「キリスト賛歌」
|
先週は写本の話をさせていただきました。その上で一つ気になった点がありますので、今日はそのことから入らせていただきます。 聖書は写本に基づいています。手で書き写すのですから、そこには写し間違いが起こると先週述べました。しかしそうだとすると少し不安におもえないでしょうか。それは、現在私たちが手にしている聖書は元のものとはかなり違うものとなってないかということです。 1947年に死海の北西部で、一人のべドウィンの遊牧民が洞窟の中で偶然に素焼きの壺に入った巻物を見つけました。これをきっかけに大々的な発掘調査が行なわれ、現在までに周辺の11の洞窟から800以上の写本の巻物が見つかりました。これが世に言う死海写本を含む死海文書の発見です。その後の調査で、これらの写本が紀元前1世紀頃の旧約聖書のほぼ全巻が含まれたものであることが分かりました。その時まで旧約聖書の完全な最古の写本とされていたのは西暦1008年のレニングラード写本と呼ばれるものでしたから、1000年以上古い写本が発見されたのです。実はこのレニングラード写本の正確さはかねてから問題視されていました。しかし何と何と両者を比較してみたところ、母音の使用法を除いてほとんど一致していることが分かったのです。このことにより、これらの写本の内容は、オリジナルの(原本の)旧約聖書ともほぼ一致するであろうと推定されています。 ユダヤ人は神の言葉である聖書をその一点一画までも大切にしたのです。イエスさまは「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:18)とおっしゃいましたが、ヘブライ文字は一つの点、一つの画が違えば別な文字になってしまいます。ユダヤ人たちは神の言葉をその一点一画に至るまできちんと伝えてきたのです。ですから、現在私たちが手にしている新旧約聖書は、細部における違いはあるにはあるでしょうが、ほぼオリジナルに一致していると言えます。安心して下さい。 さて、今月は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ書13:8)を主題聖句に、イエス・キリストの十字架と復活という私たちの信仰の根幹に関わる事柄について見てまいりました。今日はそのイエスさまの歩みを「キリスト賛歌」と言われるフィリピ書の言葉から見ていきたいと思います。 ここはパウロがあまり用いない表現等が見られることからパウロの作ではなく、異邦人教会で歌われていた讃美歌だと言われています。当時の人々がイエス・キリストの歩みと偉大なみわざをほめたたえた詩(ポエム)であるのです。 さて6節からを見ていくにあたって、この頃のフィリピ教会の状態についてふれておきたいと思います。フィリピ教会はガラテヤ教会やコリント教会に比べるならば問題の少ない教会でした。しかしそれでもこの教会も内側においては問題がありました。それは一つには教会内の意見の対立です。4章2,3節には二人の婦人の名前があげられており、彼女たちの意見の違いで教会が混乱していたことが分かります。何だかどこかで聞いたような話です。いつの時代も変わらないものです。また、福音宣教のために働く人々の思いもさまざまであったようです。「ねたみと争いの念にかられてする者」もいれば(1章15節)、「獄中のわたし(パウロ)を苦しめようという不純な動機」(17節)これは党派心とも訳されていますが、そのような思いでキリストを宣べ伝える者もいました。 しかしパウロはそれでも良いと言っています。18節です。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」その内容、何が宣べ伝えられているかこそが重要だと言うのです。人の心の動機はさまざまです。それがどんなものであれ、福音が宣べ伝えられることが神のみこころであるからです。その上で、27節からで「ひたすらキリストにふさわしい生活を送りなさい」と勧めます。キリストの福音にふさわしい生活をし、福音信仰のために一致すること、教会がひとつになることを説きます。この教会内の一致のために、このキリスト賛歌を用いて、キリストに倣う者となるようにとパウロは語るのです。 この「キリスト賛歌」は大きく分けると、5〜8節のキリストが人となって歩まれたこと、9〜11節のそのキリストが高く上げられたことに分かれます。 6節 「神の身分でありながら」の「身分」のところは、口語訳では「神のかたち」となっていますが、これは見た目の有り様だけでなく本質そのものを示す言葉です。キリストは目に見えるかたちだけでなく、その本質においても神と等しい存在でありました。しかしそのことに固執されることはなかった。神と等しくあることを断念されたのでも放棄されたのでもなく、こだわられなかった、自らの意志でご自身を惜しみなく与えられたのです。 