“εγω ειμι”「わたしはある」    


 ヨハネによる福音書6章16〜21節 
 2005年5月29日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 福岡地方連合の会長であられる平尾教会の平憲誠牧師より、福岡県西方沖地震被害教会への義援金の再度のお願いのメールが来ました。補修のために1千数百万円かかる教会や、当初は何ともないように見えたけれども、後から損壊箇所が発見された教会もいくつもあるそうです。義援金の方は本日で一応締め切らせていただきますので、是非覚えてお祈り下さり、お献げ下さればと思います。後ろの掲示板にこのお願いや被害状況等の写真を張り出しておきますので、ご覧下さい。

皆さん帰りなさい。こうしてまた共に礼拝出来ます恵みを感謝いたしましょう。この間の日曜日は牧師就任・按手式を行なうことができました。先週も申し上げましたように、これはゴールなのではなく、これからが新たな歩み出しです。主が私たち教会に連なる者に求めておられるのは、このキリストのからだなる教会を建て上げていくことです。今月は教会の誕生日であるペンテコステがあり、そして就任式でした。その意味もあって、今月の主題聖句はエフェソの信徒への手紙2章22節、週報の式次第の最初の所にありますが、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」としました。

教会とは建物を指すのではありません。建物は教会堂にすぎません。このエフェソ書の言葉にもあるように、キリストによって呼び集められた者の群れである私たちがキリストにおいて建てられ、霊の働きによって神の住まいである教会とされていくのです。教会はキリストのからだです。からだにはさまざまな部分があります。私たちには一人ひとりそれぞれに異なる賜物が与えられています。その賜物を互いに生かしあって一つのからだを形成することが求められています。これは容易なことではありません。一つのことがなければ不可能なことかもしれません。それはキリストを頭とするということです。口が頭になったり、耳や目、手足が頭のようになったのでは教会にはなりえません。しかし、キリストを頭とすれば、目や耳や口や手足の働きは一つのまとまりとなり、教会として整えられていきます。今日はそのあたりのことを、この伊勢崎教会の新たな歩み出しのスタートの時に当たって、み言葉から聞いていければと思います。その関係で、今日は聖書教育の箇所から離れてヨハネ福音書を取り上げました。今日の箇所であるマルコ10章は来週させていただきます。

先ほど拝読いただいた御言葉の直前の15節では、イエスさまは群衆から逃れるためにひとり山に退かれたと記されています。弟子たちはイエスさまと一緒ではなく、自分たちだけで舟に乗って湖の向こう岸を目指しました。しかし強風のため、湖は荒れ始め、思うように進めなくなってしまいました。舞台となっている湖はガリラヤ湖のことですが、この湖は海面下200mの所にあり、周囲が山に囲まれていることから、時々突風が吹いて来るそうです。この記事の並行箇所のマルコ福音書には、「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいた」とあります。19節に出てくるスタディオンは約185mにあたりますので、25ないし30スタディオンはメートルに換算しますと、4から5kmほどの距離になります。

岸からそれほどの距離にいた弟子たちの所に、イエスさまが湖の上を歩いて来られました。その姿を見た弟子たちはその得体の知れない存在に恐怖を感じました。マタイやマルコの福音書を見ると、そのイエスさまのことを「幽霊だ」と思い、恐れ怯えたとありますから、彼らの驚きと恐れがどれほどのものであったのかが分かります。そんな彼らに向かってイエスさまは「わたしだ。恐れることはない」と語りかけられました。そしてその声を聞いた弟子たちがイエスさまを舟に迎え入れようとすると間もなく、舟は目指す地に到着しました。今日の箇所はそのような内容の話です。

先ほども触れましたように、この話はマタイとマルコによる福音書にも同じと思える話が記されております。しかし、これらを読み比べてみると、少しずつ内容が違っていることが分かります。異なる点はいくつかあるのですが、その中でも、今回私が注目させられたのは、果たしてイエスさまは弟子たちの舟に乗られたのだろうか、ということでした。

マタイとマルコではイエスさまは舟に乗り込まれたとはっきりと記されています。マタイは14章32節、マルコは6章51節です。それに対してヨハネでは6章21節ですが、「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした」としか書かれておらず、「舟に乗った」とは書かれていません。

ではギリシャ語原文ではどうなっているかというと、問題となる言葉は“ηθελον”という単語です。これは「望む」とか「〜しようとする」「喜ぶ」という意味の言葉です。ですから、「彼らはイエスが舟に乗ることを望んだ」とも「乗せようとした」とも「乗ることを喜んだ」とも訳せる言葉が用いられているのです。

ヨハネによる福音書は、福音書の中では最もおそい時期に記されたものです。著者のヨハネが他の福音書を読んでいたのはほぼ確実なことだろうと言われています。ということは、ヨハネはマタイとマルコにイエスさまが舟に乗り込んだと記載されているのを知った上で、このように記したことになります。

また、マタイ・マルコは、イエスさまが「舟に乗り込まれると、風は静まった」と記しているのに対して、ヨハネでは「風が静まった」という描写はなく、彼らがイエスさまを舟に迎え入れよう、または迎えることを望むと、間もなく舟は目指すべき地に着いた、とされています。どうもマタイ・マルコとヨハネとではこの出来事を記した目的が異なるように思えます。マタイとマルコはイエスさまが舟に乗り込まれたことによって、それまで荒れ狂っていた風が止んだことを記そうとしたのに対して、ヨハネは弟子たちがイエスさまを舟に迎え入れたことによって、彼らの乗った舟がすぐに目指すべき地に到着したことを伝えようとしたのだと思われます。すなわちイエスさまが舟に乗られたかどうかに重点をおいたのではなく、舟に乗っている弟子たちがイエスさまを必要としているか、彼らの心のあり様こそが重要であること述べようとしたのでしょう。

