「きみは愛されるため生まれた」  


 ヨハネによる福音書3章16節
 2005年10月23日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんおはようございます。今朝このようにしてご一緒に神さまを礼拝することの出来る恵みを感謝いたします。私は大学3年生の時にバプテスマ、洗礼を受けクリスチャンとしての歩みを始めました。先週はこの教会でもバプテスマが行なわれました。これはイエスさまを自分の救い主として信じることを告白し、全身を水につける儀式を行うことです。この教会では、この後ろのバプテストリー、洗礼槽で行いますが、そのように洗礼槽のある教会だったらよいのですが、当時私が通っていた教会にはなかったので、川で行いました。

 よしさんの証しにもありましたが、今から思うと私も何も分かっていなかったと思います。イエスさまが私の救い主であってくれればよいな、信じたいという程度のものでした。聖書や教会に対する信頼はありましたし、またイエスさまに対して特別な思いを抱いてはいました。しかしイエスさまが十字架で死なれたことで、私の罪が赦されたのだとか、その十字架の意味がどこまで分かっていたのか、ほとんど分かっていなかったと思います。

 よしさんも自分ではその意味は分かっていなかったとおっしゃいました。しかし彼女の場合はまだその意味を考え求めていかれた方だと思います。あの性格ですから、とことん極めようと納得しようとしていかれたのだと思います。しかしそのよしさんでも十字架の意味は分かっていなかったと思うと言っておられます。それでも全く構わないのです。
2000年前の地球の裏側で起こったことと自分とがどんな関係があるのか、ましてイエスが十字架私で死んだことと私の罪の関係、イエスさまが十字架で死んで下さったって一体どういう意味なのか、そのことはその後の教会での歩みを通して、だんだん分かってくるものです。神さまはそのように一つ一つ導いて下さいます。ですから、このイエスさまのことが完全に、いや十分に分かっていないと洗礼は受けることが出来ないというものではありません。もしそうであるならば、ほとんどの人は洗礼を受けることは出来ないことになってしまいます。ですから今日お集まりの方の中にも、十字架の意味はよく分からないけど、イエスさまを信じて行きたい、教会に続けて通いたいという方がおられたらそれでも構わないのです。是非教会に続けてお越し下さい。そしてご一緒に礼拝し、ご一緒に導きを祈り求めましょう。

 私は、教会の方たちや自分の周りにいたクリスチャンの人みたいになりたいなと願いました。その後もそして今でもそんなふうになれたのかは全く分かりませんが、神さまは一つ一つ教えて下さっていきます。

 聖書に記されていること、特に新訳聖書の福音書というものに書かれているのはイエスさまのその生涯の歩みについてです。聖書は永遠のバイブルと言われています。日本のようにキリスト教国ではない国においてもいまだに聖書は売れ続けているベストセラーです。そして人々に大きな影響を与え、人の心にその言葉が強く響いているのは、神の言葉であるからです。この聖書の言葉万人の心を打つものです。しかしそれと同時に難しい、というかいくら読んでも飽きることがないのです。読めば読むほど味が出るではないですが、読めば読むほど新たな発見があるのと同時に、また分からなくなる、そんな不思議な本です。この聖書のことをこれからもご一緒に学んでいければと願います。

 さて今年のこの集会では昨日も讃美いたしましたが、「きみは愛されるためうまれた」をこの後にも歌います。この歌は韓国今から数年前につくられ韓国ではかなり広く一般的に歌われている曲です。讃美歌というよりゴスペルソングとして作られたと言ってよいでしょう。そして2年ほど前からその評判が日本にも伝わり始めました。きっかけは韓国の伝道チームが紹介したことによるそうです。それ以来いくつかの教会では歌われ続けたようです。その中の一つの教会の教会学校に通っていた小学校3年生の子どもが小学校で口ずさんでいたのを担任の先生が「素敵な曲だね、CDはないの」と聞かれて、教会にその子が尋ねたことから、日本でもCDにしようという話が起こっていったそうです。そして今年になって発売され、今少しずつですが、教会の枠を超えて歌われるようになっています。

