「安息日をきちんと」
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皆さんお帰りなさい。十戒も五回目、半ばとなりました。今日の宣教のタイトル実は「安息日をきちんと○○○」としたかったのです。○の部分に何を入れるかを想像していただこうかと思いました。さて皆さんなら何を入れられるでしょうか。「安息日をきちんと守る」「覚える」「聖別する」などを思い浮かべられると思います。いずれも間違いではないでしょう。ただ今回私が示されたのは、それらの安息日の用い方の根本です。安息日をきちんと守るにも、覚えるにも、きちんと過ごすにも、先ず最初に安息日をきちんと「理解」しないことには始まらないのではないでしょうか。かく言う私もこのことをみ言葉からちゃんと受け取っていない時期が長くありました。教会の中でただ何となく常識として把握しているだけで、しっかりとみ言葉に聞いて理解していないことがあるように思います。自分では分かったつもりになっているけれども、本来の意味を誤解してしまっているならば、み言葉に聞きつつ正しく理解し直す必要があります。そうしてこそ初めて、安息日をきちんと守ることが出来るのではないでしょうか。 この第四戒は、十戒の中で最も大切な言葉の一つであります。十戒は大きく分けて二つに分けられます。前半は今日の第四戒までで、神と人との関係に関するもの、そして後半の第五から第十の戒めには、人と人の関係が記されています。その中で最も多くの言葉を用いて愛の神が述懐されているのは、この安息日に関する規定です。日本語の聖書においても、この規定のために12行も割かれています。これが重要な戒めであることの証です。それだけ神さまの思い入れ、私たちに対する期待が大きいことが分かります。また、十戒の中で、その理由が述べられているのも今日の戒めだけです。ここにもこの規定を重要視されている神さまの思いが表れています。 今日私がお話させていただく内容は少し耳の痛いことがあるかもしれません。またこれを聞かれる方の中には反発を感じられたり、傷つかれる方が出るかもしれません。私も何を語るかを考え、祈り求めました。その中で示された言葉を取り次がせていただきます。 十戒はこの申命記にだけでなく、出エジプト記の20章にも記されており、この両者は大筋において同じだと言えます。しかし異なる点も見出されますが、その最も大きな違いが今日の言葉の中にあります。それは神様がこの戒めを与えられたこととの理由を述べておられる部分です。 申命記では15節には「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とこれが出エジプトの出来事を思い起こすためのものであるとされています。一方、出エジプトの20章11節、126ページになりますが、そこには「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と天地創造の際に神が七日目に休まれたことをおぼえるためにこの戒めが与えられたとされています。この理由に関しては後ほど触れます。 安息日に関する誤解の第一は、旧約聖書の律法全体に対する誤解です。それは「私たちキリスト者は、旧約聖書の律法からは解放されている。だから安息日についてもそれは旧約のイスラエルの民に与えられたものであって、私たちはそれに縛られる必要はない」というものです。律法を救いの手段として用いるならば、確かに律法は福音に対立するものでしょう。しかしこの律法は、神さまがイスラエルの民に救いの条件として与えたものではありません。もしそうならば、神はエジプトから解放する前に十戒を始めとする律法を民にお与えになったはずです。しかし十戒は出エジプト記によると、エジプトを出た約50日後にモーセに伝えられました(出エジプト記19章1節)。先週も申し上げたように、この十戒は救い出されたイスラエルの民への新しい生き方の指針、希望の目当てとして神がお与えになったものです。イエスさまも「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:18)とおっしゃいました。また、パウロもガラテヤ書で「律法は、わたしたちをキリストへと導く養育係となった」(ガラテヤ3:24)と述べています。律法を通して私たちは神さまが求めておられる基準を知ることが出来るのであり、そのことで私たちは罪の自覚が促され、自分自身の至らなさ、罪を示される。その意味で律法は養育係の役割を果たしているのです。それゆえ私たちはこの律法を実践することを通してキリストへと導かれていくのです。 誤解の第二は、安息日の守り方の誤解です。安息日を守るとは、礼拝に出席することだというものです。さらに言うと、礼拝のメッセージさえ聞けばよいという誤解です。メッセージにさえ間に合えばよいというのは、行き過ぎた理解ではあっても、安息日を守ることは礼拝に出席することだという誤解は今日深く浸透しているように思います。私もそのように思っていた時期がありました。 申命記の十戒の中で、主が述べておられるこの戒めが与えられる理由は、出エジプトの出来事を思い起こさせるためです。これに関しては毎回、十戒の原点は6節の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」にあると申し上げてきました。出エジプトの出来事とは、神の一方的な救いの事実です。それはイスラエルの民が優れているからではない、ただ神の憐れみによってエジプトの奴隷の状態からの救いです。