「神さまとの婚姻関係」
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皆さんお帰りなさい。先月より大人と子どもの共なる礼拝を目指して、第四週目には子どもメッセージまで、子どもたちも教会堂に集い、共に礼拝を献げます。そのため子どもたちも共に讃美出来るようにと願いそのような讃美歌を選んでいますので、礼拝前のひと時、讃美歌の練習の時を持っています。あまり馴染みのない讃美歌であると思いますので、少し早い目に会堂に来て下さり、一度歌ってみてから礼拝に臨まれることをお勧めいたします。礼拝の中で讃美するのによく知らないで讃美するのでなく、一度でも練習してから讃美することで、心から主に讃美を献げることになるのではと思います。 先週は修養会のため馬路温泉で礼拝をいたしましたので、この教会堂での朝の礼拝は2週間ぶりとなります。また来月は夏季休暇でお休みさせていただきますので、十戒の後半の箇所をじっくり読めないのがとても残念です。今週は所謂第七戒と第十戒と言われている言葉を共に見てまいりたいと思います。変則的になって申し訳ないのですが、9月の3週目に第八戒と第九戒を取り上げさせていただきます。 第七戒の「姦淫してはならない」は出エジプト記の箇所の言葉と同じですが、21節の言葉は出エジプト記の表現とは異なっています。出エジプト記の20章17節では(126n)、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを欲してはならない」となっているのに対して、申命記では「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない」と妻を隣人の家の財産の中に含めず、独立したものとして記されています。当時の社会においては妻も家の財産に含まれましたから、聖書教育にもあるように、女性を物の一つとして扱うことの批判によるものかもしれません。 この21節の「欲する」とある訳は、口語訳聖書では「むさぼる」とされていました。「むさぼる」とは辞書によると「飽きることなく欲しがること」とあります。また、「むさぼる」は漢字では「貪欲」の貪と書きます。 貪欲さ、飽きることなく欲しがることが人間社会の中の全ての悪に通じると思います。この規定は、一言で述べるならば、「人のものを欲しがるな」ということです。 十戒の後半の言葉は「殺してはいけない、偽証してはならない」というように具体的な行為を語っています。しかし今日の貪りの規定は心のありようを問うています。外に表れる行為よりも心を問題にしています。人のものを欲しがること、それも貪るほどに求めること、この欲望こそが、人間社会の争いの原因の多くであり、それがひいては国と国との争い、戦争に至るのです。先々週は平和宣言から戦争、殺しあうことを神さまが戒めておられることを見ましたが、十戒の最後のこの「むさぼるなかれ」の規定もまた、人間の罪の根源であり、この思いとの戦いが私たちには強くあることを思わされます。 貪欲ということについて考えると、心に留めるべきみ言葉があります。コロサイの信徒への手紙3章5節(371n)です。 「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像崇拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。」 貪欲は偶像崇拝に結びつくとここでは述べています。貪りは単なる道徳上の問題ではなく、信仰の根幹に関わる。信仰の事柄と区別された倫理問題などはないのではないでしょうか。そこでむしろ、第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、そして第二の戒め「あなたはいかなる像もつくってはならない」との関連が思い起こされます。つまり十戒の最後の戒めは、十戒の最初に戻るとさえ言えます。特に第一の戒めもまた、具体的な行為というよりも人間の心の向きよう、ありように関わる規定です。行為となって現われない、それだけ心の深い所にある思いです。そこで神以外のものを神としていたら、すべてのことがはずれてしまいます。それと同じ心が隣人に向かうとき、貪欲、貪りとなって出て来るのです。 この心はただ漠然と物を求めることに終わらず、具体的に人の物に向かいます。人の物、それは今日の箇所で言えば、「隣人の家」を求めます。それを更に具体的に言えば、「隣人の妻」です。 旧約聖書に記されている話です。一人の男性が、ふと窓の外に目をやると、そこには一人の美しい女性が水浴びをしておりました。その姿に心奪われた男性は、自分の部下であったその女性の夫を戦争の最前線に出向かせました。そして夫が戦死させ、その女性を自分のものにしました。この男性とは、ご存知のように、あのダビデ王です。ダビデは信仰者としても素晴らしい人物でありましたが、そのように貪りの罪を犯しました。 また、このことを考える時に私たちが思い起こすのは、イエスさまの山上の説教の教えです。マタイ5章27節以下です。 