「イエス・キリストを通して」


 ヨハネによる福音書5章31〜40節
 2005年10月30日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。何度もお話していることですが、先週は本当に盛り沢山な一週間でありました。そして正直言ってどうなることかと思った一週間でもありました。しかし、佐野竹生さんを天にお送りする時もそして特別伝道集会も十分なものではなかったでしょうか、神さまの導きのもとに終えることが出来ました。特に特伝には新しい方もお出で下さり、その中で決心者も与えられ、また既に信仰を与えられている方たちにとっても自らを省みる時となったのではないかと思っております。くずめよしも無事福岡に帰ることが出来、感謝です。皆さまにくれぐれもよろしくと申しております。

 イエスさまに従って行く歩みは、幅の狭い平均台の上を歩いくもののように感じるとおっしゃった方がありました。恐れや心配とで、どうなる事かとはらはらしながら歩くようなもの、私も正にその通りだと思います。自分の置かれている状況や目に見える有りさまは、一歩前に足を踏み出すにもどこに足を置いたらよいかわからず不安で不安でしようがない、どうなることかと心配で心配でしかたがない。しかし確かに狭い道であり、険しく障害だらけの道ではあるのでしょうが、私たちの目にはたとえそのように見えるとしても、不思議と守られる。何故か、主が共にいて下さるからです。そして「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れじ。汝我と共にいませばなり。」(詩編23編4節)その平均台の下にはちゃんと落ちないように網が張ってあり、主が共にいて守って下さる。しかしそれは私たちの目がくもってしまっていることから、それがは見えないことが往々にしてあり、不安になるのです。私自身、先週は忙しさの中で余裕を失ってしまった中にありました。しかしこれも先週もお話したことで繰り返しになるかもしれませんが、私には「これは人間業ではない、神さまがおこされていること、神さまが直接介入して下さっているから大丈夫」という確信がありました。神さまをとても近くに感じたからです。

これは全くの余談でありますが、そんな中、神さまは私にすばらしいプレゼントを下さいました。実は私は千葉ロッテマリーンズの10数年来のファンでありまして、当然ロッテオリオンズの頃から応援していました。弱い球団でずっとお荷物のように言われてきましたが、千葉に本拠地を移してから、また昨年からのプロ野球再生の動きの中で、親会社やフロントをあげて地道に球団経営をし、また地元に根づくようにコツコツとファン獲得のための地道な努力を重ねてきたことが実を結んだ結果であったと思います。私自身もずっと応援し続けて来て、やっと報われたなと、今でも喜びを満喫しています。目の回るような忙しさの中で、これは神さまが私に下さったご褒美のように感じる出来事でした。

この話をし出すとまた止まらなくなりますので、このくらいにして、さて、私たちが信じる内容、教理について10月から学んでおります。教理というと何だか難しそうに聞こえますが、これは私たちの信じる内容のことです。心から信じていたとしてもそれが聖書から離れてしまっていては問題ですから、私たちが何をどのように信じるのかを吟味することはとても大切なことです。今日はヨハネ福音書の5章です。

37節に「あなたたちは、まだ父の声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」とあります。これはこの時イエスさまを取り囲んでいたユダヤ人たちに対して、イエスさまがおっしゃった言葉です。しかしこれは私たちに対してイエスさまが語りかけられた言葉でもあります。私たちは天の父なる神さまの声を聞いたことも、姿を見たこともありません。それでも私たちは神を信じることが出来ます。ある牧師はこの箇所のメッセージのタイトルを「見たこともない神を知る」としていますが、私たちが神さまを見たこともその声を聞いたことがなくても、信仰は成り立ちます。これは変な話に思えるかもしれませんが、逆に聞いたり見たりしないと信仰を持てないのだとすると、こっちの方がより変なことになってしまいます。そうだとすると、耳に聞こえない方や目の見えない方は信仰を持てないことになってしまいます。そういったことによらないからこそ、どんな人でも、かつ何時の時代においても、どこにおいても、どんな状況・状態の方であっても、信仰を持つことができるのです。34節で「あなたたちが救われるためにこれらのことを言っておく」とあります。これもとても厳しい言葉です。「あなたたちが救われるためだ」とおっしゃっています。姿を見たことも声を聞いたこともない者であっても、神を信じることが出来る、だから「あなたたちが救われるためにこのことを伝えておく」とおっしゃっているのです。

