「ペンテコステ 教会の誕生日」    


 使徒言行録2章1〜11節 
 2005年5月15日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。私は礼拝には典礼としての側面も大切だと思いますが、それだけでなく、フェスティバル―お祭りという面もあると思っています。一週間の歩みを終えて、愛する者たちが礼拝という名の祭りをする。今日も元気な皆さんとお会い出来たことを感謝します。

さて、2月に私の父が導かれた証をさせていただきましたが、今日は私の証から入らせていただきます。私が求道者だった大学2年生の秋の頃の経験です。その年の夏にあったクリスチャンの学生キャンプに参加し、そこで出会った人たちにとてもひきつけられたことから、私は教会に通うようになりました。その中の一人の女性に「韓国から有名な女性の先生が来られるから、あなたも祈ってもらったらいいよ」と声を掛けられて、その方の教会に行ったのです。

集会が始まると、何だか自分の通っていた教会とはかなり雰囲気が違うように感じられました。そして祈りが始まったのです。その時のことは今でも忘れられません。実はその教会は異言をとても重要視する教会だったのです。私が通っていた教会、単立教会でしたが、そこでは異言で祈ることは全くなされてはいませんでした。また牧師からも異言について何も教えられてはいませんでした。その友人の女性がその集会でオルガンの奏楽をされた関係で、私は最前列の中央に一人で座ることになてしまったのです。生まれて初めての異言は、驚きというよりも気味悪さと恐怖さえ私に感じさせました。後で聞くところによると、その先生が韓国から来られたことで、その場におられた方たちの祈りは、いつもより一層激しいものであったそうです。

最前列中央という最高(?)の席に座っていた私は、今までに耳にしたこともないような祈り、それはその当時の私には何が何だかわからずに薄気味悪さを通り越して、恐怖感さえ抱かせました。そして「キリスト教がこのような宗教なら、もう二度と教会には行かない」と私は思ったのです。もし後ろの出口近くの席に座っていたとしたら、すぐに外に出て行ったことでしょう。そしたらその後、教会に通い続けることになったかどうか。最前列でしたから、途中で出ていくことも出来ずにいた私は、結局最後まで残ることになり、その夏のキャンプで同じグループだった先輩(この方はまた別な教会の方でしたが)が、私がその集会に行くことを聞きつけ心配して下さったからだと思いますが、そこに来ていて下さり、私を集会後に自宅に呼んでフォローして下さったのです。神さまのなさることは完璧です。

今日はペンテコステです。約2000年前のこの日多くの弟子たちに聖霊が降ってキリスト教会が誕生したことを記念する日です。このペンテコステとはギリシャ語で五十日目という意味の言葉です。この日はユダヤ教の三大祭の一つである過越の祭りの最初の日曜日から数えて50日目を記念する五旬節に当たる日でした。この祭りは七週祭とも言われ、民数記28章26節以下にはこの祭りについての詳しい規定が記されています。その時に、このとても不思議なというか理解に苦しむような現象が起こったのです。1節にある「一同」とは弟子たちのことです。彼らの中心はペトロたち漁師、それも辺境の所謂田舎者でしたから、外国語を勉強したことなど全くない者たちでした。その彼らが急に外国語を話し出したというのです。

いずれにしても、この出来事は神が彼らにお与えになった驚くべき奇跡でありました。しかしここで大事なことは11節の後半にある「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語」ったということです。彼らは何も意味のないことを語ったのではなく、「神の偉大なみ業」を語ったのです。そしてそれは4節で「聖霊に満たされ」てのことであったと著者は記しています。彼らは聖霊を受けて神の偉大な業を証したのです。このことを通してキリストを宣べ伝える教会が誕生したのです。ですからこのペンテコステの日をキリスト教会の誕生日であると人々は位置づけたのです。

 突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたと2節にあります。それは聖霊の音であったようです。風は旧約においては神の霊を表すものです。ヘブル語で霊は“ルアッハ”という言葉ですが、これは「風」「息」をも指します。またギリシャ語では“プネウマ”で、これも「霊」「風「息」を意味します。イエスさまもヨハネ福音書3章8節で「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」と、あのニコデモにお答えになっています。霊の自由な働きは風に似たものとしてとらえられたのでしょう。いずれにしてもこの現象を物理的に詮索しても納得のいく答えは得られないでしょうし、そんなことは無益なことでしかありません。

 ここで問題となるのは、4節の最後の「ほかの国々の言葉で話し出した」というところです。これは後の文脈から、特に6節や8節のエルサレムに集まっていたユダヤ人たちが自分の故郷の言葉で話されているのを聞いたと証言していることから、このように「ほかの国々の言葉」と訳されていますが、そのまま訳すと「異なる言葉と話した」となります。ちなみに口語訳では「他国の言葉」とされています。そういうところから、この時の現象も異言の一つの働きとして理解されてきたのです。