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかしわたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」 イエスさまはここで、「姦淫するな」という第七戒の教えを更に深め、具体的に姦淫するだけでなく、そのような思いで他人の妻を見る者は、姦淫の罪と同じだとおっしゃいます。これは何も姦淫に関することだけでなく、人の持ち物を貪りの目で見ることをも含んでおっしゃっているとも思えます。目は心の窓と言います。心にある思いが目に表れてくるのです。そして目に表れる貪りの心は具体的な行動と紙一重なのではないか、何かの弾みやきっかけがあれば、具体的な行動となって罪を犯してしまうのではないでしょうか。 さて、18節の「姦淫するなかれ」に移ります。ここで言う「姦淫」とは結婚関係を続けながら他の男性や女性を愛すること、またそこから発展し肉体関係をもつことです。ここにおいて前提となっているのは、結婚関係です。結婚関係は誓約に基づいています。その誓約を結んだ者が他の男性や女性と関係をもつことはその誓約を破ることとなります。この結婚関係を乱さないことがこの戒めにおいて神さまが求めておられることですが、それだけに留まらず、私たちの神さまとの関係も含まれています。結婚がそれぞれのパートナーとの誓約であるように、信仰生活も神さまとの誓約の関係に基づいています。そのため聖書においては、神さまと私たちの関係が男と女、夫と妻との関係になぞられて語られます。中でもホセア書はその代表的な書簡です。預言者ホセアの妻は姦淫を犯しやすい女でありまして、すぐに逃げ出してしまう。そのような淫行を犯す妻を何度も追いかけ、赦し、しかもそこで、そのようにイスラエルを愛し抜く神さまの愛を語ることを求められた預言者でありました。 1章2節(1403n) 「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。 『行け、淫行の女をめとり淫行による子らを受け入れよ。 この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ』」 3章1節 「主は再びわたしに言われた。 『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエル の人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛して も、主がなお彼らを愛されるように』」 イスラエルの国は、淫行を繰り返す女にたとえられています。それは神が大いなる御手をもって民をどれほど愛し救い出しても、すぐに他の神々に走り、偶像礼拝にふけることです。しかし神はどれほどの罪を犯そうともその罪を赦し、変わらず愛し続けられる。そのことを預言者ホセアにその神がどのような思いであるかを悟らせるために、淫行の妻を娶らせ、愛するように命じるのであります。 4章1節から 「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発 される。この国には誠実さも慈しみも神を知ることもないからだ。 呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり 流血が続いている。 それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣 空の鳥も海の魚までも一掃される」 10節 「彼らは食べても飽き足りることなく、淫行にふけっても子孫を増 やすことが出来ない。彼らは淫行を続け、主を捨て、聞き従おう としなかったからだ。ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。わが民は 木に託宣を求め、その枝に支持を受ける。淫行の霊に惑わされ、 神のもとを離れて淫行にふけり、山々の頂でいけにえをささげ丘 の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。 お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。」
これがイスラエルの姿だと言うのです。そしてそれは今の私たちにもつながるところが多分にあるのではないでしょうか。神を信じていると言いながら、神以外のものにより頼み、神をないがしろにする。それこそ、神さまとの婚姻関係を踏みにじるものであり、神さまを最も悲しませることであるのです。 今日は「貪り、姦淫」に関する戒めを見ましたが、結局のところ、神さまとの関係を正しく保たないことがこれらの罪につながることが教えられます。 神さまは私たちに必要なものはすべて与えて下さっています。そのことに飽き足らず、飽食のように人のものを欲しがることは、神さまの深い愛を信じないことです。そしてそれは神さまとの婚姻関係を破り、姦淫の罪を犯すこととなるのです。 最後に、今日見ました、ホセア書の結末を見てみましょう。 14章2節から5節(1420n)です。 神さまは民がどんなに他に目を移そうとも、変わらず愛し続け、そしてその背きの罪を赦して下さいます。神さまの深い愛に感謝し、その愛に元づいて、私たちに生きる指針を与えてくれる十戒を大切にして歩みましょう。お祈りをいたします。少し黙想の時を持ちましょう。 |