「安息日をきちんとU」 


 申命記5章6、12〜15節
 2005年8月7日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。礼拝の典礼としての側面は重要ですが、私はいつもお話していますように、礼拝には、フェスティヴァル、お祭りとしての要素もあると思っています。一週間の歩みを終えて、それぞれが教会に集まって来て、再会する。今日は礼拝の中で詩吟があり、トーンチャイムの演奏までありました。とても素晴らしい時が過ごせていると思います。

今週も先週に引き続いて第四戒と言われる安息日規定に関して話させていただきますので、予定していた16節の「父と母を敬え」の箇所からの時間が十分に取れないことをおゆるし下さい。そのため、16節から準備していたことを手短に話させていただきます。

タイトルは「重んじられる父母になれ!」でした。両親を敬いなさいというのは余りに当たり前すぎるというか、聖書でなくとも教えられることであります。しかし旧約聖書においては、両親は神の権威の代理者と考えられていました。それゆえ両親に対する態度は神に対する態度につながります。今日のこの言葉が、十戒の後半の人と人との関係に関するものの中で第一番目に置かれているのもそのためです。両親を敬うことは神を敬うことと同じなのです。親を敬わない者で神を敬う者はいないのです。私なども全く偉そうなことは言えません。父親を尊敬していたかと問われると何も言えなくなります。口でどんなに神を信じ大切にしていると言っても、自分の両親に対する態度や扱いにその本人の神さまへの本心が出ているのです。

この敬うという言葉は「重んじる」という意味の言葉です。しかし父母がそれだけの存在、重んじられたということは、両親にもそれだけの責任が伴いましたし、敬われるだけの立派な存在であったことでもあります。 この戒めは子たる者に対する教えだと理解されています。その通りの教えでしょう。しかし古来教会においては、この言葉は子どもに対してだけでなく、父たる者、母たる者に対する言葉でもあると考えられてきました。宗教改革者のマルティン・ルターは「神を重んじる教えに続いて、すぐにこの父と母を敬うようにという教えが続いているということは、父や母が神のごとく重んじられるように生きなければならない」と言っています。父母は神の次に大切な者にならなければいけないのです。父母はそれだけの責任をもって子どもを育て守らねばならないのです。重んじられるだけの愛をもって子どもを育てる存在になりなさいというのです。この戒めはただ子たる立場の者の親への態度を教えたものではありません。ある意味、それ以上に親たる者のあり方の戒めでもあるのです。

 さて、安息日規定の方に入らせていただきます。先週は、律法全体に関してや安息日をきちんと理解していないことから、誤解が深く浸透していることを述べさせていただきました。十戒は救いの条件として与えられたものではなく、それは神さまからの私たちに対しての生き方の指針でありました。そしてこれは旧約の時代のイスラエルの民にだけ与えられたものではなく、罪の縄目に捕らえられ奴隷の状態にあった私たちにも及ぶものでもあります。その救い出された私たちにとってもこの十戒、十の言葉は生き方の指針であり、神さまの私たちに求めておられる生き方の基準です。

 また、安息日を守るとは、神さまが天地を六日間で創造され、七日目にその創造の働きをストップされて(ここの原文では「シャバット」ストップする、やめるという言葉が用いられています)、その七日目を祝福して聖別されたように、私たちも一週間の働きを終えて、その働きをストップ(シャバット)し、七日目を聖別して過ごすことです。労働につかず、仕事をしないことが安息日を守ることのすべてではありません。他の日から聖別し、神さまのみわざを覚えて感謝してこの日を過ごすことであります。今日この場に集っている私たちがしているように礼拝することが主に喜ばれる安息日の最も大切な過ごし方ではありますが、礼拝に集うことが安息日の過ごし方、守り方のすべてではありません。

 十戒の求めは私たちにも及ぶと先ほど申し上げました。では、旧約聖書のレビ記などに書かれている規定、例えば何を食べて何を食べてはいけないとか、贖罪の儀式、動物の屠り方などが神さまから私たちに今でも求られているのでしょうか。これに関しても少し説明が必要です。

 律法は大きく分けて、儀式律法と道徳律法に分けることができます。私たち人間には罪があります。その罪の赦しには、贖いの供え物が必要とされています。贖いとは罪のつぐないとでも言えばよいでしょうか、そのために代償を払う必要があるのです。旧約の時代には民にとって大切な家畜、牛や羊などを殺して神にいけにえとして差し出すことが求められたのです。しかし、御子であるイエスさまは人類の罪のためにその尊いご自分のいのちを贖いの供え物として献げて下さいました。このことによって私たちは罪の贖いの儀式を行なう必要がなくなりました。それゆえ、儀式に関する律法から、私たちは解き放たれたのです。しかし道徳律法、その代表がこの十戒でありますが、こちらは普遍的なものであります。神を神とすること、父母を敬うこと、殺してはならない、姦淫するなかれなどは、今でも有効な教えです。それゆえ神さまは私たちに道徳律法を守るように期待しておられます。今日のこの安息日律法も同様です。

 イエスさまをはじめ、初代教会のキリスト者たちも旧約聖書を信じるその意味では、ユダヤ教徒でありました。彼らも律法の安息日規定を遵守していました。ユダヤ教においては、創世記の天地創造にあるように、週の終わりの七日目、すなわち土曜日を安息日として聖別しております。初期のキリスト教徒たちもそのように安息日を守っていました。しかし彼らにとっては、イエスさまの復活は彼らの信仰の核心を変えるほどの出来事でありました。十字架で死なれたイエスさまが死をも乗り越えて甦られたことは、彼らにとっては永遠に心に刻み込むべき大事件でした。そしてそれが彼らにとっては、神によって新たな命が与えられる、新しい創造の出来事であり、そのことを記念する日となったのです。週の終わりの日を安息日とするのでなく、キリストの復活を記念する日として、週の最初の日である日曜を安息日に替えたのです。キリスト教会は二千年の間、この日曜を主の甦られたことを覚える日、記念日とし、安息日として聖別してきました。このことが私たちにとっても同様であることは言うまでもありません。

