「うなじがこわい」 


 申命記10章12〜22節
 2005年10月16日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。今日は中山ひかりさんのバプテスマ式を執り行えること、とても嬉しく感謝です。バプテスマは信仰者として合格した者がその学びの卒業の意味で受けるものではなく、イエスさまを救い主として信じる者が、これから神さまと共に歩む生活に入っていくための入学式のようなものです。またこれは天国に入ることの許可証でも決してありません。これはゴールなのではなく、イエスさまに従い弟子となっていく歩み

のスタートラインに立ったことに過ぎません。要はこれからなのです。

この後行なうバプテスマ式、バプテスト教会ではその形態として、“浸礼”その名の通り、これは全身を水につけるのですが、この“浸礼”をとても大切にしてきました。多くの他教派で行なわれるのは“滴礼”ですが、これは全身を水につけるのでなく、何滴かの水で顔や頭を濡らすような形態です。しかしこれは、あくまでも外側の形式に過ぎません。“滴礼”は、“浸礼”に劣るものでは決してありません。それは形の上のことであり、水はある意味の象徴だからです。水の量が多ければよいというものではありません。

 バプテスト教会が真に大切にしてきたのは、自らの口で神と会衆の前で行なう信仰告白の方です。バプテスト教会はそれまで一般的になされていた幼児洗礼を強く否定しました。幼児洗礼はその名の通り、幼児、生まれたての子どもなどに洗礼をするのですから、当然自分の言葉で信仰を言い表すのではありません。バプテストはそのことを否定し、自らの口から自分の言葉で信仰を言い表すことにこだわってきたのです。

先ほどの信仰告白はひかりさんが自分で書きました。彼女は私に「何を書いたらよいのか分からない」と何度も言いました。しかし私は全般的な内容に関して伝えはしましたが、「これとこれを書きなさい」とか「どのように書いてもよいけども、この点とこの点とだけははずさないように」といったような具体的なことは何一つ言いませんでした。その点では苦労させることになったのかもしれません。何故か、それは本人が自分の言葉で信仰告白することに大きな意味があるのであり、またそうしてこそバプテストの信仰告白になると、私は確信しているからです。

 今回の信仰告白は、役員の方たちの間で波紋を呼びました。それは、信仰告白の中に、顔文字があったことです。顔文字を口で説明するのはとても困難ですが、これはパソコンや携帯のメールなどで用いるもので、点や棒などで顔の表情を表わして、気持ちや考えなどを伝えるものです。今回も「これでは何のことか分からない」という方もおられました。また、「正式な文書では相応しくないのでは」という声もありました。それらは全くもっともなことだと思います。しかし私は、本人が自分の言葉、顔文字もその名が示す通り、文字であり、本人が記した言葉でありますから、本人が書いた言葉を周りの者が書き換えたり、また書き直しをさせたのでは、本人の言葉による信仰告白にはならないと考えています。

 先日の執事会でも述べましたが、あるバプテスト教会で実際にあった話です。小学校一年生の女の子の信仰告白の言葉です。その子は信仰告白の中で「イエスさまを信じるのは、ジェットコースターに両手を離して乗るようなもの」と書いたのです。その教会の牧師は書き直しをさせました。しかし彼女は書き直した文章でも、同じ事を書いたそうです。彼女にとっては、イエスさまを信じて歩んでいくことは、「両手を離してジェットコースターに乗ること」だったのです。それは大人たちにとっては、思いもよらない表現であり、不適切なものとまでは思わなくとも、もっと相応しい表現の仕方があるのではと思わせられます。しかしそれがその子にとっての正直な信仰告白の言葉であったのです。

バプテスト教会が自らの命をかけてまで大切にしてきたのは、浸礼という形だけでなく、いやそれ以上に大切に守ってきたのは、本人の自覚的な信仰告白であったのです。一般的な、更に言うと、さしさわりのない正統的な内容のものでよいのであれば、使徒信条を読めばよいのです。また教会の信仰告白でもよいと思います。実際、使徒信条を読むことで自らの信仰告白とさせる教会もあります。しかしバプテスト教会は先々週も述べましたように、使徒信条などの過去に作られた言葉ではなく、現在の自分たちのおかれた状況の中での自らの言葉を用いての信仰告白に基づいて教会を建て上げてきました。それゆえ、個々人の信仰告白バプテスマにおいても、本人の言葉が重要となるのです。

さて本日の箇所に入っていきましょう。本日は申命記です。申命記はエジプトの国で奴隷の状態であったイスラエルの民を、神が大いなる御手をもって救い出したこと、神がどれほどの大きな愛をもって愛して下さったかが記されている書物です。モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そしてこの申命記と聞くと、そこには何だか厳しいばかりの律法、戒めが記されていることを思われる方もあると思いますが、ここには決して戒律のような律法だけが記されているわけではありません。確かに律法が記されてはいるのですが、それは決して神さまが人間に向かって「お前たち、これだけは心して守るのだぞ」という思いで戒めや掟をお与えになったのではありませんし、またその言いつけを守れない者を「懲らしめてやろう」と考えてらっしゃるのでも全くありません。では神さまは民に何を求めておられるのでしょうか。それが今日の10章に記されているのです。それが13節のことです。

「わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟とを守って、あなたが

 幸いを得ることではないか」

エジプトから救い出された直後には民は、主に感謝し、その御手のわざを感謝しました。その最後はあの有名な葦の海と呼ばれた紅海の水を真っ二つに分けた主の奇跡でした。それほどの大きな主のみわざを体験させられたにもかかわらず、喉元過ぎれば熱さをさすれたのか、彼らはすぐに心を翻して、モーセにそして神さまに向かって、不平不満ばかりを口にすることを繰り返しました。しかしそんな民たちのことを主なる神さまは決してお見捨てになることはなかったのです。

