「ちゅうにん」
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皆さんお帰りなさい。さて今日から九月の半ばまで申命記を読んでまいります。旧約聖書と聞くだけで敬遠してしまうという声を耳にすることがあります。しかしキリスト教はユダヤ教、言い換えれば旧約聖書の土台の上に発展した教えです。イエスさまご自身は当然ユダヤ教徒であられ、読んでおられたのは旧約聖書でした。旧約聖書を土台としない信仰、それは根が十分に生えていない草花のようなものです。旧約聖書は時代背景等が分かりにくかったり馴染みにくい部分があるにはあります。しかし旧約聖書は決して難しくありません。内容をつかみにくいというのが難しさの基準であるならば、イエスさまの教えの方が何倍も難解だと私は思います。 また新約聖書は愛の神であるが、旧約聖書の神はさばきの神だというのがあります。神さまにそのような二面性があったり、新約の時代になって急にキャラクターを変えられたのでしょうか。これもまた表面的な読み方であり、思い込みによるものと思われます。愛とさばきとの関係についてはまた別な機会にテーマとして取り上げようと思いますが、イエスさまは本当に厳しい方であり、そのさばきは容赦がないほどの厳しさで私たちに迫ってこられるお方です。確かに旧約の中にもそのような厳しさが前面に出ている箇所が見られるのは事実ですが、旧約の時代から神さまは愛と赦しの神であり、憐れみ深いお方であります。旧約聖書には、罪を犯し、約束を守らない民を何度も何度もゆるし、さばきを思い直される神の姿が記されています。 この申命記は創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる律法の書の最後の書簡です。書名にもなっている「申命記」とは「重ねて命じる」という意味の言葉で漢語聖書(中国語訳)からとられています。モーセを仲介として多くの律法が与えられました。それらの律法は出エジプト記や民数記などに記されていますが、荒れ野の旅の終盤、モーセが世を去る最後の言葉としてまとめられているのがこの申命記です。それ以前にも与えられていた神からの命令である律法をまとめたものであります。 その神からの律法の代表的なものが、十個の言葉であるこの十戒です。十戒と言えば、出エジプト記の20章に記されているものがありますが、この申命記にもこのように載せられています。この二つの十戒は細部においての違いはありますが、大枠においてはだいたい一致していると言えます。 十戒という名称はとても有名で良く知られていますが、実は聖書の原文中には十戒、十の戒めという言葉はどこにも出てきていません。新共同訳や口語訳聖書では「十戒」と訳されているところがありますが、これは元は「十の言葉」というのがその内容です。新改訳の聖書ではここは忠実に「十(とお)の言葉」と訳されており、これが原文に忠実な訳だと思います。十戒、十の戒めと呼ばれるようになったのは、紀元後2世紀に活躍したエイレナイオスとアレクサンドリアのクレメンスの著作にその名が見出されることによります。このことに関しては来週取り上げさせていただきますが、聖書教育に「申命記の十戒を読む」という概論の文章や聖書の学びにも記されておりますので、お読み下さればと思います。 さて最初に旧約に記されている神さまは決してただ厳しいだけのさばきの神ではないと申し上げました。そして今日の申命記は律法の書の集大成とも言える書簡です。ここに記されているのは神さまの深い愛です。愛と聞くと何だかイエスさまの専売特許のように考えてしまいますが、イエスさまの時代になって急に神さまが被造物である人間を愛され始めたのでは全くなく、神さまは天地をお造りになったその瞬間から変わらずこの天地をそして私たちのことを愛して下さっています。 この旧約聖書ですが、ユダヤ教の聖書、当然のことですがユダヤ教では新約聖書は正典ではありませんから旧約聖書などとは呼びません。それはいくつかの呼び名があるようですが、その一つは「聖なる書物」という書名です。この聖なる書物とキリスト教で用いている旧約聖書とでは実は違いがあるのです。それは文章そのものの内容ではなく、書簡の載せられている順番の違いです。旧約聖書はモーセ五書と呼ばれる今日の申命記までが最初にあり、次にヨシュア記からエステル記までの歴史書、ヨブ記から雅歌までの文学書、そしてイザヤ書からマラキ書までの預言書と続きます。ですが聖なる書物では、最初の五書、そしてヨシュア記から列王記までは同じですが、その次にはイザヤ書からマラキ書までの預言者の書があり、最後にその他の書、これはユダヤ教では諸書と呼ばれていますが、ここにヨブ記から雅歌まで、そして最後に歴代誌の順になっています。 さて本日の申命記の箇所ですが、これはモーセがイスラエルの会衆を呼び集めて伝えた十戒の前文に当たるところです。 1節後半 「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。」 この「掟と法」は口語訳では「定めとおきて」とされていましたが、この言い回しは申命記においては多く、全部で17回登場します。