「愛の神のじゅっかい」 


 申命記5章6、7節 
 2005年7月10日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。と言うより、私の方が「ただいま」と言わなければならないのかもしれません。先週は全国教役者会に参加させていただきました。これは2年に一度の全国の牧師たちの集いです。今年は南九州地方連合が幹事役となって鹿児島の霧島で行なわれました。南九州は鹿児島・宮崎・熊本県の教会の連合ですが、私の以前おりました大牟田は福岡県なのですが、福岡県の最南端に位置していることから、南九州地方連合に属していました。飛行機の関係で前日に宮崎に渡り、宮崎教会の伝道所である青島伝道所に宿泊させていただきましたので、宮崎もとても懐かしかったです。いろんな思い出があります。楽しかったこともありますが、辛かったこと、苦しかったことなども思い起こされました。霧島は温泉地としても有名です。朝から温泉に入れる恵みにも与りました。いろんな先生から「高知はどうですか、慣れましたか」と声をかけていただきました。岡部元英先生が来られており、「教会の皆さんによろしく、8月には帰省し礼拝に出席させていただきます」とおっしゃっていました。送り出して下さったこと、お祈りをありがとうございました。

先週より申命記の十戒を取り上げております。先週もお話しました通り、この申命記は旧約聖書の律法の書の集大成とも言える書簡です。ここにおいて前提となっているのは出エジプトの出来事です。その際に与えられたのがこの十戒といわれる「十の言葉」です。

 この十戒、一般的によく「じゅっかい」と言われますが、聖書の小見出しのルビ、5章の1節の前を見ますと、そこには「じっかい」とありますが、正しくは「じっかい」です。「じっかい」でひかないと辞書にも出ていないのが通常です。ただ言葉というのは生きています。それゆえ何が正しくて何が間違いであるかは一概に言い切れるものではありません。元々はそうでなかったものでも一般的に使われるようになると、その本来のものではなかった表現が通例となり、誤りではなくなることが往々にしてあります。一例をあげると、「一所懸命」は今では「一生懸命」の方が正しいかのようになっています。この「十戒」もそうで、「じゅっかい」という言い方が一般化しているようですが、これも正しくは「じっかい」であります。

 それゆえ、今日の宣教タイトルも「愛の神の十戒(十の戒め)」ではありません。これは「愛の神の述懐」心の中の思い、懐の思いを述べる、のじゅっかいです。先週も申し上げました様に、申命記は神さまの深い愛を記した書簡です。この申命記はモーセの遺言とも言われるものですが、どれほどの大きな愛をもって神さまがイスラエルの民を愛したか、そしてその民への期待として与えられた律法に関して、モーセがその生涯の晩年に語った説教が申命記の中心です。

 今月の聖句は6章の4〜5節としましたが、これは「シェマー」(「聞け」という意味のヘブル語)と言われるユダヤ教における朝と夕の主要な祈りの一部です。6章4節をご覧下さい。291ページです。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

この4〜9節までを「シェマー」と呼び、基本的な信仰告白とされています。そして毎日朝夕にこの言葉を唱えて祈ります。ユダヤ人はこれを幼い時からくり返し教え込まれ、経札としてこの聖句を皮の帯や小さな入れ物に納め、額や腕に身につけるのです。それだけでなく、家に座っているときも道を歩くときも寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせるというのです。神さまとの契約関係を忘れることのないようにとの意図がそこにあります。なぜ神さまを愛するのか、それは先ず神さまがイスラエルを愛し、救い出して下さった、その愛によって生かされている者が感謝の応答として「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神さまを愛することが求められているのです。イエスさまも「律法の中でどの掟が最も重要か」と尋ねられた時に、この申命記の律法を挙げておられます(マタイ22章37節)。

 ヘブル語原典には「十の戒め」という言葉は出ておらず、それはただ「十の言葉」と記されているだけだと先週申し上げました。また聖書教育に書かれているように、ヘブル語に禁止の命令形はないという人もおります。そういったことからもこの十の言葉は果たして戒めであるのかとも言われています。

さて十戒をこれから読んでまいりますが、聖書には十戒の名称が特定されていないだけでなく、この十戒の区分け、どれが第一でどれが第二かというのもはっきりとは記されておらず、教派によってその区分けはさまざまです。これから毎週6節のみ言葉を取り上げます。この6節は一般的には「十戒」の前文とされますが、ユダヤ教においてはここを第一戒、第一の言葉としています。この6節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」が十戒の原点だとの考えによるからです。

 私たちは戒めや戒律と聞くとどのようなことを連想するでしょうか。戒めを喜ぶ人はないでしょう。戒めは自由を奪うものであり、人を束縛し窮屈な思いをさせるものと考えます。エジプトの奴隷の家から導き出した神さまが今度は「あれをするな、これをするな」という具合にイスラエルの民を縛り付けるためにこの十戒、十の言葉を与えたのでしょうか。エジプト人から解放した神が、エジプト人のかわりに神ご自身に民を縛り付けようとされているのでしょうか。