その神の救いのみわざを忘れない、心に刻み込む、覚えることがこの戒めの目的であるのです。 このことは私たちにも同じようにあてはまります。私たちもかつては罪の縄目にとらえられた奴隷でした。罪の中に死んだものであったのです。その私たちを救い出すために、父なる神さまは御子イエスさまを十字架につけて贖いの供え物とされたのです。このイエスさまの十字架の死によって私たちは新たないのちを賜り、赦されて生きているのです。この罪からの解放を第二の出エジプトとも言います。ですから私たちが安息日を守ることは神さまの救いの出来事を覚えることであり、今の私たちに対しても求められていることにほかなりません。 もう一方の出エジプトの記述では「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。これは神の創造のみわざを覚えることであり、主の祝福への招きであります。私たちは被造物、造られたものであり、絶対的な主権者は造り主なる神であります。その神さまによっていのちを与えられた、生きる意味も目的もこの主権者なる神にあるのです。そしてこれは大いなる祝福であります。その祝福への招きの応答が、主がされたように私たちも安息し、この日を聖別することにあるのです。 この安息という訳語ですが、これはヘブライ語の「シャバット」という言葉を訳したものです。これはギリシャ語や英語ドイツ語でもそのまま音訳され、シャバットをそのままそれぞれの言葉に音としてあてられています。英語では“Sabbath”(サバス)です。これに相当する適当な語を見出すことができなかったからでしょう。しかし、日本語ではこれを「安息、安息日」としました。しかしこれでは「シャバット」の意味を十分に表すことが出来ないのではないかと言われています。このシャバットという言葉は、元来「やめる」「やめさせる」とか「終わる」「終わらせる」という意味で、「休む」と訳されるのは、安息日に関連した時だけで、根本的な意味は「やめる」ことです。ですから、シャバットを安息と訳すと、安息日=「休みの日」というように考えてしまうのです。神さまは六日間働かれて疲れたから休まれたのではありません。神さまは天地の全てのものをお造りになった後、その働きをシャバット、ストップされ、その第七日を祝福し聖別されたのです。この七日目の日を他の日とは全く別な日とされたのです。天地創造のみわざは六日間で完成されたのでなく、この七日目を祝福し、聖別されたことで完成、完了したのです。 この安息日規定で神さまが私たちに述懐されているのは、単に仕事を休むことではありません。当然そこには今日のみ言葉にもあるように六日間の働きをやめる、休むことが入ってはいるでしょう。しかしそれでは仕事をやめればよいのか、働かなければよいのでしょうか。そうではなく、聖別すること、この日を特別な日として取り分けることが求められているのです。 聖書における「聖」とは単に聖いということではありません。それは区別されることを示しています。ですから聖別するとは、この日を他の日と異なる日として、区別することであります。 今日はこの箇所から示されたことを全てお話することは出来ませんから、来週も引き続きお話させていただきます。その中でイエスさまが安息日をどのように理解し、扱っておられたかを詳しく語りますが、イエスさまは「安息日は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない、安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか、命を救うことか、殺すことか」とおっしゃいました。結局イエスさまはこの日をただ画一的に何もせずに過ごすのでなく、生活にとって必要なわざをすることをすすめておられるのです。この日に善を、また命を救うことをなさっています。ですからイエスさまが、私たちが生活のために日曜日に仕事をしなければならないために礼拝に出席できないことを一方的にさばかれたりはなさらないでしょう。社会のあり方がこれだけ複合的になった現代において、日曜出勤を一方的に罪だと決め付けることも出来ません。また、家庭で家族と共に過ごす時間を持つこともとても大切です。クリスチャン家庭の子どもたちが、またノンクリスチャンの家族が疎外された思いになることが家庭の命を救うこと、命を生かすことにつながるとも思えません。ですから、日曜日の礼拝を休むことが即罪につながることにはなりません。 ただ、だからと言って、この日を仕事や家庭サービスの日に当てることが、この日の目的では全くありません。そのように過ごすことが一方的に禁じられているわけではありませんが、この日は神さまの救いと祝福のわざをおぼえて過ごす日です。そのために時間を聖別する日です。礼拝以外のことで時間を過ごすのですから、讃美歌を歌ったり、声を出して祈ることは出来ないかもしれません。しかし神さまがこの天地を造られ、そして私たち罪人を救い出して下さったことを覚えることは出来ます。たとえどんなわざに従事していようとも、そしてそれがどんなかたちのものであろうとも、時間を聖別して神さまに感謝を献げることを忘れるならば、それは神を信じるものとしての相応しい過ごし方とは思えません。イエスさまがいのちを献げてまでも救い出して下さったこと、また神さまがこの天地をお造りなって、私たちに命を与えて下さったことを忘れることがないようにしたいものです。お祈りをします。いつものように黙想の時をもちましょう。
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