今日のこの場面はイエスさまにとっても、とても厳しい状況でありました。イエスさまが行われた奇跡が発端となって、18節で「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃったことから、ユダヤ人は腹をたてますますイエスさまを殺そうと思うようなったのです。一介の大工の息子が神さまのことをわたしの父などと言ったのですから、ユダヤ人たちにしてみればとんでもない神をけがす言葉でありますから、彼らの怒りはエスカレートしてそれ以前からイエスのことを苦々しく思っていた心にさらに火をつけました。さらに19節以下でご自身の権威について語られた後、31節で「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる」とおっしゃいます。この「別におられる方」が父であることは明らかですが、なぜ直接「父が証しされる」とおっしゃらなかったのか、何だかもってまわったまわりくどい言い方にも思えるほどです。このことについては後で述べます。

この“証し”という言葉は法廷で用いる言葉です。先日の特伝でもよし姉妹の“証し” を私たちは聞きましたし、今日も礼拝の中で前田兄弟もして下さいました。これは神さまのことを人々に話す意味で、教会では普通に用いられている言葉ですから慣れっこになっていますが、普通日常生活で使う言葉ではありません。これは法廷、裁きの場における言葉です。

そうです。イエスさまはこの時、ユダヤ人たちに裁かれておられるのです。そこで自分で自分の証しをするのなら真実ではないが、32節にあるように「わたしについて証しをなさる方は別におられる、そしてその方の証しは真実である」とおっしゃるのです。裁かれている場で自分の身の潔白を自分で主張しても、あなた方は信用しないであろう。しかしわたしについて証しをなさる方は別におられるのだと。そのようにして自分の真実が何によって支えられているのかを説き始められたのです。そして27節にあるように、自分には裁きを行う権能が与えられているとおっしゃるのです。

ここでのイエスさまの証言、証しは、実はイエスさまご自身が裁き手としてなさる証言であります。ユダヤ人の前に被告としてイエスさまが立っておられるのでなく、主イエスこそが真実の裁き手であることを語られているのです。「あなたがたは自分が裁判官だと思っている。しかしそれは真実なのか」と問うておられるのです。

39節に「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。」とあります。今回この言葉に一番はっとさせられました。ここは「聖書を研究している」と訳されています。教会でも聖書研究会、聖研、というものを行いますが、一般的に研究というのは専門の学者が行うものです。元の言葉においてもここは、「研究する」と訳するのが相応しい言葉が使われているのです。イエスさまは「学ぶ」とか「調べる」という言葉を用いられず、ここではわざわざ「研究する」とおっしゃっているのです。ここでの相手ははっきりとは書いてはありませんが、律法学者やファリサイ派の人々でしょう。学者や専門家たちです。そして彼らはとても真面目なきちんとした人間です。救いを求めて、真剣に聖書を読んでいる人たちです。ただ歴史を調べているのではない、またただ知識を求めてのことでもない、「永遠の命があると考えて研究している」。永遠のいのちがあるかないかを学者たちが調べて決める、すなわち裁くのです。ところが、そんなことでは、永遠の命は見つからない、なぜか。39節の次の言葉です。「聖書はわたしについて証しをするものだ」聖書が語っているのは、命を与えるのがこのわたし、イエスさまであることを語っているのに、そのわたしを抜きにして聖書の中にいのちを求めてもみつかりっこないと、そう言われているのです。

この“永遠の命”とは、先週も述べましたように、永遠にこの地上で行き続けるというのではありません。たとえ肉体は滅びようとも、この地上での寿命がつきようとも、いつもいつまでも神さまと共にあり続けることの出来ることです。

今回の宣教の準備の中で、詩編40編7節の言葉が示されました。現在水曜の祈祷会では詩編を読んでおりますが、本当に多くのことが詩編から教えられます。旧約聖書の873ページです。ご覧下さい。

「あなたはいけにえも穀物の供え物も望まず焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いて下さいました。」別の詩編の箇所においても、神さまの喜ばれるのはいけにえではない、打ち砕かれた悔いた心である、とありますが、この40編では、「わたしの耳を開いて下さる」と記されています。この部分の元の意味は「耳を穿つ」だそうです。「耳の穴を掘って下さる」というのです。

 罪の代償の供え物やいけにえを献げた、けれども神さまはそれらのものを求めてはおられなかった、喜ばれなかった。その代わりに、耳の穴を新しく掘って下さった。何故か。聖書を読んではいたけれども神の言葉を聞いていなかったからです。そのために神さまは耳の穴を新しく掘り直して下さるのです。

