「十戒で平和宣言、そして十字架」 


 申命記5章6、17節
 2005年8月14日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 「十戒で平和宣言」と最初聞かされた時は、正直言って戸惑いました。旧約聖書のモーセの十戒と平和のための宣言がどのように結びつくのかが見えなかったからです。

皆さん、お帰りなさい。わが国にとって8月は特別な意味があるひと月です。今から60年前の1945年8月15日に、わが国は終戦(悔い改めの思いを込めて、敗戦と呼ぶべきかもしれませんが)を迎えました。また原爆忌の8月6日、8月9日を毎年迎えます。国と国との争いだけでなく、人間の争いにはそれなりの理由があります。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、また友人との言い争いなど、周囲の者からするとそれがどんなに取るに足らない、ある意味くだらない、そんなこと怒るようなことではないと思うことであったとしても、当の本人にしてみれば、それはどうでもよいことなどではなく、当人なりの腹を立てる理由があるものです。怒りの言葉から始まり口論になることもあるでしょう。その口論を仕掛ける者はその相手に対して何らかの不利益をもたらされていると感じているのであり、そこには怒りの言葉を相手に発する理由があるのです。その理由が相手や周囲の者には見えない、また分からないことも往々にしてあります。しかしそれでも当の本人には怒るだけの理由があるのであり、「怒って当然だ、自分は特別なことをしているのでも理不尽なことを言っているのでもない」と思っているものです。それが口だけで済まずに、手が出るなどして暴力沙汰になり、ひどい時には殺人にまで至ることもあります。国と国との争いもこれとそのいきさつは大筋においては同じでしょう。中には宣戦布告らしきものがないまま、相手である敵国に軍事攻撃を加える場合もあります。このように国同士の争いとなれば、戦争に発展する可能性もありますからただでは済みません。

今世界各地でテロが起こっています。私は決してテロを起こす人間の弁護をするつもりはありません。しかしテロを起こす者には、起こすだけの理由があるのです。テロを起こすだけの理由、痛みがあるのです。攻撃の対象とする相手を敵とみなして、その報復としてあのような殺戮に至ります。しかしどんな理由、攻撃する側にどんな立派な大義名分があろうとも、それは攻撃を受ける側を納得させるものとはなりません。自分たちはひどい仕打ちを受けているのであり、相手がどんなにひどいことをしているかを訴えたとしても相手の考えを改めさせることにはならず、それどころか却って、気持ちを硬化させるだけです。特にそれが命を奪うことにでもなれば尚更です。それゆえその行動にどんなに正当な理由があろうとも、相手を攻撃してよい、殺してよいことにはなりません。しかしまた、「テロに屈しない」などという理由で、テロを起こしたり起こす可能性があるものと判断し、その相手に軍隊を派遣することが紛争の解決の手段になるはずがありません。報復の手段として暴力や武力を用いるならば、それは憎しみの連鎖を引き起こし、その応酬は永遠に続くことになってしまいます。

8月15日の明日、わが国は敗戦60年を迎えます。この60年の間日本が平和に歩むことが出来たのは、偶然のことではありません。そこには神さまの大きな愛と憐れみがあったのであり、また二度と戦争を行なってはならないとする多くの人たちの願いと働きがあったからです。わが国は歴史において大きな過ちを犯し、自国民だけでなく他国の特にアジアの方たちの命を奪ってきました。また直接の交戦相手であったアメリカの方の命も奪ったのです。当時の日本には日本なりの戦争を行なった理由がありました。しかしそれが相手の国を納得させるものとはなりませんでした。また、日本は原爆によって多くの方の尊い命が犠牲となりましたが、日本もアメリカの方の命を奪いました。そのことも忘れるべきではありません。戦争とは殺し合いです。その罪を繰り返すことのないようにとの反省の下に日本は歩んで来ました。今日の平和はその多く方の犠牲と平和を守る、作り出す働きによって維持されてきたのです。

何人かの方には既にお見せしましたが、私の妻がこのようなTシャツを作りました。作った100枚はすでに配り終わったようですが、また秋には作りますので、それまでお待ち下さい。この日本国憲法が私たちにはあるのです。憲法の前文もすばらしい誇るべきものでありますが、この九条こそは、この国にとってのいや世界に誇るべき宝だと言えます。

第二章  戦争の放棄

第九条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

この憲法を押し付けであるとか日本語になっていないという主張もあります。確かに、日本人が全く独自に考案したものではなく、GHQの指令を基にしたものではあるでしょうが、この憲法、そして九条が60年の間にどれほど平和維持に貢献してきたか、そしてこの憲法を保持していくことが憎しみの連鎖の続く世界において、今ほど大切であると思わされることはありません。

イエス・キリストはおっしゃいました、「平和をつくり出す人々は幸いである」(マタイ5:9)と。イエス・キリストはおっしゃいました、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と。イエス・キリストはおっしゃいました、「剣をとる者はみな剣で滅びる」(マタイ26:52)と。

 この憲法九条がイエス・キリストの教えを実践するものであることは明らかです。この憲法九条を護持していくことが、主イエスを信じ、主イエスに従っていく者にとって、今こそ求められているのであります。

