「空っぽのお墓から始まる」  


 マルコによる福音書 16章1〜8節 
 2005年6月19日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 今日もみ言葉から聞いていきたく思います。4月よりマルコによる福音書を中心に「イエス・キリストとの出会い」を求めて共にみ言葉を読んでまいりました。今日はそのマルコ福音書の最後のところです。

 私たちが現在所持している聖書はどのように伝えられたのでしょうか。

聖書が書かれた時代には印刷技術は当然ありませんでしたから、一文いちぶんを筆写、書き写してしていったのです。聖書の原本は現在見つかってはいません。というより、もし存在していたとしてもそれを原本だと証明するのはとても困難でしょう。それゆえ写本は古い物ほど重要なものとされます。それは少しでも原本に近いと考えられるからです。写本にはとても多くの種類があり、現在見つかっている物は少しずつ異なっています。ある写本には載せられている部分が他の写本にはないことがあります。また微妙に単語が変わっている場合もあります。人の手を介して書き写していくのですから、写し間違いがあっても不思議ではありません。

 さて、最初に今日の箇所はマルコの最後だと申し上げました。しかし聖書を見ると、この後9〜20節があります。新共同訳聖書の見出しを見ると、9節には「結び一」そして20節の後には「結び二」と書かれています。これらの結びの部分は、元々のマルコによる福音書にはなかった部分で、後の時代の誰かが書き加えたものだと言われています。8節の終わり方が唐突だと感じた人によって書き加えられたと言うのです。なぜそのようなことが言えるかというと、重要な写本にはどれもこの結びの部分がなく、8節で終わっているからです。また、ここの文体にマルコの大きな特徴の一つである「そして」や「すぐに」が一度も出て来ないこともあげられています。これは日本語の聖書では少し分かりにくいですが、元のギリシャ語を見ると一目瞭然です。マルコには“και”という言葉が文頭に頻繁に出てくるのです。これは「そして」という意味の接続詞です。〜そして〜そして〜というように文章がつなげてあるのです。だからマルコの文章は決して上手な文章ではなく、子どもの作文のようだと言われます。同じ福音書でもヨハネのギリシャ語はとても格調高いものだとされるのとは対照的です。聖書学にもさまざまな立場や考えがありますが、この9節以下が後世の加筆であるとすることにおいてはほぼ一致しているようです。

 元々はあった結びの部分が人の手を渡るうちになくなってしまったという説もありますが、マルコは8節の記述で福音書を終わらせようとしたのだと一般的には考えられています。確かに何だか唐突な終わり方です。マルコは敢えて復活の場面を記そうとしなかったことになります。墓に行った女たちが恐ろしさで震え上がったというので終わらせたのです。この終わり方では不十分だと思った人がいたのも分かる気がします。

 先週は十字架の場面での百人隊長に焦点をあてましたが、あの十字架の処刑の場面の描写の中には、特に言葉が記されているわけではありませんが、あの壮絶な死に立ち会った人たちがいたことが記されています。一人ではなかったようですが、イエスさまに従って身の回りのお世話をしていた婦人たちでした。マタイ福音書に記されているのとは少し異なっていますが、それはマグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメであったとあります。あの映画「パッション」においては母マリアも居たように描かれていましたが、あれはヨハネ福音書を参考にしていたのだと思われます。マルコもそこにいたのは三人だけではなく、そのほかにも大勢の婦人たちが居たと書いています。しかしあの十字架の処刑の壮絶な場面に立ち会ったのは12弟子ではなく、婦人たちであったのです。弟子たちがみんな恐れて逃げ出していたのとは対照的です。

 今日の16章の墓に行ったのもマグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメでした。彼女たちも失意に満たされていたことだと思います。しかし彼女たちはイエスさまの死体をほったらかしには出来ないと思ったのです。イエスさまに対してのひたすらな思いと愛の真実な心を持って墓に行ったのです。この話があまりにも有名なものですから、私たちは死体に香料を塗るのは一般的な行為だったと思っていますが、どうもこれは珍しいことだったようです。ユダヤの国においても王さまが死んだ時には香料をたくさん添えて柩の中に納めたという記事はありますが、これはむしろ例外的なことのようです。香油といえば、私たちはベタニア村での一人の女、これはマグダラのマリアではないかと言われていますが、彼女がつぼに入った高価な香油を頭から注ぎかけた記事が、マルコでは14章にあります。その時もそれを見た弟子たちが無駄なことをすると言ったくらいですから、そのように死体に塗ってしまうような使い方はあまりしなかったそうです。墓に行った女たちも思いは同じであったと思います。しかしお金をかけてでも、彼女たちはイエスさまの体をきれいに保ちたかった、何もせずにはおられなかった、自分たちに出来る精一杯のことを主に対してして差し上げようと思ったのです。

