「神の名を唱えちゃいけないの」
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皆さん、お帰りなさい。教会は全ての人に開かれています。それは言い換えれば、誰がこの場にやって来てもよいのです。教会の素晴らしさは、幼児から高齢の方に至るまで全年齢層が集える場であることです。もし教会がそのような場でなければ、それは教会として考え直さないといけない課題であると思います。集えるというのは、何もこの場に入ってこれるということだけでなく、礼拝に招かれているということです。ですから今こうして行なっている礼拝は決して「大人だけの礼拝」ではないということです。礼拝には子どもたちも招かれているのです。彼らにも礼拝する権利というか、恵みが与えられているのです。 今日から、以前からそのようになってはいたのですが、子どもメッセージのある時は、その時間だけ子どもたちが礼拝堂にいるのではなく、その前から礼拝堂にいて共に礼拝するとようにしようということになりました。最終的には子どもも一緒に毎週礼拝出来るようにと願っています。この教会には多くの子どもたちが与えられています。彼らにどのように信仰を伝えていくのかが問われています。子どもたちに信仰を、また礼拝することを教えていくつとめは、教会全体に託されているわざです。何も子どもたちのご家族や教会学校の教師の先生だけに課せられているつとめではありません。子どもたちに信仰を伝えていく最良の場、それは礼拝です。私たちは礼拝をすることで、言い換えればどのように主と向き合っているかということを通して、彼らに信仰を伝えていくのです。ですから子どもたちを叱る時には叱っていいのです。礼拝は誰にでも出来るわざです。それゆえこれを大人だけが独占するものではありません。子どもたちにもその場を与え、また礼拝することを伝えていくことが主から求められているのです。このこともキリストのからだなる教会を建て上げていく上においての大きな課題です。共に教会をそして礼拝を建て上げていきましょう。 さて、申命記の十戒、十の言葉の今日は四回目です。イスラエルの民はエジプトで奴隷のように扱われていました。そのイスラエルの民の願いに応えて、主なる神はエジプトから救い出して下さいました。これが出エジプトです。6節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した神である」そうおっしゃった主なる神が自らの心にある思いを述懐しておっしゃったのがこの十戒です。 宗教と言うと、教理や戒律に従うというイメージがあるかもしれません。しかしこの十戒は単なる戒律の言葉ではありません。これはエジプトの奴隷の状態から解放して下さった神さまから新しい土地で国を再興するために与えられた一つの指針です。神さまは私たちに希望に輝いた新しい生き方はこれである、あなた方もこのように生きることが出来るのだという喜びの目当てとしてこの十戒を与えて下さったのです。生きるべき指針、生きる喜び、また命を与えられていることへの感謝を見失ってしまっている現代社会に生きる私たちこそが、この十戒に聞くことが求められているのではないでしょうか。 十戒を律法主義の戒律として捉えてしまうならば、この神さまの言葉は無味乾燥な喜びのないものとなってしまうでしょう。しかしこれを「こんなにも素晴らしい生き方が出来るのだよ」と語り掛けて下さる神さまからの励ましの言葉と捉えるならば、そこには希望を見出すことが出来るのではないでしょうか。これは私たちを生かすいのちの言葉であります。そしてこのいのちの言葉は私の人生にも、また今日この言葉を聞かれた皆さんお一人おひとりの人生にも実現するのです。 さて、最初にお詫びしなければなりません。先週の週報では今日の聖書箇所が申命記5章12〜15節となっていましたが、正しくは11節です。そのため表の看板の箇所も違っています。申し訳ありませんでした。 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」 戒律ではなく、喜びの指針だなどと言っておきながら、何とも恐ろしい言葉です。この言葉は古来より過ってというか、本来の意味とは違うかたちで理解され遵守されてきました。ここでは主の名を唱えてはならない、と言われているのではなく、「みだりに唱えてはならない」とされているのですが、この後半の罰則とも受け取れる言葉があるものですから、うっかりすると「みだり」な唱え方、間違った使い方をして神の罰を招きかねない。それならば、いっそ神さまの名を唱えない方がよいと考えられて、一切神さまの名を唱えなくなってしまったのです。その結果、聖書に書かれている実際の神の名の呼び方、発音の仕方が分からなくなってしまったのです。 旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、この言語はアルファベット22文字のすべてが子音で構成されています。母音文字がないのです。これでも昔の人は読むことが出来たのですが、後の時代の人間にはこれでは読むことが出来ません。