ルカによる福音書15章では、イエス様の下に集まってきた徴税人(ローマの支配の下で税金を集めていたユダヤ人、決められた税以外に多く集めるとそれは自分の収入になったので不正に多く税を集めていたため同胞のユダヤ人からは売国奴として嫌われていた)、罪人(割礼を受けていない人で異邦人が多くユダヤ教を信じる人からは蔑視されていた)そして彼らを非難するファリサイ派の人や律法学者を前にしてイエス様は、「悔い改め」のたとえを三つ話されます。
「悔い改め」はマルコによる福音書の1章15節(時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。)・マタイによる福音書4章17節とあるようにイエス様の福音伝道の原点です。その中から今日は、放蕩息子のたとえで皆さんに広く知られているルカによる福音書15章の11から32節をみてみたいとおもいます。
ここには3人の人物、父親と二人の息子が出てきます。財産わけをしてもらいそれを全て使い果たして食べるものにも事欠くようになった弟、ぼろぼろになって帰ってきた息子を許し慈しむ父親、父親の後をついでまじめに働いている兄が出てきます。
好き勝手をしてもらった財産を全て使い果たした弟は、食べるものにも事欠くようになりはじめて好き勝手な生活をしたことを後悔します。一からやり直したいと思ったときに彼は、父のところに帰り「自分は、息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人でいいからあなたのそばに置いてください。私は、天にたいして、またお父さんにたいしても罪をおかしました」と悔い改めます。
其れを聞いた父親は、「一番良い服を着せ、手に指輪をはめてやり、履物を履かせます」その当時雇い人はほとんど裸に近く、裸足でした。父親は、息子をお前は雇い人ではないのだよということを現します。そして指輪はその当時印鑑として使われており非常に大切なもの、その家の後継者を意味するもので正当な息子であることを意味します。
父親は、息子の悔い改めを聞き、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜んで祝宴を開きます。神様は、この父親のようにあなたが自分のところに帰ってくるのをずっと待っておられます。あなたは、後悔ではなく、悔い改めることつまり神様のもとに帰ってくることが一番大切なのです。
仕事で一日疲れて帰ってきた兄は、弟の祝宴を見て怒ります。財産を使い果たした馬鹿な弟が帰ってきたのをどうして父親は叱りもせず、喜んでしかも盛大な祝宴を開いているのか理解できないのです。この兄の気持ちはよく理解できます。当然の気持ちではないかと思います。
兄は、弟のように好き勝手はせず父に仕えて家を守ってきたのですから。父親は、兄に「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだよ。だけどこの弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから祝うのが当然だよ」と教えます。私たちは自分を誰に置き換えてみればいいでしょうか?
私はこの二人の兄弟に自分自身を見る思いがします。
神様(イエスキリスト)に出会う前の自分、好き勝手に何事も自分の思うままにしてきていた、自分はいつも正しいと思っていた、人の痛みは自分に降りかからなければそれで良いと思っていたそんな我儘な自分です。そんな私が、イエスキリストに出会い私の罪の贖いのために十字架で死なれたことを知り、初めて悔い改めてイエスキリストを神として受け入れることが出来たのです。
そして教会に連なり神様の前にいつもいるのだと言う安心感、いつの間にか神様は何でも許してくださるのだとの思いがクリスチャンだということで心の中に生まれてしまっているのではないでしょうか。
二人の息子は、神様を知る前の自分そして神様を知った後の自分を表しているのではないでしょうか。
絶えず「悔い改める」ことによらなければ私たちは神様の前に立つことは出来ないのです。
「悔い改める」ことにより全てを許され神様に祝福されるのです。
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