「二人称の神」  


 マルコによる福音書15章33〜41節 
 2005年6月12日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 お帰りなさい。さて、今日は花の日の礼拝です。この花の日というのは元々は子どもの日として。1856年にアメリカのマサチューセッツ州の第一ユニバーサリスト教会において、子どもたちを献身させることを目的にして、子どもの日として始められたものです。日本には花の日として紹介されたようですが、この本来の目的からすると、花の日と呼ぶよりも、こどもの日という方が本来の目的に沿っているように思います。ただみんなで花を持ち寄っていろんな所に届ける日であるのではなく、子どもたちに信仰を伝え、そして彼らを献身に導く、ここで言うところの献身とは、何も牧師や伝道者になるという意味ではなく、キリスト者の生活に献身させる、イエスさまにその身を献げるように導くために、花を持ち寄り、自然を通して神さまをたたえ、子どもを中心とした礼拝を守り、いろいろな場所に赴く日であります。そのような思いで今日の礼拝を献げ、午後の訪問に子どもたちを送り出せればと願います。

 

今月の主題はズバリ「イエス・キリスト」です。そして今日はイエスさまは自分にとってどんなお方であるのかを共に考えていければと思います。イエスさまは、何故死なれなければならなかったのか、また神のひとり子であるイエスさまをどうして父なる神さまは十字架からお助けにならなかったのか、何故イエスさまはご自分に与えられている力を用いて十字架から降りてこられなかったのか、こうしたことに対して自分なりの答えを持っておく必要があります。

福音書の中で、イエスさまが十字架でお語りになった言葉はいくつあるかご存知でしょうか。一般的には七つであるとされています。ルカに三つ、ヨハネに三つ、そしてあと一つが本日の聖書箇所の34節の言葉とマタイの27章46節の言葉です。ただ、このマタイとマルコの言葉は表記は異なりますが同じ言葉を伝えていると考えられていますから、全部で七つだとされます。

 この七つの十字架上のイエスさまの言葉のうち人々の心に最も印象に残り、かつ深い影響を与えた言葉はどれだと思われますか。おそらくルカによる福音書の23章34節をあげる人が最も多いのではないかと想像します。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

このみ言葉を通して信仰を得たという人は多くいらっしゃることだと思います。このイエスさまの言葉は、たくさんの人々の心を捕らえ、主の十字架の意味を明らかにしてきました。この祈りとも言える言葉で、神さまの赦しを実感して信仰に導かれた方はとても多いのではないでしょうか。

 み言葉を比較したり、どれがどれよりも重要であるなどというようなことは言うのは意味がないだけでなく、慎むべきでことでしょう。ただ、今日のマルコのこの十字架上の主の言葉を通して救いに導かれたという方は、ルカの言葉ほどにはおれらないのではないでしょうか。

 私も求道者だった時に、礼拝のメッセージでこの「父よ、彼らをお赦しください」のイエスさまの言葉を聞き衝撃を受けました。それが入信の直接のきっかけとはなりませんでしたが、自分が正に殺されようとしている時に、このような赦しの言葉を言うのは人間わざではないと思ったのを覚えています。

 さて、今日のマルコの箇所に戻りましょう。このイエスさまの言葉はアラム語の言葉が記されています。新約聖書はギリシャ語で書かれていま-すが、当時のユダヤの人々はアラム語を話しておりました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは34節の後ろの部分に記されている通り、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。これは詩編の22編2節のみ言葉です。開いてみましょう、旧約聖書852頁です。少し表現は違いますが、この言葉をイエスさまが引用されたのは明らかです。

 詩編にはさまざまな種類の詩編があります。その中で最も多いのは、嘆きの詩編です。この22編も嘆きの言葉で始まります。いや嘆きを通り越して、絶望の叫びと言ってよいように思えます。ただこの詩編は、他の嘆きの詩編の多くもそうであるように、途中からは神への感謝へと変わり、最後は貧しい者を顧みて下さる勝利の歌となっています。そのように、イエスさまのこの十字架上での叫びも絶望の叫びなのではなく、神さまをほめたたえようとこの22編の詩編を口にされたのだが、その途中で絶命されたのだと主張する人もおられます。ここにおいてイエスさまは絶望の叫び声をあげられたのではないというのです。また、以前に他の宗教の信者であった友人から、「イエス・キリストも十字架で弱音を吐いたではないか」と批判的に言われたことがあります。そんな弱音を吐くものは神でも救い主でもないと言うのです。神のひとり子が、その父である神に見捨てられるなどということがあるのでしょうか、また救い主であるならば絶望の叫びをあげることはないのでしょうか。

 昨年この教会にお招きいただき、初めてこの場でメッセージをさせていただいた時にも語らせていただきましたが、私は十字架は栄光に満ちたものでも、また神々しく輝いたものでもないと思っています。十字架のイエスさまはあっけないほどに死なれたのだし、惨めで弱々しいものだと思っています。栄光のかけらも見出すことの出来ないものであったと思います。しかしだからこそ、イエスさまの罪の赦しは、そしてイエスさまの救いは全ての人に及ぶ絶対的なものだと確信しています。イエスさまは絶望の叫びをあげられたのです。イエスさまはあの十字架で勝利の歌を歌うために詩編22編を口にされたのでなく、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神にも見捨てられたという思いから絶望の叫び声をあげられたのです。それはイエスさまが完全に人となられたからです。私たちと同じ肉体をもって、十字架の苦しみをお受けになり、そして神から見捨てられる苦しみを通って下さったのです。