今日のところで神さまが求めておられるのは五つのことです。先ず一つ目が「主を畏れる」こと、そして「すべての道に従って歩むこと」三つ目が「主を愛すること」次に「心をつくし魂をつくして主に仕えること」、そして最後に「主の戒めと掟を守ること」。何故このようにおっしゃるか、それはこの五つのことが守られていなかったからです。これらのことは神さまがこの時になって急におっしゃったことではありません。これまでにもずっと言い続けてこられたことであります。

実はこの申命記10章というのは、旧約聖書の一つの中心です。そのことを民たちに気づかせるために、今一度繰り返しおっしゃっているのがこの10章なのです。

神さまがこれらの要求をされたのは、彼らを縛り付けるためにではなかったのです。またエジプトの奴隷の状態から解放し代わりに御自分の奴隷とするためでもありません。その真意は、彼らが命を得て幸いを得るためであったのです。民が幸いを得るために、「主を畏れ、すべての道に従って歩み、主を愛し、主に仕え、主の戒めと掟を守ること」をお求めになったというのです。自分の要求を守らない、守ろうともしないとも思える者に対して、懲らしめを与えるのでなく、彼らが幸せになることを求めるというのですから。

今日のタイトルは「うなぎがこわい」じゃなかった「うなじがこわい」です。きょうもいつものように平がな表記にしました。その方が皆さんの気を引いたり、興味をもってもらえるかなと思ってのことです。これは項目の“項”の字に、「こわい」は“強い”と書きます。うなじは首筋、それがかたいこと、すなわち、心がかたくななことです。新共同訳聖書では、また以前の口語訳聖書でもこのような訳はされてはいませんが、文語訳聖書では「然ば汝ら心に割礼を行へ重ねて項を強くする勿れ」とされています。新改訳聖書でも「うなじのこわい者であってはならない」となっています。

神さまの言葉に対して心をかたくなにし、強情であってはならない、とおっしゃっているのです。今回メッセージ作成のために読んだ資料の中には「くびきにつけられることを拒み、首を立てうなじを固くして抵抗する牛のしぐさから来ている」とありました。牛が抵抗するときに首筋を固くしていうことを聞かないように、私たちも神さまへの不従順な姿勢をとるときには、そのようなしぐさになっているのでしょうか。

神さまが求められるのは、かたい強情な心ではなく、柔らかな柔軟な心であります。「神の求めたもう供え物は砕けたる魂なり、神よ汝は砕けたる悔いし心を軽しめたもうまじ」(詩編51編19節)とあります。神さまは高ぶった心ではなく、砕かれた謙虚な心をお求めになられているのです。それを今日の申命記では「心の包皮を切り捨てよ」とそのかたくなな心にかかっている包皮を取り除けとおっしゃっているのです。

17節からには「寡婦や寄留者を愛する」ことをお求めになっています。現代でもそうでしょうが、当時の社会においても「寡婦と寄留者」は弱いもの、虐げられている者の代表であり、最も保護される必要のある人たちでありました。これらの人々を愛する者が隣り人への愛を実践する者と認められたのでしょう。私たちも周囲の人たちを愛するものでありたいと願う。そのためには、うなじをこわくするのでなく心を柔らかに、強情な高ぶった心ではなく、砕かれた謙虚な心となる必要がある。それは心の包皮を取り除くことであり、その第一歩は「主を畏れ、そのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、主のみ言葉を守ること」であります。家族を隣人を愛する者となる第一歩は「神を神とし、そのみ言葉を守る」ことに始まるのです。

 最後に先週行われた松浦さんのお宅での家庭集会で奨励させていただいたことをお話して終わりたいと思います。

イエスさまの弟子の代表であったペトロは、とても人間くさいというか、おっちょこちょいで早とちりをする、欠点の多い人物でした。しかしそのペテロをイエスさまはとてもお用いになった。それは彼が幼な子のように素直な心の持ち主であったからです。

ルカによる福音書5章には、そのペテロが最初にイエスさまに従って行った時のエピソードが記されています。それはイエスさまの言いつけに従って沖に行って漁をした時のことでした。「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われて、その通りにすると、舟が沈みそうになるほどの大漁となったのです。彼は決して心からそのイエスさまの命令に従ったのではありませんでした。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言った程度の気持ちで従ったのです。しかしここにも彼の素直さが表れています。魚をとる漁は、経験がとてもものをいう出来事です。彼は自分の漁師としての経験や勘を心からではないとしても、横においてイエスさまの言いつけに従ったのです。それがおびただしい魚を得ることとなったのです。

更にこれだけの恵みを得た後に彼は次のように言っています。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです。」と言って、イエスさまの足もとにひれ伏しました。彼は決して「イエスについて行ったらいつもこんなにおいしめをすることが出来るぞ」とは思わなかったのです。彼はその驚くべき恵みを得た時に、自分の罪深さを自覚したというのです。

私たちはどうでしょうか。神さまを信じて大きな恵みを得たり、祝福を受けた時に、そのことをどのように考えるでしょうか。神さまに感謝はするでしょう。また「あーあ良かった」と思うだけのことはないでしょうか。ここでのペトロはそれより先に自分の罪を深く悔いる心を持ったのです。そして自ら進んで主の言葉を疑っていたことを、足もとにひれ伏して告白したのです。これが“うなじのやわらかな”姿です。私たちもつくろうのでなくありのままの心で主の前に出るものでありたいと思います。それが今日の箇所で言われていた「幸いを得る」道であるのです。

お祈りします。黙想の時をもちましょう。



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