 皆さんの中に、異言、これは異なる言と書きますが、この異言を詳しくご存知ない方、また一度も耳にしたことのない方がおられるかもしれません。今日の最初に私の証をさせていただいた中にも出てきましたが、これは聖霊を受けて宗教的恍惚状態に陥った時に発せられる不明確な意味のない言葉のことです。パウロも第一コリント書の12〜14章に霊の賜物の一つとして触れています。また、使徒言行録の10章46節や19章6節には、異邦人や弟子たちに聖霊が下って異言を語ったことが記されていますし、またマルコ福音書の16章17節にもイエス信じた者に伴うしるしとして「新しい言葉を語る」とあるのも異言のことだとも解釈出来ます。このようなことは先ほどの私の証でも話させていただいたように、現代においても異言の祈りをされる方が多くおられます。パウロはこれをTコリント12章で賜物の一つとして、教会における働きのリストに加えています。12章4節以下を見てみましょう。315ページです。(12:4〜11)

 そしてそのキリストのからだなる教会を建て上げるためにその賜物を用いるのが求められるのであり、その賜物の一つである愛について13章で語り、14章で異言と預言について述べています。この預言もそこを見ていただければ分かりますが、未来を予測することだけを指す、予めの「予言」ではなく、神の言葉を預かる「預言」であります。ただ神から与えられ預かったこの「預言」は将来の出来事予測する予言であることも往々にしてありますが。

18節には「あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝」していると言っていますから、パウロ自身もこの賜物を保持していたようですが、これが他の者には意味が不明であることからその危険性を警告しています。4、5節では「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言をする者は教会を作り上げます。あなたがたは皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言出来ればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言をする者の方がまさっています。」と述べています。また、26節以下では、これが集会の秩序を乱すことにつながることから、解釈する者がいなければ黙っているように説いています。

 私は異言に躓いた者です。最初にも述べたように、一人の先輩のフォローがなければ教会につながっていなかったかもしれない経験をした者です。しかし、ここでパウロが述べたかったのは、異言をただ危険視することではないと確信しています。人々に与えられる霊的賜物は全て、教会を建て上げるために主より与えられたものです。彼が異言に警告を発しているのは、それが人々を驚かせたり、気味悪がらせるからではありません。そうではなく、教会を建て上げることにおいて混乱が起こるからです。私自身は異言の賜物は現在のところ与えられていないようであります。しかしこれだって分かりません。賜物は神から一方的に与えられるものなのですから。

 異言は未信者を躓かせます。また教会を混乱させます。それゆえパウロも述べていますように、集会の中でではなく、一人でいる時にすべきものでしょう。しかし、異言で祈る人が現われる以上に危険なことは、異言や預言を神からの賜物と認めずに、これをただ一方的に危険視し、これらを語る者を教会から排除するような動きが起こり、教会内にさばきもたらされることです。それは異言で祈った人に原因があるのでなく、自分にないものを認めようとしない心が働くことにあります。

 私たちは聖書に記されていることを信じるものであります。たとえそれがこれまでに経験したことのないことであったり、信じられない思いとなることであったとしても。イエスの処女降誕、超自然的な奇跡物語、そして死をも乗り越えた復活。今日の箇所においても、すぐに信じられないような出来事であります。しかしそれまでに外国語を習ったこともないような類の者たちがさまざまな国の言葉で主のみわざを語ったのです。復活のイエスさまと出会うまでは、人々を恐れて隠れていた弟子たちが大胆に神のみわざを、そしてイエスこそがキリストであることを人々に説くようになったのです。これは神のわざをほめたため、神を証する出来事です。そしてその群れがキリストの名による教会となっていったのです。聖霊を受けなければ、イエスを主と告白することは出来ません。聖霊の導きと助けによって私たちは信仰を持つことが出来、そしてその感謝の応答として教会を建て上げて行くのです。

 今月の聖句はエフェソの信徒への手紙2章22節です。(2:19〜22)

 私たちはキリストによって神の家族とされました。そしてそのかなめ石はキリストです。このキリストにおいて建物全体が組み合わされて成長し、私たち自身が聖なる神殿として建てられていきます。そして最後にもあるように、そのためには聖霊の働きが必要なのです。

およそ2000年前の今日、聖霊が下って主を証する者が起こされました。そのように私たちも聖霊を受けて、主を証する者となりたく思います。そしてそこに教会が造り上げられていったように、私たちも教会を建て上げる者となるように願いましょう。お祈りをします。



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