それで紀元後7世紀頃に母音符号を作り、やっと読めるようになったのです。 神さまの名前のヘブライ語ですが、これはローマ字で言うと「YHWH」に当たる文字で表わされています。これを神聖四文字と言います。この十戒で神さまから言われたことを守っていたイスラエルの人々はこの神聖四文字をどのように発音したらよいのかが分からなくなってしまいました。それでこの神の名を表す神聖四文字を「アドナイ」これは「主」という意味ですが、これに置き換えて読んでいました。この「アドナイ」に付けられる母音符号をそのまま神聖四文字の「YHWH」にあてますと、それは「エホバ」となります。ですから文語訳の聖書では「エホバ」となっており、これが神の名だとされていました。しかしいろいろと研究が進みまして、どうもこれは誤りだ、この神聖四文字の正しい発音は「ヤハウェ、またはヤーウェ」ではないかとされ、今ではこのヤハウェが正しいだろうとされています。 出エジプト記の3章では、「あなたの名前は何というのですか」とモーセが神に尋ねた記事が載っています。この時、神さまは「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)とお答えになりました。これがヤハウェという名前の由来です。 神さまはここで「神の名を唱えるな」とはおっしゃってはいません。それを「みだりにとなえてはならない」とおっしゃっているのです。なぜか、昔の考えでは、名前を知ることによって、神さまの力がその人に宿るとされていました。神の名を用いて人を呪うことが行なわれていたのです。そういったことを禁じている言葉だと言われていました。しかしそのような呪いをかけることだけでなく、私たちは神の名を用いて自らを正当化することがあります。自分の主張を権威づけるためや自らの考えや行動を正当化する、そういったことのために軽々しく神の名用いることを禁じたものであります。自分自身の正当化のために神の名を用いること、自己を絶対化することであり、これも大きな意味でいうところの偶像崇拝につながります。 ここで求められているのは、神の名を呼ぶことを忘れるほどにしなくなることではなく、主である神さまの名をきちんと呼べるようになることです。自分のための偶像を造らないのと同じように、自分自身を主としたり、自分の都合で神の名を呼ぶことはしないということです。神の名を呼ぶときは、その神を心から主とするのです。神さまは私たちの主である、そこに立って神を呼ぶのです。 この十戒の原点は6節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と神さまはおっしゃっています。そしてイスラエルの人々をエジプトから導き出したように、もっと深く、もっと広い方法でイエス・キリストは、罪の奴隷であったわたしたちをこの奴隷の家から導き出して下さいました。神さまが主であられる、イエスさまこそが主でいて下さって、私たちを救い出して下さった。そのみわざを心から信じ、拝み、そしてその神の名を自分勝手には用いないということが今日の言葉の基本です。 その神さまの愛を信じ、その神さまに支配されることを自分の喜びとして生きる、そうなると私たちは主の名を呼ぶときは、喜びをもって呼ぶことが出来ます。これはみだりに呼んでいることにはなりません。心からなる信頼をもって呼ぶことになるからです。 イエスさまは主なる神さまを、「アッバ、父よ」と呼ばれました。そしてローマの信徒への手紙8章15節、新約聖書284ページですが、そこに 「あなたがたは、人を奴隷として再び陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッ バ、父よ』と呼ぶのです。」とあります。私たちは神さまから与えられた聖霊さまによって、神さまを「父よ」と呼ぶことが出来るようになったのです。神さまを父と呼び続けるのです。これは決して禁じられていることではありません。罰せられるどころか、神さまがいつも喜んで聞いて下さる、神ご自身の名であります。 また、ローマ人への手紙10章13節には次のみ言葉があります。288ページです。 「『主の名を呼び求めるものはだれでも救われる』のです。」 これは旧約聖書ヨエル書3章5節の引用ですが、とても気前の良いと思えるほどの言葉です。これは今日の十戒で禁じられている「みだりに」唱えることでは全くありません。神を主として、救いを求めることです。一般的には救いを得るには、さまざまな条件がつきます。修業をつんだり、戒律を守ったりしなければなりません。 しかし聖書の神さまは「主の名を呼び求める」ことだけで、「誰でも」救われるというのです。神さまが求めておられるのは、「わたしの名前を一切唱えてはならない」ということでは全くなく、私たちが神さまのみ名を呼び求めること、神さまを自分の主とする出会いと交わりを求めることなのです。ここにこそ救いがあるからです。
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