安息日を守ることの全てが礼拝に出席することではありません。ただ教会にやって来て、会堂の椅子に座り、牧師の話を聞き、讃美歌を歌い、教会の姉妹兄弟と交わりをすれば、自動的に安息日を守ったことになるわけではありません。神さまがなさったのは、そしてその神さまが私たちに求めておられるのは、この日を聖別することです。神さまの創造のみわざを、そして奴隷の状態から解放して下さったみわざを感謝して、心に刻み込むことです。更に言うと、安息日は日曜の午前中だけではありません。この日は二十四時間続くのです。イスラエルの社会では夕方の6時から一日が始まるとしていますが、日本を含む現代の世界においては、夜中の12時に日付が変わります。ですから安息日は夜中の12時を過ぎた時から始まっており、今日の夜中まで続くのです。礼拝が終わった後も、午後のプログラムは言うに及ばず、教会から家に帰ってからも安息日は続くのです。

皆さんはそれぞれに趣味や楽しみをお持ちのことだと思います。そしてそのためには特別に時間をとって楽しまれることだと思います。素晴らしいことです。ぜひそのことを大切になさって下さい。そしてその自分にとっての楽しみのためには、それを喜びとするためには準備の時、備えの時を持たれるのではないでしょうか。実は、私はモーツァルトフリークと言えるほど、彼の音楽を愛しています。一日中CDを聞いていても飽きないほどです。私は以前からモーツァルトのオペラを観劇することが夢でした。それが来月ウィーンのバーデン市立劇場による彼の代表的オペラの一つである「魔笛」の公演が高知で開催されるのです。私はチケット発売の当日に売り場に走り、チケットを買い求めました。今から楽しみで、「魔笛」のCDを聞くのは当然のこと、「魔笛」についての読み物をいろいろと読んだりなど、公演を楽しむための準備をしています。

期待していること、楽しみを心から喜び楽しむには、そのように備えをするものです。私たちにとっての日曜日、それをキリスト教会では主日と呼んでおりますが、この日を神さまにお献げするためには備えが必要なのではないでしょうか。安息日を聖別するためには、主を礼拝するのにも備えが必要なのです。備えをすることで神さまの恵みをまた導きをより十分に受け取ることが出来ます。

この異教の社会にあって、日曜の礼拝に出席することは大きな戦いのあることでしょう。日曜の午前中を礼拝のために取り分けることだけで大変でしょう。また、これだけ社会のあり方が複合的になった時代ですから、日曜に出勤しなければならないことや社会生活を営んでいくのに大切な用事をしなければならないこともあるでしょう。それらはみんな大切なことです。だから礼拝に出席出来ないことが即罪につながるなどということは決してありません。この日に為す必要のあることに時間を充てて全く構わないのです。イエスさまは安息日に関して「安息日は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない、安息日に善を行なうのか悪を行なうのか、命を生かすのか殺すのか」と言って、安息日に会堂で手のなえた人を癒されました。ですから日曜日に働かなければならないこと、家族のためや地域の行事のために時間をとることで礼拝に来れないことを、イエスさまが一方的にさばかれるとは思えません。

ただ先週も申した通り、この日はそのようなための日ではありません。ですから、教会に来れないことを当然なことのように考えることは神さまの喜ばれることではありません。私たちのためになして下さった神さまのみわざを、そしてイエスさまのご復活されたことを覚えるための時間を、たとえ忙しい中にあっても聖別し取り分けることが、それぞれが行なうべき神さまへの礼拝の行為です。そしてまた備え時を持つことも必要です。また、教会堂に来ることだけがこの日を聖別することでもありません。安息日であるこの一日を、夜中の12時から日付の変わる12時までを、聖別した日として過ごすことが安息日を守ることになるのです。

最後に、イエスさまがこの日をどのように過ごされたかに学びたいと思います。ルカによる福音書の14章には安息日にイエスさまがあるファリサイ派の議員の家に食事に招かれ、そこでいやしをなさった記事が出ております。これはイエスさまの安息日の過ごし方というよりも、ユダヤ人の過ごし方でもあります。ユダヤ人から私たちが学ぶべきことは多くあります。ここでは安息日に食事会を催して交わりの時をもっているのです。ユダヤ人は今でもこの日を交わりの時として重要視しています。この日には一切の労働を行いませんから、この交わりの食事会のために、前日までに準備をしての上のことです。この日に聖書を読み、祈り、礼拝をすることは当然なされますが、それ以外の時を交わりに用いるのです。家族や親族が共に食事をしたりして、交わりの時間を過ごします。また近くの友人などを訪問して交わることにも時間を用います。

私は以前より、プロテスタントの教会の礼拝は、説教がその中心であり過ぎると思っています。牧師がみ言葉から語り、それを聴くことはとても大切な行為ですが、このことに偏り過ぎているように思えます。安息日を聖別することは説教に耳を傾けることだけでは決してありません。ユダヤ人たちがするように、この日を交わりの時とし過ごすのはみこころにかなったことです。教会においても、礼拝後に食事を共にする、それを愛餐会と位置づけて大切にしているのもそのためです。教会の兄弟姉妹と食事を共にして交わりを深めることも安息日を聖別する行為であるのです。お祈りをします。しばらくの時、黙想をいたしましょう。


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