7節 「僕の身分になり」の「僕」と訳されている言葉は“ドューロス”という言葉で、これは奴隷のことです。それはイザヤ書53章の「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」の姿です。これがキリスト歩みでありました。それは奴隷になられたことです。神であり続けることがお出来になられたのに、それを惜しみなく与えられた、それがここでの「無にして」の内容です。 8節 その歩みは謙りであり、己ご自身を低くされたものでした。それは一時的なものではなく死まで、それも十字架の死にいたるまで、従順に従われました。 9節 ここからがキリストがあげられた後半になりますが、前半との大きな違いは、主語が変わっていることです。前半の主語がキリストであったのに対して、ここからは神が主語となっています。このことは単に文章上のことではなく、キリストがご自分の力で高く上がられたのでなく、神によって上げられたことを謳っています。 これはキリストの従順に対しての神の応答によるものであります。決してキリストがその十字架の死によって神となったというのではなく、地上の歩みにおける神への服従によって、本来あったものがキリストに帰せられたことを意味します。十字架の死の前からキリストは神であったのです。「あらゆる名にまさる名」それは「主」という呼び名です。神がキリストにこの名をお与えになったのです。 10〜11節 全てのものがイエスの御名にひざまずくとは、正に礼拝を示しています。天上のもの、地上のもの、地下のもののすべてが礼拝して、イエス・キリストを主と告白すること、これが神がキリストを高く上げられたことの目的であることが分かります。 初めにも申し上げたように、これはキリスト賛歌という当時流布していた讃美歌をパウロが引用したものです。パウロは自らのキリスト論を展開させるためにこのキリスト賛歌を用いたのではありません。フィリピ教会内部にあった不一致の解決のためにこの手紙を書き、その解決のためにはキリストを模範とすることに学ばねばならないとする思いからこの讃美歌を引用しました。 しかしこれほどキリストの歩みを明確に言い表した箇所は新約聖書の他箇所には見出しえないほどです。この謙りと従順の中にキリストの歩みの全てが詰まっていると言えるのではないでしょうか。 今日のタイトルは最初は「人が神となったのでなく、神が人となった」としていました。神となった人間の話はいくらでもあります。お国のために戦死すれば神として祀られる国です、そのように言われています。また、自分の憧れの対象を神さまとして祀り上げたりもするほどです。私たちはそのように人が神となることを信じませんが、そのような話はいっぱいあります。しかし、その全く逆の、神が人となったというのは一般的には考えられない話です。それを大真面目に信じているのが私たちキリスト者です。キリストは神としてのかたちや身分、特権を捨てて、人としてこの地上に来られた。それも君臨するこの世の王として来られたのでなく、僕、奴隷となられた。あろうことか神が奴隷の身分、かたちで人間になられたというのです。その生涯においては、多くの群衆がまわりに集まって来て、もてはやされたこともありましたし、また王として歓呼の声で迎えられたこともありました。しかしその果てはどうであったか。死刑囚として無残に処刑されたのです。それも多くの人々から辱めを受けた上にです。水戸黄門なら、危機一髪の前に、印籠を出すのでしょうが、そのようなどんでん返しもなく、あっけなく絶命されたのです。しかしこれこそがご自分を無にされたことであり、キリストの謙りであり、奴隷としての姿でありました。 このキリストの神への従順の姿を模範とするようにパウロは勧めます。私たち弱さを持った人間にはキリストと同じ歩みは出来っこないと言うのは容易いことです。しかしその生涯の全て、いのちさえ惜しまず献げて、謙り従順に歩まれたキリストの愛によって私たちは生かされています。私たちの自らの思いや力によってはそれは為しえません。しかしこのキリストを主と告白し、そのキリストを主と崇め膝をかがめて礼拝することを通して、私たちはキリストの似姿に変えられていきます。以前にお話させていただきましたが、ひまわりは太陽を慕い、太陽の方に常に顔を向けていることを通して、その姿が太陽に似るものとされました。そのように私たちもキリストにひざまずき、キリストを見上げ、キリストを模範として歩むことで主と同じ似姿に変えられることを信じていきたいと思います。 今日のフィリピ教会のように、私たちは教会だけでなく、家庭においても職場においても意見の対立などから混乱や苦しみが起こるものです。しかしその時の解決法はこのキリスト賛歌に見られるキリストの歩みに倣うことしかありません。お祈りしましょう。黙想の時を持ちます。 |