「身(み)の代(しろ)イエス」   


 マルコによる福音書10章35〜45節 
 2005年6月5日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  お帰りなさい。先週は、就任式を終えて教会が新たなステップに入ったことをおぼえ、キリストを頭として教会に迎え入れることで教会は目指すべき場所にたどり着くことが出来ることを学びました。そのため、聖書教育の箇所がずれ、本日は先週読む箇所から取次ぎをさせていただきます。

 今月の主題は「イエス・キリスト」です。今月の聖句もその意味から選びました。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13章8節)そしてそのイエスさまを頭として迎える、ではそのイエス・キリストとは一体私たちにとってどんな存在なのでしょうか。そのイエスさまは私たちのためにどんなことをして下さったのでしょうか。そのことを今月一ヶ月間で共にみ言葉から聞いていければと思います。今日はその中で、二人の弟子の願いにイエスさまが答えられたことを通して、ご自身がこの後どのような歩みをされようとしているかを共に考え、そのイエスさまにどのように応えていくのかを聖書から聞いていきたく思います。

 ここでは、二人の弟子、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネの兄弟が進み出てイエスさまに訴えます。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。これを知った他の10人の弟子たちが腹を立てたというのも肯けます。10人にしてみれば、「お前たちずるいよ、抜け駆けするなよな」とでも思ったのでしょう。子どもっぽい、いささか幼稚にさえ思えるほどの願いです。自分たち兄弟だけを他の者たちと違って特別扱いして欲しい、というのですから。

 しかし、今回準備していく中で読んだ資料の中に次のようなものがありました。それはある牧師の説教です。そこでもこれは随分自分勝手な幼稚な願いだと述べられていますが、このような願いは信頼関係のないところでは言えないことではないかというのです。甘いかもしれないけれど、同時に悪くないと思ったというのです。それを読んで、なるほどそういう面もあるのかなと、私も思いました。

 38節でイエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」とおっしゃっています。ここで言われている杯やバプテスマが、この話の前の32節からでイエスさまが語られている受難予告と関係しているのは明らかです。彼らはその試練を完全には理解していなかったでしょう。しかしこのような願いを、あまり信頼していない人に向かって言うことはないのではないか、こういういささか子どもっぽいとも思える願いは、甘えることの出来る相手にしかしないのではないか、とその牧師は言うのです。子どもがお父ちゃんやお母ちゃんに言うようにです。

 ヤコブとヨハネはペトロと共に12弟子の中でも大切な位置を与えられていた者たちでした。そして彼らはイエスさまのことを十分に知っている、理解していると自分では思っていました。本当はよくは分かっていなかったのですが。しかしイエスさまに対する信頼がなければこんな願いや訴えは出来ません。

 ではこれを聞いたイエスさまの反応はどうだったのでしょうか。どうも

イエスさまは、この二人の願いを退けてはおられないように思えます。それはすこし好意的観方すぎるのかもしれませんが、少なくとも彼らの願いをいきなり拒否してはおれらないように思えるのです。後でも述べますが、43節でも「偉くなりたい者は」とその願いを認めておられます。ただそれを認めて受け止めながら、「分かった、あなたたちの願いを聞いてあげてもよい。しかしあなたたちは自分が何を願っているのかはよく分かっていないようだ」とおっしゃったのではないでしょうか。

 私たちは、いや私にはこのような、主に対しての信頼があるだろうか。親に甘えるようにイエスさまを身近な存在として接しているのだろうか、

考えさせられました。

 十字架と復活の後、彼ら二人はどのような歩みをしたか、ヤコブはエルサレム教会の指導者となり、使徒言行録の12章によると、剣で殺されたと記されています。殉教の死を遂げたのです。一方のヨハネに関しては詳しいことは聖書には記されておらず、いくつかの伝承があるようですが、伝道者として一生を過ごしたであろうと云われます。しかし、殉教しなければ苦しんだことにはならないということではないでしょう。伝道者の生活は毎日が戦いです。そのように教会のために生きる戦いを、そしてご自分と共に歩むことを求められたのです。

 その上で、イエスさまは40節で「しかし、わたしの右や左にだれが座るのかは、わたしの決めることではない」とおっしゃいます。それは定められた人々、神さまがお選びになった人々に与えられるものであって、自分が決めるものではない、というのです。これはあのゲツセマネの祈りにも通じる「わたしの願いではなく、父よあなたの御心が行なわれるように」とのイエスさまの願いです。イエスさまはヤコブとヨハネに、自分のあとについて従うこと、主の弟子として生きることを求めておられるのです。

 私は、イエスさまを信じ、イエスさまに従っていく者に、神さまが求めらておられるのは、突き詰めていうと、二つの事だと信じています。その一つは、キリストのからだなる教会を建て上げていくこと、そしてもう一つはキリストの弟子となることです。

 

クリスチャンという呼び名はどこから来たかご存知でしょうか。これは初代教会の頃の信者たちが自分でこのように言ったのではなく、周囲の者たちがイエスさまを信じる者たちに対してつけたニックネームだったのです。「あいつらは口を開けば、イエス、イエスとイエスの話しかしない奴らだ」として彼らのことを揶揄してつけた名前なのです。クリスチャンと言っても全く構わないと思いますし、私も自分のことをクリスチャンと言いますが、出来ればキリスト者、またはもっと言うと「キリストの弟子」と言えればと願っています。