弟子たちの中にはペテロをはじめ何人か漁師たちが混じっていました。漁師ですから舟を操ることはお手の物であったはずです。彼らの心の中には、イエスさまがおられなくても大丈夫、という思いがあったのではないでしょうか。マタイ・マルコではイエスさまが「弟子たちを強いて舟に乗せ」とありますが、たとえそれが彼らの意思からのことではなかったにしろ、イエスさまがおられなくとも自分たちの力だけで、向こう岸まで行く事くらいは出来ると思ったのではないでしょうか。

船出したのは夕方、もう既に日は暮れてあたりは真っ暗闇、そんな中で前進するのを阻む風に悩まされたというのですから、彼らの心は大きな不安におおわれたでしょう。そこにイエスさまが水の上を歩いて登場されました。自分たちの力の限界を知って、不安をおぼえている者にとっては、水の上を歩くような超越的な力を持った方が登場されることは、喜びや安心よりもむしろ恐れをもたらすものとなったようです。マタイ・マルコとは異なり、ヨハネはそこでの弟子たちの恐怖がどのようなものであったか、弟子たちの叫びの声を言い表そうとはあえてしていません。ここでヨハネが心を注いだのは、大切にしたのは、そこで聞こえた主イエスの言葉であります。「わたしだ。恐れることはない」。

この「わたしだ」はギリシャ語では“εγω ειμι”、“εγω”は「わたし」、“ειμι”は「である」にあたります。ですから日本語訳は「わたしだ」、英語訳では“It is I”とされています。しかしこの“εγω ειμι”は弟子たちの目にうつった得体の知れない超越的力をもった存在が「わたし」であるということを伝えようとしただけでなく、「わたしはある」英語に置き換えるならば“I am” とおっしゃろうとしたのではないでしょうか。「わたしはある、わたしはここにいるのだ」と伝えようとして、恐れる弟子たちに向かって“εγω ειμι”と呼び掛けられたのです。

その昔、神さまの名前を尋ねたモーセに、神さまはご自分の名を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました(出エジプト記3章14節)口語訳聖書では、「有って有る者」です。これは神さまが存在そのものであること、そしていつも共にいる神であることを示そうとされたことを意味します。このことをご存知であったイエスさまは、恐れる弟子たちに“εγω ειμι わたしはある”とおっしゃったのです。

荒れている湖の上を歩いて自分たちの所に来たイエスさまの姿を見て、「素晴らしい力を持ったお方だ」と安心したのではないのです。その時にはまだ恐れしか感じなかったのです。“εγω ειμι”「わたしはある」との声を耳にして、初めて安心し、一同はイエスさまを迎え入れることを望んだのです。“εγω ειμι” この言葉は、それを発する者と聞く者との間の深いかかわりを、そしてお互いの信頼を呼び起す呼び掛けとなったのです。

新約聖書、特に福音書においては、舟は教会を象徴すると言われています。教会にイエスさまが必要だということに異を唱える人はいないでしょう。しかし、今日の箇所の弟子たちのように、自分たちは舟を操ることに馴れているから、イエスさま不在のまま船出しても何とかなると私たちは思っていないでしょうか。教会の活動をしていく上においても、「この面ではあの人がいるし、こっちの働きをするには○○さんがいるから大丈夫」と思うことがないでしょうか。イエスさまを完全に忘れてしまうことはないとしても、イエスさまに聞くよりも先に自分たちの思いや願望を優先させていることがないでしょうか。

漕ぎ悩んでいた弟子たちの所にイエスさまが来られたのは、マタイ・マルコによる福音書では、「夜明け頃」であったとされています。船出したのが夕方ですから、彼らは何時間も湖の真中で立ち往生し、進むことも戻ることも出来なくなりました。これがイエスさま不在の教会の現状です。

イエスさまのおられない教会、またイエスさまを必要としない教会が、この時の弟子たちの舟のようにはなるのは明白です。しかし、そんな弟子たちの所に、イエスさまは来て下さいました。湖の上というどこからも助けが来ないと思えるような時に、弟子たちがイエスさまを呼び求めたからではなく、ご自分の方から近づいて来て下さった。しかもそのイエスさまのことを歓迎するどころか、恐れさえ感じ、あろうことか「幽霊だ」と思った者たちに向かって“εγω ειμι”「わたしはある」と声を掛けて下さったのです。その声にはっとし、イエスさまを舟に迎え入れようとする、イエスさまを必要としイエスさまが舟に乗られることを喜び望む時に、舟は目指すべき地に、たちまちのうちに到着したのです。

最初に申し上げたように、主は私たちに教会を建て上げることを求めておられます。教会形成は本当に困難です。どこの教会もガタガタしています。外からはどんなに良いように見えても、内側に入ってみると、問題のない教会はおそらくないでしょう。しかし今日の箇所においてのイエスさまは、弟子たちが波風に悩むことを叱責などされていません。ましてやイエスさまをイエスさまだと分からないことを咎めることもなさいません。教会に問題があるということに問題がないとは思いません。しかしどんなにガタガタしても良いのかもしれません。罪人の集団である教会なのですから。そんな者たちにイエスさまは“εγω ειμι”「わたしはある。ここにいるよ。恐れることはない」と語りかけて下さるのです。

 教会の主はイエスさまです。そのイエスさまを教会に迎え入れることを望みましょう、そしてそのことを喜びましょう。教会形成の鍵はイエスさまを迎え入れることです。イエスさまをお迎えるということにおいて一致さえしていれば、たとえどんな嵐が吹きすさんでいようとも、教会は目指すべき所にたどり着くことが出来ます。お祈りします。今日神さまが私たちに語られた言葉に思いを馳せるために、暫く黙想の時を持ちましょう。


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