 肉体的な苦しみも私たちには到底耐えられないものであったでしょう。また、人々から辱められることもたまらないものだったでしょう。しかしイエスさまに絶望の叫びを発せざるをえなくさせたのは、この神から見捨てられる苦しみだったと思います。

これまでのイエスさまは常に神さまと一緒でした。いや一緒というだけでなく、一体だった、一つでした。この処刑の場面を通りかかった人々が「神の子なら自分を救ってみろ、神の御心ならば今すぐ救ってもらえ」と言ったのもある意味自然な気持ちだと言えるでしょう。神と一体なのですから。

しかし神さまの救いの御手は伸びてきませんでした。全く無力なまま絶命されたのです。それは神さまとの完全な断絶を意味します。イエスさまは全く神から切り離されたのです。

 私たちは自分の方から神さまから遠ざかっていきます。そしてそのことに平気であるところが多分にあります。それゆえ、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」とは言い得ないのではないでしょうか。常に神と共にあり、神と一体であった者だけがこのように叫ぶことが出来るのではないでしょうか。

 先ほど、このマルコのイエスさまの言葉で信仰に導かれた方はあまり多くないのではないかとのべました。しかし今日の箇所の中には、この場面において信仰告白をした人がいたことが記されています。それは39節に登場する百人隊長です。この人はどこの国の人であるのかは分かりませんが、ユダヤ人でないことは明らかです。ローマに雇われている兵隊の隊長ですから、そんなに高い身分の者でもなく、ローマ人とも限らないようです。アフリカ人だったかもしれないし、ギリシャ人であったかもしれません。とにかく異邦人です。異邦人は当時のユダヤ人が差別や軽蔑をしていた人たちでした。

この人はここで『「本当に、この人は神の子だった」と言った』、と記されています。全くさりげなく、そのことだけが述べられています。しかしこれはマルコ福音書の中で最も重要な言葉の一つであります。この場面においては全く脇役であり、しかも異邦人の言葉です。普通は記されることなど考えられないことです。この人がどんな人であるのか、どこの国の人であったかだけでなく、名前すら書かれていないのですから推測の域をでませんでしたが、この後イエスさまを信じて従っていった人であったと思われます。

 この百人隊長は十字架の場面に居合わせました。それは自らの意志ではなく、仕事として命令されてのことだったでしょう。しかしこの人は、この十字架で処刑されたこのイエスこそ神の人であったと、信仰告白でもある言葉を発したのです。彼にこの告白をなさしめたのは、イエスさまのこの死であり、十字架上のイエスさまの叫びであったと思います。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というこの言葉を聞きながら、信仰告白が生まれたのです。それは、この死の場面においても、神に頼り、神に叫び求めている姿を通してでした。彼はこれ以前にも十字架の処刑の場面に居合わせたことがあったのかもしれません。そしてこの百人隊長は、他の受刑者たちとは決定的に違う声を聞いたのです。

イエスさまは見捨てられたと思えるほどの苦しみの中で、「わが神、わが神」と叫ばれました。私たちは苦痛の只中にある時、耐え難いほどの苦しみの中にあってでも「わが神、自分と離れ難くおられる神」と神さまに呼びかけるでしょうか。耐え難い苦しみや試練の中で「神さまどうしてですか」と叫ぶことはあるでしょう。しかしここでのイエスさまのように、そんな中で「わが神さま、私の神さま」と叫ぶことはないのではないでしょか。

 ある人は、ここでのイエスさまのことを「この絶望のさ中にあっても、三人称で神を語っていない」と言いました。このような中にあってもイエスさまは目の前におられるかのように二人称で神さまに語り掛けておられます。

一人称は「わたし」二人称は相手である「あなた」、三人称は「彼、彼女、それ」といった第三者、になります。イエスさまにとってはどこまでも、三人称の神なのではなく、二人称の神であるのです。人事でなく、それはどこまでも、神さまを自分と相対する相手として意識されているのです。この叫びは絶望の叫びではあるのですが、それと共にそんな局面にあっても神さまを自分の神として、身近な存在として語りかけておられる姿があり ます。

 ユダヤ教の神学者のマルティン・ブーバーは、人間の、世界や他者に対する態度には「我とそれ」と「我と汝」の関係があると言いました。「我とそれ」の関係は、他者を三人称の物として把握するのに対して、「我と汝」の関係は他者を人格的な主体として取り扱い、主体と主体の交わりが起こる、すなわちその関係に「出会い」が起こると言うのです。

 この世界を造られた存在として神さまを認識している人は多くいます。またそのような関係として神を信じているのだと言う人もいます。しかしそのような認識、信仰であるならば、そこには人格的な出会い起こり得ません。その人にとっては、神は三人称の存在に過ぎないのです。

 イエスさまは、今日のような究極のそして絶命寸前の場面においても、「わが神、わが神」と呼びかけられ、神を二人称の存在とされておられます。私たちが神さまをそしてイエスさまを三人称の存在としてではなく、常に二人称の存在とする時に、そこに真の、そして完全な出会いが起こるのです。私たちも神さまをそしてイエスさまを三人称の神ではなく、二人称の神として歩んでいきたく願います。

 お祈りをします。いつものように黙想の時を持ちましょう。


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