっている」口語訳聖書では「気が狂った」となっていますが、そのようにイエスさまのことを思い取り押さえに来た、と記されています。どうも今日の箇所にも父ヨセフのことが全く触れられていないことからも、ヨセフはイエスさまの幼少の頃に亡くなったのではないかと言われています。イエスさまには兄弟が多くいました。マルコ6章3節にはその兄弟たちの名前が記されています。他にも妹たちがいた可能性もあります。父亡き後は、長男のイエスさまが大黒柱として一家を支えておられたことでしょう。彼ら家族にしてみれば、長子のイエスさまが突然宗教に目覚め、家のことを顧みず伝道に明け暮れたのですから、早く家に連れ戻そうと考えたのは当然のことだったと思います。しかし家族たちはイエスさまの活動に対して全く無理解であったのです。その生活ぶりは21節では「食事をする暇もないほどであった」とありますから、イエスさまの過労と健康を心配する思いもあったかもしれませんし、その思いが分からないイエスさまでもなかったでしょう。しかしそれは「神のことを思わず、人間のことを思う」ことに他ならなかったのです。

また、家族たちは外に立っているのに対して、血縁のない大勢の人々が家の中でイエスさまの周りに座っているという有り様も象徴的な光景に思えます。家族たちは中に入れなかったのです。それに対して、イエスの話に耳を傾けた群衆は中に入っていたのです。イエスさまは誰であれ、ご自分をたずね求める者を喜ばれ、その求めにお応え下さいます。外からではなく、内に入って来て求めなければならないのです。外から求めるのは、心から主を求めることにはなりません。家族も外に立っていないで、人々を押し分けて中に入り、イエスさまの所に来ていたら、その応答も変わっていたことでしょう。中に入ることを阻む思いが家族にはあったのです。イエスさまは家族を拒否されたのでなく、彼らが家族として人間的な親子、兄弟の情で、イエスさまを自分たちの思いのままにしようとしたことを拒否されたのです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)

家族は私たちにとってかけがえのない大切な存在です。しかしその家族の絆でさえ、家族愛でさえ、神さまとの関係を遮断することになることを私たちは心しなければならないのではないでしょうか。しかし家族の絆がどうでもよいということではありませんし、家族を大切にしないような人のことは信頼できない類の人間だと言えます。また、多くのカルト宗教が家族の存在そのものを否定し、家庭を顧みずに狂信的になることも大きな問題です。しかしそれでもイエスさまがここでおっしゃっている教えを私たちは聴くべきであります。家族の平和、安泰が全てに対して優先されるべきものではないということです。それよりも優先されるべきものがあるのです。家族だから分かり合えるのではなく、肉親としての血のつながりが見るべきものを見えなくしてしまうのです。それゆえ、イエスさまは血縁よりも、自分の周りに座っている赤の他人に対して、彼らこそがわたしの母であり兄弟である、とおっしゃったのです。

ここでイエスさまは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われます。ということは、神の御心を行わないと神の家族になれないということになります。神の御心って一体何を指しているでしょうか。

神の御心を行っているかと問われて、「はい、行っています」と言える人は多くは無い、いやほとんどいないのではないでしょうか。しかしイエスさまはここで自分の周りにいる大勢の人たちを見回して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃっています。彼らの多くは取税人を始めとする罪人たち、病む者、虐げられた者たちだったでしょう。彼らは律法の掟を守らない者や守ろうにも守れない者たちでありましたから、そんな者たちが神の御心を行なう人だとおっしゃっているイエスさまの真意は何なのでしょうか。

その鍵は32節にあります。彼らとイエスさまの身内とは対照的です。イエスさまの母や兄弟たちが家の外に立っているのに対して、彼らは家の中に入ってきています。食事をする暇も与えないほどの数の群衆たちが集まっていたのですから、家の中に入るのは少し骨がいったかもしれません。家族の者たちは自分たちをほったらかして宗教にうつつをぬかしているイエスを連れ戻そうとしてやって来た。しかしそこは黒山の人だかり、わざわざ中に入らなくても人をやって呼んでこさせればよいと考えたのも分からないではありません。しかしイエスさまの周りに集まった人たちは違いました。彼らも家の中に入るのには骨を折ったかもしれません。それでも彼らは中に入ってイエスさまの周りに腰をおろしたのです。神のみこころを行なうことの第一歩は、イエスさまの周りに座ることなのです。

この「座る」という姿勢は、当時のユダヤ人の人々にとっては、教えを聞く者が教師の周りに座って聞く姿を示すものでありました。ルカによる福音書10章38節からにマルタとマリアの二人の姉妹の印象深い話が記されています。126ページです。イエスさまを家に迎えてそのもてなしにせわしくなく立ち働く姉マルタと主の足もとに座ってイエスさまの話に聞き入る妹マリア。ちっとも自分を助けてくれないと呟いた姉に対して、イエスさまは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。それは弟子として主の教えを聞くことにマリアが集中していたことを意味しています。これこそが神の御心を行なうことであるのです。

血のつながりがなくとも、血縁を越えるような神の家族を形成することが出来るのは大きな慰めです。血縁関係にある者同士でないと家族となれないのであれば、これはとても限定されたものとなってしまいます。そうでなく、主の周りに座り、御心を実践することで、一つの家族となれるというのですから、それは無限の広がりをもつことになります。それが教会であり、そこに神の家族が形成しうるのです。

現在の日本の教会に人が押し寄せて中に入るのが困難だというようなことはほとんど考えられません。しかし教会にやって来ることには何らかの困難が伴うものです。家族の反対があるかもしれない、また地域の行事に参加することを要求されることもあります。しかしそれ以上に自分自身の心との戦いがあるのではないでしょうか。また、教会にはやって来ても、今日の家族のように礼拝堂に入らずに外で待っていたり、そうしたい思いに駆り立てられることがあるかもしれません。しかしそれは神さまの御心を行なうことにはならないのです。

私たちの日常の歩みは主に喜ばれるようなものではないのではないか、御心を行なうような生活からは程遠いのではないかと考えてしまうものです。確かにその通りであり、そこには悔い改めが必要でしょう。しかし私たちはこうして、今日は教会堂ではありませんが、イエスさまのからだなる教会に集まり、礼拝堂に腰掛けてみ言葉に耳を傾けます。主の足もとに腰をじっくりおろし、主のみ言葉に聞き入ること、先ほども申したようにそこには幾つかの障害が立ちはだかることがあるかもしれません。しかしこれは特別な賜物を持った人にだけなしえる行為ではありません。また特別な訓練を経た人しか出来ないことでも全くありません。全ての人に可能な行為なのです。主の前にじっくり腰をおろしましょう。そして主イエスが語ってくださるみ言葉に耳を傾けるのです。それこそが神の御心を行なうことになるのです。そこに主が共にいて下さるのですから。お祈りをしましょう。黙想の時をしばらくもちます。


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