「偶像なんかいらない」 


 申命記5章6、8〜10節 
 2005年7月17日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  皆さんお帰りなさい。世界で最も読まれている本、それは聖書です。永遠のベストセラーと言われています。日本のようなキリスト教国ではない国においても毎年着実に売れ続けているそうです。案外キリスト者よりもそうでない人の方が聖書をよく読んでいるのかもしれません。私たち信仰者も一度は聖書を通読する、でもその後も続けて聖書を読んでいるかということです。主は私たちに、日々継続的にみ言葉に触れることを求めておられます。

しかし私は教会につながらずにいくら聖書を読んでも神のみこころは分からないと思います。これは決して礼拝のメッセージを聞かないと神のみこころが分からないとか、牧師にしかみ言葉の説き明かしが出来ないなどということではありません。聖書は教会の交わりの中で読まれなければ真の意味は分からないということです。

 今、交わりと言いました。非常にきれいな言葉です。しかしまた別な面でいうと誤解されかねない教会用語でもあります。ある人が教会に行き始めた頃に一人の魅力的な異性の方から、「これから深いお交わりを」と言われてどきまぎしたという話を聞いたことがあります。ここで言う交わりとは何も特定の親しい関係になるということではありません。また、ただの楽しいお付き合いでもありません。教会における交わり、それはキリストのからだなる教会を建て上げていく営みのことです。

教会を建て上げていくのは本当に大変です。それは疲れます、また時には傷つけられたり人を傷つけたりすることもあります。こんなにしんどい思いをして何で教会に行かなければならないのかという話をよく耳にします。私は決してそのように教会ががたがたしていることやもめごとがあること、傷を受ける人が出ることを肯定しているのではありません。

しかしそれでも主は教会を建て上げることを私たちに求めておられます。いつも言っていることですが、私はキリスト者の使命というか神さまが私たちに求めておられる第一のことは、伝道よりも、教会を建て上げていくことだと思っています。いくら伝道して人を教会に導いたとしてもその当の教会が整っていなければ何にもなりません。そしてキリストの弟子となる、主に喜ばれる弟子となる。より一層主に喜ばれるキリストの弟子となり、教会を共に建て上げていきましょう。そのためにもみ言葉に聞き続けていきましょう。

 先週の礼拝後、何人かの方から申命記はおもしろいですねと言われました。そうです。旧約聖書は面白いのです。食わず嫌いならぬ読まず嫌いにならないようにしたいものです。今は聖書教育の聖書箇所に合わせてメッセージしていますが、旧約が大事だと言いながら、旧約からのメッセージが少ないのでは考えものです。だからと言うわけではありませんが、祈祷会では先週から、詩編を読んでいます。旧約を学びたい、読んでみたいと思われる方は是非祈祷会にお出で下さい。

さて先週は十戒、十の言葉をお与え下さった神さまが先ず私たちを愛し、エジプトの奴隷の家から導き出して下さったこと、その神以外にまことの神はあろうはずがない、「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」と愛の神は述懐されていることをみ言葉に見ました。しかしここで一つ誤解してはならないことがあります。「他に神があってはならない」というのは他の宗教を、また他の神を一切認めないとおっしゃっているのではありません。先週は触れませんでしたが、この「わたしをおいてほかに」との訳は意訳です。この原文の直訳は「わたしの顔の前で、わたしの面前で」です。ここにおいては決して他宗教や他の神々の存在は否定されていません。「わたしの顔の前では、他の神々があろうはずがない」と愛の神が述懐されているのです。

 今月に入ってロンドンでテロがあり、その実行犯はパキスタン系の人物だと報道されています。そしてイスラム教過激派のアルカイダに犯行の疑いがかけられています。私は礼拝で政治的な話をすることは極力避けるべきだと思っていますし、その発言には非常な慎重さが必要とされると思います。政治家のことを簡単に批判するのも慎むべきです。ただ、一つだけ言えることはテロを生み出す現在の世界情勢は、宗教間の対立がその主な原因では決してないということです。それを安易に、イスラム教対キリスト教の構図にはめ込んだり、イスラム教は危険な恐い宗教だというような結論を出さないことです。イスラム教徒だけでなく、ユダヤ教徒もいや、伝道、布教の名のもとに最も大きな罪を犯してきたのはむしろキリスト教徒でしょう。恐ろしいのはそれらの宗教の教えや神ではなく、原理主義です。原理主義は自らの存在、考えを絶対化します。自分と異なる他の意見を認めなくなります。これが原理主義の恐ろしい点です。それは自己を絶対化し、他者を排除し抹殺することに及びます。また悪いのは一部の原理主義者だけで、私たちには罪はない、自分は無関係だと言わんとしているのでもありません。この自己絶対化こそ、申命記において神さまが述懐され、悲しまれていることです。そしてこれが今日の箇所における偶像崇拝へとつながっていくのであり、私たち一人ひとりが陥りやすい罪にほかならないのです。

