「盗みと偽証」 


 申命記5章19、20節
 2005年9月18日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。と言うよりも私の方が言わないといけないのかもしれません、「ただいま」。しかし皆さんも一週間の歩みを終えて、教会に戻って来られたのです。二週間高知を離れ、お休みをいただきゆっくりさせていただきました。ありがとうございました。高松や福岡そして大分と周り、水曜の夜に高知に戻って来ました。私がとても恵まれているのは、神学校時代からの同僚、同年代の牧師たちが福岡に何人もいてくれることです。支え合い、祈り合える友がいることは本当に感謝なことです。今回も彼らと交わりの時が持てたことは、私にとって良き休息となりました。みんなからも羨んで言われたことは、二週間も休みをいただいたことです。お祈りありがとうございました。

今日は振起日、振るい起こすということから来ているのだと思いますが、振起日の礼拝です。これは最高出席日とも呼ばれています。9月は教会学校月間です。この一ヶ月を教会を覚えて過ごそうとするものです。そしてこの日を一年のうちで教会学校の出席者が最高の日となるようにしようとする日です。

他教派においては教会学校とは小学科などの子どものクラスを指していますが、バプテスト教会においては全年齢層のクラスを念頭においております。私たちの教会においても、月に一度だけですが、第三主日には成人科を行なっています。聖書を一人だけで読むのでなく、また説教のように一方的に聞くだけでなく、多くの方たちと共に聖書を読むことは大きな恵みです。是非皆さんも第三主日の成人科にご出席下さい。

また、今日はこの後の報告の時に敬老祝福式を行ないます。教会に与えられている70歳以上の方たちに教会からプレゼントを差し上げ、祝福をお祈りさせていただきいます。子どももそうですが高齢の方たちは、この教会に与えられている宝です。今日も何人かの方がご出席下さっていますが、お一人おひとりを覚えて健康と祝福を願って共にお祈りしましょう。

さて、7月から共に読んでまいりました申命記十戒も今日で最後となりました。この十戒が私たちに与えられていることの意味を深く教えさせられた思いでおります。私にとりましても、これほど十戒を詳しく読んだのは初めてのことで、やはり十戒は私たちキリスト者にとって、いや神さまにお造りいただき、命贖われた者にとっては信仰の神髄とも言えるものだと再確認させられました。十戒の第一回目にも話させていただきましたが、申命記は神さまの愛の書です。これは決して救いの条件なのではなく、神さまからの愛に基づく期待です。十戒の根本精神は、6節にあります。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」

 エジプトの奴隷状態にあったイスラエルの民を神は一方的な憐れみによって救い出して下さいました。それはイスラエル人たちが優れていたからではありません。また彼らが神さまの言いつけを良く聞く優等生であったからでも全くありませんでした。彼らは不平と不満を口にするばかりの者たちでした。また彼らが罪を悔い改め神に立ち帰ったからでもありません。神さまが一方的にイスラエルの民を選び、エジプトから連れ出したのです。十戒が与えられたのはその時です。

 以前にもお話した通り、聖書本文には「十戒」とは記されておらず、そこには「十の言葉」と書かれているだけです。また、ヘブライ語には禁止の命令形は存在しないのだという意見もあります。私たちに与えられている聖書では「〜してはならない」と訳されていますが、今述べた理由によって、これらは「主であり、あなたの神であるわたしが導き出したあなたが〜するはずがない」という愛に基づいた期待が述べられているのだというのです。

 この十戒は絶対者として存在するさばき主なる神の一方的な戒め、命令では全くありません。また、罪を免除するための神の取り引きによる救いの条件でもありません。これは愛の神さまの私たちへの期待を込めた生き方の指針、希望の目当てです。そしてこれは愛の神さまがその胸の内にある思いを述懐、述べておられるのです。

 本日は所謂第八戒と言われる「盗んではならない」と第九戒の「偽証してはならない」です。これは先ほどの理由から戒めとしての命令というよりは「奴隷から救い出されたあなたが盗むはずがない、偽証するはずがない」と訳すことが出来ます。

先ず「盗み」の禁止の規定ですが、これは元々は人間を盗むことを禁じたものであったと言われています。同胞であるイスラエル人を誘拐して奴隷として売り飛ばすことが行なわれていたのです。また、借金などのためやむを得ず身売りするというかたちで奴隷となることもあったようです。そのことを禁じた教えであるとされています。

しかしそのことだけでなく、エジプトから脱出してきたイスラエルの民は、神を父とする一大家族を形成していました。彼らは荒野での共同生活を余儀なくされていました。共同生活においては盗みは大きな裏切り行為です。互いの所有を尊重するという考えが生まれてくる素地があります。そこからこの規定は人間を盗むことだけでなく、所有物全般を盗むことをも含んでいたと思われます。