 7節「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」

ここは口語訳聖書においては次のように訳されていました。「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない」。「あってはならない」と「してはならない」、細かな違いに思われるかもしれませんが、ここから伝わってくるニュアンスは微妙に変わってきます。どちらも間違った訳だとは言えないのですが、原文のニュアンスをより反映しているのは新共同訳の方だと言えます。口語訳の「神としてはならない」は、「まことの神以外は拝むな、私が神なのだ、私以外のものを一切神としてはならない」という他に選択肢がない強制的な命令のように受け取れます。一方新共同訳からは「この言葉を与えるもの以外に真の神があろうはずがない、あなたにとって私以外のまことの神はないではないか」との当然の帰結が伝わってきます。

 人間は神さま以外のものをすぐに神さまにしたがるものです。実際出エジプト記32章を見ると、モーセがシナイ山でこの十戒を授かっている間に、あろうことか人々は兄のアロンに頼んで金の子牛をつくり、それを神としていました。私たちも父なる神を神とするよりも自分自身を神にしたり、お金や様々な偶像を神として拝みたがるものであります。そのことを神さまが禁じられて、無理やり「よそ見をするな、こっちを向け、私こそが神なのだ」とおっしゃっているのではないのです。あなたにとって、まことの神は私以外にはない。だからあなたが私のほかに何ものかを神とすることは考えられない、あなたは当然のこととして私を神とするはずであるという神さまの愛に基づいた私たちへの期待が述べられているのです。そのことを反映したのが新共同訳の翻訳です。ちなみに新改訳聖書もこの7節は「あなたには、わたしのほかに、神々があってはならない」としています。

 6節は十戒、十の言葉の基本だと言いました。これは神さまの自己紹介の言葉です。ご自分がどのような神であるか、ご自分が何をされたのかを明確に述べておられるのです。忘れ難い出エジプトの出来事を思い起こされます。実際イスラエルの民はこの神さまによって救い出された出エジプトの出来事を忘れることのないよう過越の祭りを毎年行ないます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」奴隷の状態から引き出し、解き放ったのはこの私であるというのです。戒めに先立った神さまの救いの出来事が思い起こされます。これは命令でも強制でもなく、当然のこととして、神のみを神として礼拝する姿勢となることを神さまは期待しておられるのです。

 この6、7節において、というよりこの後の十戒の中では、「あなたたち」という複数形が用いられていません。イスラエルの民全体を対象としているのですから、「あなたたち」とすべきところなのでしょうが、ここでは「あなた」とこの言葉を与える一人ひとりを念頭において語られていることが分かります。また、「あなた」「わたし」という言葉が繰り返し用いられています。5月のメッセージでイエスさまは、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の極限の状態にあっても「我が神、わたしの神」と三人称ではなく二人称で神に祈られたことをご一緒に見ましたが、ここにおいても神さまはイスラエルの民に二人称で語りかけて下さっています。

この十戒は愛の神の述懐です。イスラエルの民が優れているから神さまが愛されたのではありません。それは一方的な憐れみに基づいた愛です。愛は人を縛り付けるものではなく、愛は自由を与えます。それゆえある人は十戒を「自由への道しるべ」と言いました。その愛でもって導き出された民たちは荒れ野においても全く優等生ではありませんでした。しかしその彼らを神さまはお見捨てになることなく、昼は雲の柱、夜は火の柱でもって導き続けられました。その神さまが「わたしは主、あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した」と告げてご自身の心の内にある民への期待を述べられた、述懐されたのがこの十戒です。

 このようにイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から引き出した神さまは変わることなくイスラエルを愛し続けられました。途中、王国の分裂やバビロン捕囚の出来事はありましたが、民がどんなに神さまを裏切ろうとも、神さまはイスラエルをお見捨てになることなく、彼らがご自分に立ち帰るように期待しておられました。しかしその期待に応えることのない民に、神さまはその御ひとり子であるイエス・キリストを私たちのところに送って下さったのです。主イエスは私たちを罪の奴隷であった者たちを救い出して下さったのです。そのことによって、神さまと私たちの間には一つの絆が出来ました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」というのは、あなたはこの絆に生きるよりほかないという神さまの期待であり、それは今も変わりない神さまの愛です。この第一の戒めを唱える私たちは、神さまと約束します。「ここからは出て行きません。ほかに生きる場所もありません」と。この方以外に私の神さまはおられないと言うことは、この神さまによる以外に私の生きるすべはないと断言することであるのです。

 十戒は私たちの自由を奪い取る物では決してありません。私たちがこの十戒において神さまと約束を交わすことは愛の神さまによって与えられる祝福と救いを失うことがないようにするための私たちの応答にほかなりません。失うことがないようにということは、この救いと祝福がもう既に与えられているということが前提になっています。救いと祝福を手に入れるために、がんばって戒めを守るというのではなく、既に得ているこの救いと祝福を失うことがないように、祝福の中に立ち続けることなのです。あの苦しかった奴隷の状態から救い出した私の愛に応えるものとなるだろう、そうする以外にあなたの生きる道はないのだから、わたしをおいてほかに神があってはならない、との神さまの期待がこの第一の言葉です。あなたは神である私の祝福を既に受けているのだから、わたしをおいてほかに神があってはならない、あなたはそのように生きるはずだとの神さまの愛による期待がこのみ言葉です。その神さまの期待に応えるものでありたいと願います。お祈りをします。今日のみ言葉から得た導きを心に深く刻むために黙想の時をもちましょう。


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