 先週この十戒と言われている十の言葉の区分けはさまざまあると述べました。今日のこの8節と先週の7節も、二つに分ける考えと一つのものとする考えがあります。聖書教育は二つに分ける考えによっていますが、ここで述べられている内容は同じものとも言えます。「わたしをおいて他に神があろうはずがない」だから「あなたはいかなる像も造ってはならない」のです。この「いかなる像もつくってはならない」の部分も先週お話しましたように「あなたはいかなる像も造ろうはずがない」との解釈が成り立ちます。これも愛の神の述懐なのです。

 口語訳聖書ではここは「自分のために刻んだ像を造ってはならない」とあります。結局、偶像を造るのは自分のためです。人は自分に都合がいい、自分の役に立つ偶像を造りたがるのです。

 自分のための偶像、都合のよい役に立つ偶像は口を利きません。もの言わない神は何の役にも立たないとも思えます。しかし考えてみると、案外私たちは神がものを言わないほうが助かると思ってしまうものです。神が余計なことを言うから、自分の進もうとする道が変えられてしまう。思ってもいない方向、望んでいない道に、行きたくない方に進まなければならなくなる。また神が何か言うから、良心の咎めを感じる。いっそ神は黙っていてくれた方がありがたい。

 私たちは神さまに対して、そのように思っていないでしょうか。偶像とは、都合よく自分の役に立ち、自分の思い通りになる神のことです。刻んだ像、それは偶像です。しかし具体的にそのような像を造るかどうかだけではなく、ここで愛の神さまが述懐されているのは、私たちの心の中を祭壇とし、そこに自分にとって都合のよい、自分の思い通りになる偶像を祀らないようにということです。

 偶像は便利です。好きなように自分の置きたい所に置け、拝みたいように拝めます。すなわち神を自分の手の中に収めるのです。その偶像が役に立たなくなったり、自分にとって都合が悪くなったらどうするのか、ポイっと捨てるのです。そして新しい別の偶像を祀りあげるのです。このことは教会の中、聖書の神さまを信じた者にも往々にして起こります。全く他人事ではありません。自分は聖書の神さまを信じている、そういう人の心の中においても、まことの神さまを自分の都合のよい偶像に仕立てあげていく誘惑の声は常に聞こえており、その罪を犯してしまうのです。

 聖書教育には、神は霊であり自由なお方である、神は動かない物に結びついて不動のものになってしまわないお方、土地や建物に結びつかないで、むしろ人や民に結びつくお方である、とあります。神さまは不動の、動かないお方ではありません。エルサレム神殿にさえ、永久的におられるお方でもありません。もしそうであるならば、エルサレム神殿が崩壊した際に失われたはずです。生けるまことの神さまとは断じてそのようなお方ではありません。私たちが神を持ち運ぶのではなく、神さまが私たちの内側に宿って下さり、私たちを導いて下さるのです。

 今日の9節には「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」とあります。口語訳では「ねたむ神」とされています。妬みと聞くと、嫉妬や憎しみが連想され、愛の神さまがそのようなお方であるのかと意外な気持ちにさせられるかもしれません。これは、神さまは私たち人間が他の神、偶像に仕えることに嫉妬をおぼえるほど私たちを愛していて下さる、それほどの熱情を抱かれるお方だということを示しています。夫婦や友人関係で考えてみても、どうでもよい相手に対して、妬みや嫉妬心を持つことはありません。それは大切な人、また愛する人に対して抱く感情です。まことの生ける神、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神」は妬みを起こすほどの熱烈な思いをもって、イスラエルの民、そして私たちを愛して下さっているのです。それほど私たちのことを思って下さる神さまであり、その思いは妬みを起こすほどに私たちを熱愛して下さっているのです。

 神さまは私たちと親しく交わって下さいます。そして私たちに我と汝の関係で、「あなた」と二人称で、直接語りかけて下さいます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した」と。

神さまは私たちの視覚では捉え切れないお方です。また直接手で触る、触れることの出来るお方でもありません。しかしたとえ私たちの目には見えなくとも、また手で触れることは出来なくとも、神さまの方で、私たちに目を注いで下さり、私たちに触れて下さいます。その交わりには偶像なんか必要ありません。私たちには聖書のみ言葉が与えられています。またイエスさまがこの地上に降って人間と共に歩んで下さいました。そして私たち一人ひとりに妬みをおこすほどの熱情を持たれる生けるまことの神さまは、今も私たちに聖霊さまを送って下さっています。そこには、偶像なんかいらないのです。

 最後に新約聖書のみ言葉をお読みします。お聞き下さい。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する

からです」。     (コリント信徒への手紙二4章18節)


「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わし

  になる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話

  したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

(ヨハネによる福音書14章26節)

お祈りいたします。黙想の時を持ちます。

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