「神は御子によって語られた」 


 ヘブル人への手紙1章1〜4節
 2005年10月2日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。今日から3ヶ月間キリスト教の教理を学びます。教理などと聞くと、何だか難しそうで尻込みしたく思われる方もおられるかもしれません。誰でも勉強は好きではありませんから。

しかし決して難しく考える必要はありません。これは私たちが信じる内容のことです。何を信じるのかということです。他教派においてはそれぞれの教理問答、信条が用意されています。しかしバプテスト教会はそのようはものを持たず、自分たちの信仰告白をその内容とします。教理問答や信条であれば過去に作られたものがあるのですが、信仰告白は自分たちの言葉で用意せねばなりません。それぞれの時代や背景の中で、自分の言葉で神様への信仰を言い表すのです。これもバプテスト教会の大きな特徴の一つです。

他教派のどんな教会の礼拝においてもなされていますが、バプテスト教会においては行わないことがあります。それは“使徒信条”の唱和です。これが行われないことに、他教派からの方の中には驚かれるほどです。これは決してバプテスト教会が “使徒信条”の内容をおかしい、問題があると思っていることによるのではありません。今自分がおかれている状況の中で、自らの言葉での信仰告白によって、教会を建て上げていこうとするのがバプテスト主義であるからです。

信仰告白には、大きく分けてそれぞれ個々人の「私の信仰告白」と信仰共同体である教会の「私たちの信仰告白」があります。個々人の信仰告白と共同体の信仰告白が同じ文言でなければならないことはありません。しかし大筋において一致している必要があります。その一致の柱となるのが教理です。神とは、聖霊とは、聖書とは何であるのか。これらの一致を求めて共に聖書を読んでいくこと、学んでいくことが教理の学びです。

その第一回目が先ほどお読みいただいたヘブライ人への手紙1章1〜4節です。3年サイクルの一年目の今年は、この3ヶ月で「神の言」「造り主」を中心に学んでいきます。この後は、ヘブライ人への手紙ではなく、いろいろの書簡を取り上げていきますが、少しヘブライ人への手紙について最初に話させていただきます。

ヘブライ人とはユダヤ人のことです。この手紙の著者はパウロだとする考えが今でも根強くあるようですが、決定的な証拠はなく、特定は出来ませんが、一人のユダヤ人キリスト者であろうとされています。書簡の名称には手紙とありますが、これは後世の人間が付けたもので、今では手紙というよりは、神学的な論文ないし説教ではないかとされています。受取人というか対象はヘブライ人かどうかは定かではありませんが、このようなタイトルがつけられたのは、その内容がユダヤ教・旧約聖書の背景や知識に基づいていることによると思われます。

今日のメッセージタイトルは新共同訳聖書の“見出し”からそのままとらせていただきました。これは余談ですが、新共同訳聖書にはこのように“見出し”が付けられています。この“見出し”が付けられたおかげで、とても読みやすくまた箇所を探すのにもとても助けになります。しかしこのために聖書を連続して読むのでなく、ぶつ切りに読んでしまうことになりかねません。またこの“見出し”の文言は新共同訳聖書の編集者が付けたものです。口語訳や文語訳にはなかったのですから、当然聖書本文ではありませんから、本文の言葉とは一線を画して読むべきであります。

さて、本文に入っていきます。この1〜4節は原文では一続きの文章です。内容から言っても、ここは本書全体の序文として相応しく、厳選された言葉で御子なるキリストについて提示されています。

1節から2節の最初の文章

 聖書は神が被造物である人間に語りかけてくださるお方であることを述べています。1節の「かつて」とは旧約の時代のことですが、預言者たちを通して語られましたが、新約の時代には御子によってお語りなさりました。神さまは天の国にただ鎮座まします神なのでなく、語ることによってご自身を現されました。これを「啓示」と言います。このようにご自身を啓示されることを通して、私たち人間を贖い、いのちを与え、その光によって私たちが歩むべき道を照らし示して下さるのです。