盗むとは他人の所有物を無断で奪うことです。それが隣人との関係を損なうことにつながるのは明らかです。そこには隣人を敬う心は存在しません。奴隷の状態から救い出して下さった神さまが期待しておられる生き方は、そのように他人の物を奪う生き方、盗む生き方ではなく、他者と共に救いに与る者となっていくことが出来るように互いに支え合い、助け合っていく生き方です。そこにおいてこそ、神さまの愛に応えるものとされていくのです。

20節「隣人に関して偽証してはならない」

ここでは「偽証してはならない」とあります。「偽証」というと何だか大げさな、「嘘をついてはならない」とすればよいではないかと思われるかもしれません。

ここを文字通り訳すと「あなたは空虚な証人としてあなたの隣人に不利に答えてはならない」となります。すなわち「不利な証言をするな」ということです。ここの言葉は法廷用語が用いられているのです。ですから新共同訳ではこのように「偽証」という言葉が用いられているのです。

先ほども述べましたように、この時のイスラエルの民は荒れ野での共同生活をしておりました。その中では多く揉め事があり、そのことを裁く裁き人が求められたのです。旧約聖書に『士師記』という書簡があります。「士師」と聞くとギデオンなどのような勇壮な戦士を思い起こしますが、元々「士師」とは裁き人のことです。

今回私がこの箇所を読んで気づかされたことがあります。それはここではただ「偽証してはならない」とはされていないことです。「隣人に関して偽証してはならない」となっているのです。自分のことで嘘を吐くな、ということではなく、隣人に関して嘘の証言をするな、と求めているのです。

十戒は大きく分けて二つに分けられます。前半の第四戒までが神さまとの関係における規定と後半の第五戒「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」こちらは隣人との関係についてのものです。全て対象となる相手があってのことであります。

では私たちにとって隣人とは一体誰のことなのでしょうか。どうでしょうか、「あなたの隣人とは誰のことでしょうか」と聞かれたら、何とお答えになりますか。旧約聖書においてもこの「隣人」ということが常に念頭において書かれています。そのことにイエスさまが明確にお答えになったことが福音書に記されていますので、そこを見てまいりましょう。ルカによる福音書10章25節以下です。

これは一人の律法学者がイエスさまに「何をすれば永遠の命を得ることが出来るか」と尋ねた時のやりとりです。「『隣人を愛せ』という律法を守れば永遠の命が得られる」とのイエスさまのお答えに「では、わたしの隣人とは誰か」と尋ねられたことにイエスさまが答えられた話です。30節からをお読みします。(30〜37節)

これは良きサマリヤ人の話としてとてもよく知られた話であり、様々な角度から取り上げることの出来る話ですが、今日は36節の「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」にポイントをあてたいと思います。

サマリヤ人とは、元々は同胞であったのですが、王国が二つに分裂したことに端を発し、異教を礼拝を行ないイスラエル宗教の純粋性失っていったことから、ユダヤ人は忌み嫌い、サマリヤ地方に足を運ぶことだけでなく、サマリヤ人と交わることもしなくなった人々です。

追いはぎに遭った人を見てみぬふりをした祭司やレビ人と異なり、旅のサマリヤ人は親切に介抱してやりました。

「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねられたイエスさまは、「あなたの隣人とは誰某である」とはお答えになっていません。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか」とおっしゃり、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。

隣人とは関係性によってつむぎだす、関わりをもって、それは時によって糸のように絡み合うこともあるでしょうが、その関わりを通してつくりあげていくものであります。ここまでが隣人と線引きされるものでは決してありません。出会い、その人が求めていることをしてさし上げることを通して、隣人とされていく関係のことです。その時の行いが愛です。

十戒の後半、「父、母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「欲してはならない」は、すべて隣人との関わりに関しての規定です。これらに共通するのは愛です。これらは、それぞれの日常の生活の場における具体的な行為の項目です。

生活の場で出会う人々を愛していくことを通して、私たちは出会った人々の隣人となっていくのです。

 本日の「盗むな」「偽証をするな」は、とても単純明快な規定です。しかしこの二つを私たちは実践出来ているでしょうか。大人は子どもに命じます。しかしそれを実際に行なっているでしょうか。これは決して救いの条件ではありません。愛の神さまの私たちへの期待であります。今週一週間この「盗むな」「偽証をするな」を常に念頭において歩んでいければと願います。お祈りをします。黙想の時をもちましょう。


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