 日本語の訳詩もほとんど韓国語を直訳したものです。あまりにかざらないストレートな歌詞がかえって斬新に思えるほどです。
「きみは愛されるためうまれた、きみの生涯は愛で満ちている。きみの存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう。きみは愛されるため生まれた、今もその愛受けている」
私たち人間は愛されるためうまれたのです。この愛を知ることで私たちの人生は本当に変えられる。人生というよりも存在そのものが変えられる。つらいこと苦しいことはいっぱいある、昨日はお話しましたように、重荷や苦しみが全くない人はいないでしょう、その重荷のために命を絶つ人が後を絶たないのが現状です。みんな愛を求めているのです。みんな自分の存在を誰かに認めてもらいたくってうめいているのです。

 実はこのCDの発売元が音頭をとってある一つの運動というか動きが起こっています。それはこの「きみは愛されるためうまれた」をNHKの紅白歌合戦で歌ってもらうにしようというものです。今年からでしょうか例年のことなのか、NHKでは視聴者が「紅白で聞きたい歌」というのを投票するアンケート行っているのです。みんなでそれに投票してこの歌を紅白で歌われるものにして、神さまの愛を伝えようというのです。インターネットで投票できますので、興味をもたれた方は検索してみて下さい。

 さて本日の聖書の箇所は新約聖書の中で最も有名な言葉の一つです。
ここで記されている「独り子」とはイエスさまのことです。親にとって子どもは最も大切な存在です。たとえ自分の命が危険に晒されようとも子どもの身を守ろうとするのが親心です。昨今ではそうではない話を耳にすることがしばしばあり驚かされます。しかもそれが独り子であればなおさらです。その大切な大切な独り子を自分のもとから手放し、この世の中に送って下さった。それが神さまの愛だというのです。そしてそれは全ての者が滅ぼされるのでなく、永遠の命を手に入れるためだといいます。
この永遠の命とは死ぬことなく長く行き続けることではありません。クリスチャンになれば不老不死のように死ぬこと事がなくなるというのではありません。先週もこの教会では一人の信者さんが68歳の生涯を終えられ、葬儀を行わせていただきました。そうではなくこれは神さまとの関係のことを言っているのです。神さまと共にいきていくこと、死んだ後であってもです。生きている間だけでなく死んでからも神さまと共に生きることそれが永遠の命です。そしてこれこそが神さまの愛です。神さまの愛は永遠に変わることなく、私たちに与え続けられるのです。

 神さまはその愛を十字架を通してあらわして下さったのです。十字架でイエスさまが死なれたことを知らない方はないでしょう。イエスと言えば十字架というくらいセットのように考えられています。イエスさまはその十字架で処刑されました。十字架は当時の社会において最も残虐な処刑方法でした。言い換えれば最も罪が重い犯罪人がこの十字架で処刑されたのです。

 イエスさまの十字架の死は人間が神さまの前に受けなくてはならないさばきを身代わりとなって受けられた死であります。私たちのかわりにそのさばきを受けて下さったのです。そして何一つ反論することなく、自己弁護をなさることなく、黙って死んで下さったのです。「人がその友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」これもイエスさまのおっしゃった教えですが、それをご自身が実践されました。それが十字架です。そして全く潔白な身であられながら、人間の罪の身代わりになるため、友のために命を献げるために付けられた十字架の上で、正に命を引き取ろうとされる時に「父よ、彼らをお赦し下さい、自分たちが何をしているのか知らないのです」と言って死んでいかれました。

 このイエスさまの愛によって、そしてそのイエスさまを信じることによって私たちは滅びることなく、永遠の命を得ることが出来るようになったのです。これが神さまの愛です。そして愛こそが人を作り変えることが出来る、生まれ変わらせることが出来るのです。

 現代の日本には物が有り余るほどにあります。一昔前からすると考えられないほどに物は豊かにある時代になりました。それはみなが飢えることなく、幸せに生きれるようになればと願ってのことです。しかし現実に人間は幸せになったか、昨日も紹介しましたように、日本では毎年3万人以上の人が自殺しています。多くの大人たちが命を絶っています。そして青少年のそれも若年層の子どもたちの凶悪な考えられないような犯罪も多発しています。日本中がいや世界中が苦しんでいます。そんな人間を救うことが出来るのは、物質ではありません。人を救い、生かすのは愛です。その中の究極の愛がイエスさまの十字架なのです。人は愛によってこそ生きることが出来る、人を作り変えることが出来るのです。

 その愛を皆さんにも体験していただきたいと思います。



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