 夜が明けるのが待ちきれないような熱い思いを抱いて墓に行ってみると、墓の前に置いてあった大きな石がわきへ転がしてあったのです。そして中に入ると、死体がなくなっていました。彼女たちの驚きは相当なものだったでしょう。するとそこに白い長い衣を着た若者から次の言葉を聞かされます。

 6節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 これを聞いた彼女たちはただ驚いただけではなかったようです。「震え上がり、正気を失っていた」と書かれています。少し丁寧すぎる、馬鹿丁寧に思えるほどの描写です。震え上がって、正気を失って恐怖に捕らえられていたというのです。所謂パニック状態だったのでしょうか。おそらく時間がたって落ち着いてからペトロたちの所に言ってこのことを告げたのでしょうが、このみ使いに命じられたことも忘れてしまうほどの状態だったのでしょう。著者マルコは、彼女たちがそれほどの恐れを感じたことを大切に伝えたかったがために、このような形で福音書を終わらせたのではないかと思います。ここで急いで結びを書き加えるのでなく、立ち止まってこの婦人たちの恐れおののきを自分のものとして深く味わうようにと問うているのではないでしょうか。

 今日の箇所を読んで気づくことがあります。それはイエスさまが全く登場されていないことです。イエスさまの影も形も、それこそ死体さえないのです。ここにおいて明確なことは、その墓が空っぽであったということです。私たちはイエスさまが復活されたことを知っています。その死が最後なのでなく、甦られたことを。マルコ福音書がこの8節で終わっているならば、その最後は復活ではないということです。その最後は空っぽのお墓で終わっているのです。

 確かに唐突にさえ思える終わり方です。しかしとても趣き深い余韻を残すような終わらせ方に思えます。7節の「あなたがたより先にガリラヤへ行く」というみ使いの言葉は、かねてイエスさまがおっしゃった言葉です。14章28節です。

「しかし、復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」

女たちがこの言葉を知っていたのかは分かりません。しかしペトロを始めとする弟子たちにとってはこのガリラヤは特別な所です。彼らにとってのガリラヤは自分たちのふるさとであり、イエスさまの弟子となる前に暮らした日常生活の場でした。このガリラヤでイエスさまと出会い、このガリラヤでイエスさまと活動したのです。マルコはこのようにして、弟子たちに最初のイエスさまとの出会いをそしてイエスさまとの活動を思い出させようとした。それゆえ、マルコはこのような結びで終わらせることで、ふりだしに戻るのだと言った人があります。その福音書の最初に戻るというのです。マルコはマタイやルカのように、誕生にまつわる物語ではなく、イエスさまのガリラヤでの伝道活動からこの福音書を書き始めています。1章1節は次の言葉です。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」

「神の子」とはどういう意味であるか。これは「復活された方」という意味であります。この福音書を書き始めたときには、当然マルコはイエスさまが甦られた方であることを知っていたはずです。その前提で書いたのです。復活されたイエス・キリストがガリラヤで福音を語り始めたのは、こうであったというのです。すなわち、初めからすべての記事を、これは復活されたイエス・キリストのガリラヤにおける物語だとして書いているというのです。

 イエスさまは十字架で死なれました。そのことは多くの証人もいましたし明らかでしょう。しかしイエスさまは死で終わられたお方なのではなく、甦られた。その甦りのいのちに生きておられる。それは何も、十字架の後に甦られたというだけではない。あのガリラヤでペトロたちを招かれた時からすでにその甦りのいのちを生きておられた方であったのです。マルコはそのような思いでこの福音書を終わらせたのです。

 福音書は歴史書ではありません。マルコは何も復活などという事実はなかったと思っていたのでは決してありません。それでもあえて墓が空っぽだったということで終わらせようとしたのです。歴史的事実を客観的に記すことをその目的とはしていないのです。そうではなく彼は、ナザレのイエスは神の子だったという彼の信仰告白の書として書き記したのです。

ガリラヤへ先に行かれたイエスさまは弟子たちと共に歩まれました。ではここまで読んで来た私たちにとってはどうでしょうか。復活のイエスさまと共に歩むのは弟子たちだけではありません。この福音書を読んだ者、そこに書かれているナザレのイエスを救い主と信じる者も復活のイエスさまと共に歩む者です。弟子たちにとってのガリラヤは日常生活の場でした。イエスさまはそこに先に行かれた、ガリラヤで会おうとおっしゃった。私たちも教会に来ないと復活のイエスさまと出会えないわけではありません。その日常生活の場に先に行って下さるのです。そこで復活のイエスさまと歩み出すことが求められています。空っぽのお墓は終わりではありません。それはこれから、甦られたイエスさまとの新たな歩み出しを示しているのです。一人ひとりがイエスさまと共に作り出していくことでもあるのです。お祈りします。いつものように黙想の時を持ちましょう。


20006年説教ページに戻るトップページに戻る