 ここでの律法学者たち、いや他ならないこの私は、神の言葉を聞く耳を持たないままで聖書を読んでいる、研究しているのではないか。永遠のいのちを得るためにイエスさまに聞いていなかったのではないだろうか。

 イエスさまはユダヤ人たちが聖書を研究しながらも神の声を聞いていないことを、ここで問うておられます。だから38節にあるように「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない」聖書をいくら読んでも、どんなに詳しく研究しても、イエスさまに聞かなければ命を得ることにはならないのです。

 神さまは私たちの耳の穴を掘って開けて下さいます。それはなぜか、聖書の言葉は元々は“聞く言葉”であります。今では私たちは聖書を読みますから、“読む言葉”と思っていますが、元は“語られた言葉”であり、“聞くための言葉”でありました。どんなに聖書をよく読んでいても、耳が塞がってしまっておれば、命を得ることは出来ないのです。

 33〜35節

「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しを

 した。わたしは、人の証しは受けない。しかし、あなたたちが救われ

 るために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし

 火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しも

 うとした。」

 ユダヤ人たちは聖書だけでなく、裁判官になったつもりで、ヨハネのもとにも行った。このヨハネはこの福音書の作者のヨハネとは全く別人で、バプテスマのヨハネと呼ばれた、イエスさまの前に神さまより遣わされ、人々に悔い改めのバプテスマ、洗礼を授けた人物でした。人々は、彼が神の言葉を説けば、それが真実かどうか確かめようと裁定を下そうと、裁こうとして、彼のもとに行きはする。しかしそれもしばらくの間、その光を楽しんだだけでした。「燃えて輝くともし火」とは、光のそのものではなく、光の所在を示す、イエスさまに至る道の足もとを照らすともし火であります。指し示されたイエスさまを無視して、ヨハネの言葉を楽しんでいるだけでは、イエスさまを殺そうとする思いからは自由にはなりません。本当の命を得ることは出来ないのです。

 ヨハネによる福音書の全体においても、イエスさまが問題にしておられるのは、私たちを生かす命であります。この命をイエス・キリストを通して得ること、そのことを父なる神さまはヨハネに記させたのだと言えます。私たちがイエスさまのところに行き、その命のみ言葉を聞こうとするとき、神さまは私たちの耳の穴を掘って開けて下さる。そうしてイエスさまの言葉を直接自分の耳で聞くことを通して、キリストのものとなる。キリストのものとなった時に、命が、永遠の命が与えられる。それは私たちが立派になることでも、また神さまから引き離そうとするマイナスの悪しき力、これをサタンや悪魔と呼ぶことも出来ますが、その存在に負けないように私たち自身の力が強くなることでもありません。私たちの内側にある可能性や資質が問題なのでは全くありません。そうではなく、命は外から、イエス・キリストを通して、私たちの内側からでなく、別な所からやって来るのです。いのちは向こう側から来るのです。

 最初に32節の「わたしについて証しをなさる方は別におられる」というところを、私はもって回った回りくどい言い方だと申しましたが、ここまで来ると、こうおっしゃったイエスさまの真意が分かるように思えます。

あえてこのようにおっしゃったのは、イエスさまのことを証しするのは、それこそが私たちを生かす命の源なのですが、父なる神は、あなたたがたのいないところ、別なところ、あなたがたが今生きている世界とは別なところにおられて、その方が証をなさるのだ。これが私たちの望みの根拠です。神さまは私たちとは全く別な方なのだと受け入れることが、我々を根底から支え生かす確かさを生み出すのです。

 これはもっと言うと、私たちの信仰の強い弱い、大きい小さい、確かさによるのでもないということです。私たちを生かす支えは、そして命を得るかどうかは、私たちの力によるのでは全くないのです。これは大きな慰めです。確かに私たちの目には立派な人、信仰深い人と自分とを比較する心が起こります。そして信仰の確信がなくなり、こんな自分ではだめなのではないかと自分を裁く心にとらわれることがあります。しかし、今日の箇所でも述べられたように、私たちの裁判官は私たちではありません。私たちを裁かれるのもイエスさまであり、父なる神さまです。

そして私たちを生かす力もそして命も私たちとは全く別な所からやって来るのです。そしてそれはイエス・キリストを通してやって来るのです。

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