 イエスさまは私たちに、キリストの弟子、キリストに倣うものとなることを求めておられます。これは決して、そうしなければ救われないとか罪が赦されないということではなく、それが神のみこころをなすものとなることであり、そのように変えられていくことでもあります。

 さて、42節以降では、ヤコブとヨハネだけでなく、他の10人の者をも呼び寄せたイエスさまは「仕えられるためではなく仕える者」となることを教えておられます。そして自分がこの世に来たのは「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」であると告げられます。

 今日もまた妙なタイトルだと思われた方があるかもしれません。また「身(み)の代(しろ)イエス」最初は何と読むのだろうと思われた方もおられることでしょう。タイトルをつけるのは本当に難しい。いつもとても多くの時間をこのために費やします。以前にも申し上げたように、この場におられる皆さんのことも考えていますが、それと同時に表の看板をご覧になられる方の気持ちをひきつけることができればと願っています。ありきたりなものでなく、少しでもインパクトのあるものに出来ればと考えています。

 これはこの45節の「多くの人の身代金として」からとりました。「身の代」とは辞書によると「身代金」のことだとあります。「身の代」それは「身の代わり」から来た言葉で、そのためのお金、金銭という意味です。ここは口語訳聖書では「あがない」また別な訳では「贖いの代価」としてとされています。「身の代イエス」などという言い方はおかしいのですが、私たちの罪のためにお金を払うのでなく、イエスさまご自身がお金に代わって下さったということを言わんとしてつけたタイトルです。

 「身代金」と聞くと、誘拐事件を思い起こすものですが、これは元来は戦争の時の捕虜や奴隷を釈放させるために支払われたお金のことです。捕虜も誘拐された者の場合であっても、その身は人質であり、その人を釈放するために代価として支払うお金が身代金です。ここでイエスさまは、自分がこの世に来たのも、仕えられるためではなく仕えるために、そして罪に捕われている人質である私たちを解放するために、自分の命を献げるためなのだ、とおっしゃっているのです。

 イエスさまは、受難予告の時にも自分は殺されるのだと述べておられます。しかしここでは、自分が殺されるのは人々の罪の身代わりとしてのことなのだと言わんとされているのです。そして、偉くなりたいと願う者たちに対しての答えとしておっしゃっているのです。

 ここで「偉い」と訳されている言葉は「一番」という意味の言葉で、そのように「一番になりたい」また「筆頭でありたい」と訳している聖書もありますが、この言葉の元々の言語は「大きい」という意味だそうです。そのように、あなたがたの間で、それは神の国の中でということも含んでいるでしょうが、大きくなりたいと思う者は「仕えられる者ではなく、仕える者になりなさい」と主はおっしゃるのです。

 

礼拝を意味する英語の言葉の一つに「サーヴィス」があります。これは一般的には「奉仕する、仕える」という意味です。礼拝をこのようにサーヴィスというのは、私たちが神さまにお仕えすることが礼拝であると考えることによります。しかしこれで間違いではないのですが、そのような礼拝理解だけでは不十分だという主張が昔からあります。礼拝を奉仕と呼ぶのは、先ず第一には、神さまが私たちに仕えて下さることを意味するというのです。私たちは先ず、神さまに仕えていただくのです。そしてイエスさまのサーヴィスを真実に受けることが出来た者、そのことへの深い感謝に生きる者が神さまにサーヴィスするのであり、イエスさまと同じように人々に仕えることが出来るというのです。

 キリストは「愛する」ことを人々に教えられた。では愛することとは具体的にはどんなことであるか、それは仕えること、奉仕することです。そしてそのように人に仕える、愛することが出来るのは、イエスさまが私たちより先に仕えて下さったから、愛して下さったからです。愛されたことの経験のない者が人を愛することは出来ません。その愛されたことの体験、実感に生きる者が、その感謝の応答として神さまを、そして人を愛することが出来るのです。

 イエスさまはご自身を私たちの罪の身の代、身代わりとなって命を献げて下さいました。そのことを私たちは知りましょう。知識としてではなく、体験として。そしてそれに応答する者として、神を愛し、神を礼拝しましょう、そして人を愛し、人に仕えましょう。

 今日はこの後、主の晩餐式が行なわれます。これは正に、イエスさまがご自身を私たちの罪の身代わり、身の代として献げて下さったことを心に刻み付けるための礼典です。そして以前にも申し上げたように、「自分のような罪深い者は、晩餐に与るのにふさわしくない」ということは断じてないのです。パウロが第一コリント11章で、主の晩餐の最初の序詞のところでも述べますが、「ふさわしくないままで」とは、決して罪深い者であること指しているのでなく、自分のような罪のある者はふさわしくないと思う心です。私たちが罪深い者であるがゆえに、イエスさまは十字架で死なれなくてはならなかったのですから。そしてその罪のある者が主の晩餐に与るように召されているのです。私たちはそのように主によって招かれているのです。お祈りをしましょう。黙想の時を持ちます。

20006年説教ページに戻るトップページに戻る