神さまはさまざまな形で私たちにご自身を啓示して下さいます。皆さんもそれぞれにさまざまな形で神さまをお感じになられたことがあると思います。それも大切な啓示でありますが、ここで著者が述べているのは、神の特別啓示のことです。この特別啓示に二つの段階があることを示しています。一つが最初の「かつて」の長い旧約時代の啓示です。「多くのかたちで」とは、夢や幻、み使いである天使を通してなどそれぞれぞれの目的と場合に応じて用いられました。もう一つが「新約の時代」の啓示です。2節の「この終わりの時代」というのが新約時代のことです。これが御子であるキリストを通しての啓示です。それをこの後の本書において記されているのです。

ただ、ここで誤解してはならないのは、かつての旧約時代の啓示は御子を通しての啓示に劣るものでは決してないということです。確かに後でも述べるように、御子は特別な存在であり、偉大なそして永遠なる救い主のかたちです。神はこの御子を通して、最後の言葉を語られました。とっておきの最後の切り札としてです。この御子を越えて進められる啓示は存在しません。しかし私たちは旧約聖書によってこの啓示の豊かさを知ることが出来るのです。そしてこの旧約の土台の上に神さまは御子を現して下さったのです。現代もこの新約時代でありますが、この時代に生きる私たちにとっても、旧約をしっかり読むことが求められているのであり、旧約を読まない信仰はとてもうすっぺらなものとなってしまうことは心するべきことであります。

2節の後半と3節には、御子なるキリストの比べることの出来ない偉大さを示す事実が記されています。2節では、「神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を創造され」たとあります。キリストは、神さまから天と地の一切の権能を受け継がれたのであり、また天地創造のわざにも関わられたというのです。この創造に関わられたことについては来週、ヨハネ伝の1章を取り上げる時にもう少し丁寧に見ていきたいと思います。

3節「神の栄光の反映」この「反映」は別な訳では「輝き」でした。これはこう訳された言葉自身に「反映」という受動の意味と「輝き」という能動の意味の両方があることによります。いずれにしても、御子は神さまの栄光を現すものであるというのです。

「神の本質の完全な現れ」キリストはその本質において全く神そのものであることを示します。そのみわざにおいてもまたその歩みにおいても神以外の何者でもないのです。そしてその神の本質を御子を通して、神さまは私たちに啓示して下さったのです。

「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」

天地創造の時に、「光あれ」との神さまの自身の言葉によって天地を創造されました。その創造のわざに参与された御子は今も力ある言葉でもって万物を世界を支えておられます。この支えるとはキリストが神のご計画とご配慮によって統べ治められていることです。

「人々の罪を清められた」今までの5つは御子の世界に対する働きについててあったが、これは御子の人間との関係における祭司的な職務に関するものです。祭司は民の罪を贖うために律法の定めに従って、定期的に動物の血を供え物として献げることがその役目でした。しかし御子なるキリストがそのいのちを十字架でお献げ下さったことによって私たちの罪が清められました。そしてこのことのために、ヘブライ書においてはキリストのことを大祭司と呼んでおります。罪の清めのわざこそが、創造やこの世界の摂理の働きに勝るとも劣らない、いやキリストを大祭司として任じるにたる出来事でありました。

「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」

「天の高い所におられる大いなる方」こそが神であります。聖書においては右側は、弁護者の位置であり、助け手の立つべき場所です。キリストは大祭司としてただ一度だけ永遠のいけにえとして十字架で命をお献げされた後に、神の右側にお着きになったのです。これこそが御子の偉大さを示す出来事にほかなりません。

4節では突然「天使」が出てきます。天使とは神のみ使いのことです。旧約の時代においては、それはキリストの誕生の時を含めますが、天使が重んじられました。神のことばを取り次ぐものとして。しかしイエス・キリストは彼らに優る名「御子」という名、神のひとり子としての名を受け継がれたのです。それゆえ、神は天使以上の存在として、それは神さまの啓示の手段として御子であるイエス・キリストをお用いになられました。歴史上一回限りのこととして、イエス・キリストを地上に送り込まれたのです。

私たちは何を信じるものでしょうか。それは、神が御子によって私たち人間に語られたことです。そしてその御子を信じるのです。

お祈りします。いつものように黙想の時をもちましょう。


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