「放蕩息子とは?」 


 イエスを愛する人」
 2005年9月4日
 高知伊勢崎キリスト教会  白川兄



  これからお話しする雅歌は、第1章第1節に「ソロモンの雅歌」と記されており、ソロモンが書いたように見受けますが、実際この雅歌を書いた人はソロモンでないといわれています。なぜならこの書物の年代はソロモンよりずっと後だからです。著書はわかっていません。この雅歌は人々に誤解される時もあります。それは男女間の愛を歌っているためです。
しかしこれは神様とイスラエルとの愛の関係を比喩的に歌ったものとされ、またキリストと教会、キリストとクリスチャンの関係を歌っているとされています。この2章16節のみ言葉は判りやすい文章ですが、以前使っていた口語訳聖書も読めば、更に内容がはっきりすると思います。参考にしてください。

  日常生活にはいろいろのことがあり、信仰をつまずかせることもあります。信仰生活が脱線するときもあります。しかしどんな時でも、キリストに対する信仰は失いたくないものです。絶対に必要なことはキリストを愛することです。イエスに対する愛が欠けているなら、その人の信仰は死んでいるのと同じであります。もしキリストを信じているといっても、心の中でキリストを愛してないなら、その信仰は空しいものです。人間である以上人生で何回か障害にぶつかり、信じたくない時もあります。しかし後でキリストに戻りキリストに従えば、キリストに対する愛が心に残っていたことになります。

  ある人はこう言っています。クリスチャンについて研究し、判ったことは、クリスチャンの中には「キリストという概念」を愛している人達がいるということだそうです。なぜなら彼らはキリストは2000年前の人であり、その当時 行われた数々の奇跡はもう既に過ぎ去った昔の出来事として考えているからです。過去は過去、現在は現在と割り切って考えると、その人とキリストの関係は細く弱くなります。キリストとの関係が細く弱くなれば、キリストから受ける恵みや力もそれだけ小さくなります。

2000年前 主は乙女マリヤから生まれ、後に苦難を受け、人々の救いのために十字架の上で死なれた。しかし主はまことの神として、21世紀の現在も生きておられ、その姿は信仰を通して心の中で見えるかのようであります。その2千年前のイエスが今も私たちの心に宿り、絶えず導いて下さっています。私がここで話したいのはこの臨場感あふれるキリストであります。

  キリストが亡くなられた当時のイエスの弟子たちの宣教は、キリストについて抽象的な話を語ったのではなく、彼らは直接見たり聞いたりしたキリストイエスそのものを語ったのです。つまり、間接的なキリストにま
つわる話をしたのではなく、キリストご自身のこと、つまりキリストの手や足、脇腹、頭、茨の冠、残酷な十字架の釘、そして復活したイエスをありのまま直接見たままを語ったのです。彼らは救いについて中傷的な話や哲学めいたことを話したのではありません。キリストご自身を語ったのです。

まさに信仰に必要なものは律法学者やパリサイ人のような理屈でなく、十字架で傷ついたイエス.キリストをそのまま受け入れる信仰であります。実際ムチで打たれ、十字架の上で両手両足を釘で打ち抜かれ、ひどい傷を受け、血に染まった十字架のキリストをしっかり自分の心に受け止めることです。この臨場感あふれるキリストイエスを聞いたり、また自分の口で表現することによって、イエスをより身近に感じ取ることができるのです。主なるイエスは今ここにいます。イエスはリアルな人であります。またイエスはあなたの信仰に応えて、あなたの耳元で話しかけて下さいます。あなたも自分の思いを、愚痴でも喜びでも何でもすべてありのまま、イエスに気軽に話せるようにすれば、イエスを一層自分の身近なものにできると思います。

  クリスチャンはキリストに対する愛が単なる敬虔な気持ちからくる愛にとどめてないでしょうか。あなたがキリストを愛する愛は、丁度夫婦がお互いを愛する愛のように、親が子供を愛する愛のように、子供が親を愛する愛のようにしたいものです。即ち日常生活での現実的な愛と同じようにリアルにキリストを愛せたらいいと思います。

  仮に小さな子供に“愛とはこのようなものです” と熱心に説明しても、子供は理解できないでしょう。逆に子供は“愛とは難しいもの”と思うかもしれません。しかし母親が子供を腕に抱き、また優しい言葉をかけると、子供はその場で母親の暖かさを感じ、また愛を感じることができます。

  教会もその真ん中に臨在して下さるキリストを感じ取り、リアルなキリストを見る必要があります。イエスに向かってかつてペテロが言ったように、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。」と一人一人がイエスに告白することができるなら、すばらしい信仰と思います。しかしもしクリスチャンが神様に向かって、「私はあなたを愛してないかも知れません、信じてないかも知れません」と云えば、神様は気分を害するでしょう。人間はたまには信仰の道からそれることだってあります。信仰が痛んで、見せ掛けだけの信仰になることもあります。しかしどんな状態でも、ある時期が来れば信仰に立ち返ることが大切です。立ち返ることができた時、自分の力で立ち返ったと思うのでなく、“聖霊によって導かれた”と考えるようにしたいものです。何でも“自分の力でできた”と考えれば、心が傲慢になり、神様から遠ざかることになります。すべて信仰によって与えられたことは、良くても悪くてもそれは神様からの恵みであります。結果が悪ければ、神様の恵みとは考えにくいのですが、例え悪い結果でも長い目から考えると神様はその人のために益となるように導いて下さいます。従ってどのようなことでも、感謝をもって受け止める習慣が身につけば、神様の恵みを肌で感じるようになるかと思います。それは聖霊の働きによるのです。

  クリスチャンにとって、キリストイエスは愛する大切な方であり、自分の魂のすべてをお任せする方であります。このイエスに並ぶ者は他にいません。まさにイエスは“私たちのものであり、私たちもイエスのもの”であります。私たちはイエスと重なり合って一つであります。まさにイエスは心のより所であり、心の支えであります。またこのイエスに既に私たちの命を預けていますから、イエスは私たちの命に平安を与え、人生の勝利者となるよう導いて下さいます。従って、より身近にイエスに親しみを持つように自覚してはどうでしょうか。人間は身分の上下に関係なく、この世ですばらしい業績を残したかどうかに関係なく、ひたすら信仰によってのみキリストを感じキリストを受け入れ、救いの喜びを体験するのです。

これがキリストによる神様の救いのわざであります。即ち、私たちの身代わりになって十字架の上で血を流して死なれたイエスキリストは、まさにご自分の死という大きな代価を払って私たちの魂を買い取られたのです。
私たちはこのキリストの前に我が身を投げ出し、全てこのキリストに任せることが必要です。そうすればキリストはあなたの心の中にいつも宿り、キリストがあなたの心のすべてを支配し、あなたのためにキリストが支配する神の王国の建設を始めることになります。

  キリストこそ聖なる方であり、キリストこそいと高きところにいます方であり、私達のたましいを救って下さる方であります。   以上



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