私たち日本バプテスト連盟は2002年第49回定期総会において「平和に関する信仰的宣言(平和宣言)」を採択しました。冒頭で述べたことは、その総会の時の私の正直な感想でした。しかし今回、皆さんとご一緒に十戒を読んでいく中で、この十戒がキリストを信ずる私たちにとってどれほど重要なものであり、また神さまが私たちをどれほど愛して下さっているかを示され、これが一方的な命令ではなく、愛の神さまの述懐であり、私たちへの期待が述べられていることを知るにつけ、十戒で平和宣言をすることの意味を教えられた思いになっています。

 この平和宣言の前文と第六戒の項をお読みします。聖書教育の7・8・9月号をお持ちの方は、6ページをご覧下さい。

前文

「平和をつくりだす人たちは、さいわいである」と主イエスは言われる。しかし今、世界は敵意に満ちている。殺戮と報復が果てしなく繰り返され、絶望が支配しようとしている。十字架の主イエスはこの世界において審きと和解を為し、解放と平和を告げ知らせ、私たちを復活のいのちへと導かれる。私たちは静まって沈黙し、主イエスの声に聴く。教会は救われた者の群れとして応答に生きる。神は奴隷の地エジプトから人々を解放し、十戒を与え、救いの出来事に応答して生きることを命じた。主イエスは十字架と復活を通してこの律法を成就された。それゆえ私たちは十戒を死文と化してはならない。教会は十戒に生きる。この世界の中で主のことばに従って平和を創り出していくために、日本バプテスト連盟に加盟する私たちは主の恵みに与りつつ、主の戒めに生きることを宣言する。

第六戒 あなたは殺してはならない

 主イエスによって解放され生かされた私たちは、他者を殺しその存在を否定することができない。殺しのあるところに平和はない。私たちは殺さない。軍備のあるところに平和はない。私たちは殺すための備えを否定する。戦争に協力するところに平和はない。私たちは殺すことにつながる体制づくりに協力しない。暴力のあるところに平和はない。私たちは暴力の正当性を否定する。主に従う教会は敵を愛し、迫害する者のために祈る。

 

私たちはこの宣言をする者であると同時にこの宣言を生きる者として平和をつくり出す者になりたく願います。

さて、本日与えられています申命記の言葉を見ていきましょう。今日の17節はまことに簡潔です。「殺してはならない」、それだけ。いろいろな言葉が加えられていない分だけ、かえって鮮烈に響きます。安息日規定のようにその理由も記されていません。神が造り、神がエジプトの奴隷の状態から救い出した民が殺してはならないことに理由など必要ないとおっしゃろうとしているのではないでしょうか。

 聖書教育にも書かれていますが、この第六戒は「イスラエル人はイスラエル人を故意に殺してはならない」という意味と考えられてきました。そこから、戦争において敵国人を殺すことや犯罪者の処罰の方策としての死刑も、この戒めに反するものではないとしたのです。しかしここで用いられている「殺す」という言葉は、旧約聖書においては、過失致死(故意ではなく誤って人を殺してしまうこと)のケースにも用いられています。すなわちこの言葉は故意であるなしにかかわらず、すべての殺人が問題とされているのだと考えることが出来ます。

 何度か申し上げてきたことではありますが、聖書本文には「十戒」という言葉は使われておらず、これは「十の言葉」という単語が用いられています。それゆえこの言葉は戒めではない、またヘブライ語には禁止の命令形は存在しないという主張もあることから、この「十の言葉」は神の戒めではなく、エジプトの奴隷の状態から救い出した神さまの民に対する期待が述べられているのだとも言われています。すなわち、今日の箇所でいうと、それは「殺してはならない」という戒め、命令なのではなく、「私がエジプトの奴隷の家から救い出したあなたたちが殺すはずがない」という私たちへの期待に基づく愛の神さまの述懐なのです。

 報復の手段としてテロを含む暴力に訴えることは憎しみの連鎖を生み、永遠に終わりなくそのことが繰り返されることになると言いました。この連鎖が続くところには平和はありません。ではこの連鎖を断ち切り、平和を呼び起こすためには私たちはどうすればよいのでしょう。「平和をつくりだす」には何すればよいのでしょうか。

 私は聖書の説く平和を考える時、先ほども紹介したイエスさまのお言葉だけでなく、十字架のイエスさまの姿を思わざるをえません。平和を作り出す道の答えは、イエスさまの十字架にあると私は信じます。イエスさまは何の罪もおありになったわけではなかったにもかかわらず、逮捕されました。イエスさまは咎めを受けるようなことは何もなさらなかったにもかかわらず、鞭打たれました。イエスさまは殺されるようなこともなさらなかったにもかかわらず、十字架で処刑されました。しかしそのイエスさまは無実だと抗弁なさることもなく、ただ黙って十字架の道を歩まれました。そして何らかの反撃どころか、一切抵抗なさることなく、あっけないほどにそして惨めなほどに十字架で死なれました。

しかしこれこそが憎しみの連鎖を断ち切り、平和をつくり出す者の歩みです。やられたらやり返すことは憎しみしか生みません。永遠に殺しあうこととなります。たとえ報復するだけのどんな正当な理由があったとしても、紛争解決の手段としての武力は何の解決にもならないばかりか、憎しみを生み出すばかりです。そこには平和はやってきません。

 私たちには十字架のイエスさまが示されています。そのイエスさまの歩みに倣うことが、平和を宣言するものつくり出すものとなるのです。

お祈りをしましょう。黙想の時をもちましょう。

 

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