これは主がイスラエルの民たちに教えられたすべての命令の内容であり、イスラエルの民たちが守るべきすべてのことを表現しています。 2、3節 「我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」 ホレブとはシナイ山のことです。この山で主は契約を結ばれました。エジプトを出た後、ホレブで契約のみ言葉を聞いたイスラエルの民は、この荒れ野の放浪の旅の終わり頃の時にはモーセとヨシュア、そしてカレブを除いて全員が死に絶えていました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ23:32)とのイエスさまの言葉にもあるように、神さまは今生きている私たちを愛し導いて下さるお方なのです。 4、5節 「主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。」 聖書の神は顔と顔とを合わせて人間と出会って下さる神です。これは実際に顔を突き合わすという意味ではなく、それほどの親しい関係で、私たちのすぐ近くにいて交わって下さるということです。そして神がご自身の啓示を人間に理解出来る言葉で伝達して下さるお方なのです。 6節 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」 ここに十戒の根本精神が込められています。イスラエルの民はエジプトでの奴隷状態からの解放を願いました。そして民のその願いを神は聞き届けて下さいました。神が一方的にイスラエルの民を選び愛したからです。しかしイスラエルは神との約束を何度も踏みにじってきました。彼らは荒れ野でどれほど不平を言ったことか。荒れ野で食べ物が無くなると、「エジプトではお腹一杯食べることが出来た。私たちをこの荒れ野で飢え死にさせるためにここまで連れ出したのか」と。しかしそれでも神はイスラエルを見捨てることなく守って下さいました。 今日の宣教のタイトルを見て不思議に思われた方は多いと思います。私は常々タイトルは人の記憶に残れば、ある意味それで良いと思っています。ただ右から左に抜けるのでなく、立ち止まって考えてもらえればと願うからです。 今日の「ちゅうにん」とはモーセのことです。そしてそれはイエス・キリストのことでもあります。「ちゅうにん」と平がな表記にしたのは、漢字で書くと立ち止まってもらえないと思ったからです。それはもめごとの仲裁をする人のことです。また、英語のtuning 電波の波長を合わせたり、楽器の音合わせをすることでの調節の意味をも感じ取ってもらえたら幸いです。少し無理がありますかねえ。 5節に「わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた」とあります。神と民との間に立つ人、その関係を取り持ち、仲立ちをしたのがこのモーセでありました。民の不平を聞き、それをとりなし、神に伝える役割です。誰もこんな役目をしたいと思う人はありません。しんどく苦しいだけの働きです。モーセも神によって一方的に選ばれてこのちゅうにん、仲介人の役割にある意味無理矢理つかせられました。しかしモーセの働きがなかったならば、イスラエルの出エジプトはありませんでした。それほどモーセの働きは大きなものがあったのです。その仲介があればこそ、イスラエルは約束のカナンの地に帰ることが出来たのです。しかし一番の功労者とも言えるモーセは、約束の地を目の前にして、120才で、その生涯を終えることとなります。このあたりのことは申命記の最後に記されています。 このモーセの生涯を思う時に、一人の人物の姿が浮かび上がってきます。神と民との間に立ち、その仲介役、ちゅうにんとしての役割を果たし切ったお方。そうです。イエス・キリストです。聖書教育にも書かれているように、モーセこそイエス・キリストの似姿です。イエスさまは今も、私たちと神との間に立ち尽くし、仲立ちをして下さっているのです。 「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ばされました」 (エフェソの信徒への手紙2章14〜16節) 私たちは人と人との関係においては「敵意という隔ての壁」をすぐに築いてしまいます。自分で意図してのことかどうかにかかわらず、人間関係にひびが入る事態に陥ります。そうなるともう当事者ではどうしようもなくなることが往々にしてあります。その時には間に立ってその仲立ちの役目をする人がどうしても必要になってきます。神と人との関係において、そのちゅうにんとしての役目を果たしたのが今日のモーセであり、そしてイエス・キリストです。人間同士の関係においてもこの役目はとても大変です。ましてや神と人との間に立つのですから、これがどれほどのものであるかは想像するに難くありません。しかしこのちゅうにんがいればこそ、私たちと神との関係は壊れることなく保たれているのです。モーセそして何よりイエス・キリストに心からの感謝を献げて祈りましょう。黙想の時を持ちます。 |