「アガペー」   


 ヨハネの手紙 一 4章7〜21節
 2005年11月6日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先ほどのアピールにもありましたが、今年は11月27日と12月4日の8日間が世界バプテスト祈祷週間です。これは“祈祷”週間です。連盟から世界に送り出している宣教師の先生方と世界伝道のことをおぼえてお祈りする時です。世界バプテスト“献金”週間ではありません。世界伝道のために経済的に支えるため献金を献げることも大切ですが、先ず第一におぼえることは祈りであります。またいずれ女性会から祈祷週間の8日間の祈りのプログラムが配布されることと思いますが、宣教師の方々と世界伝道のために祈っていきたく思います。

本日は与えられましたみ言葉は、ヨハネの手紙一です。今日の宣教のタイトル「アガペー」とは、おいおい述べていきますが、ギリシャ語で「愛」

“無条件の神の愛”を示す言葉です。

 愛の大切さ、愛こそが最良のものであることは、教会や聖書の教えでなくとも、巷でも説かれています。家族愛、夫婦愛、兄弟愛、隣人愛、人類愛。それらはみんな「愛する」ことを勧めています。しかしその実、誰もが「愛される」ことを求めているように思えます。みんな「愛に、愛されることに」飢えているのではないでしょうか。けれども、「愛される」のを求めるのでなく、「愛する」ことこそが大切だ、だから互いに愛さねばならないと言われているように見受けられます。

しかし「愛された」ことのない人間や「愛されている」ことを実感出来ない者が、人を愛することが出来るでしょうか。「愛されている」ことを求めることは、自分勝手でも、また自己中心的な行為でもない。人間の根源的な本能からの欲求であります。考えてみて下さい。自動車だってガソリンを補給しないと走ることは出来ません。「愛すること」はこれと全く同じです。「愛され」ないことには、「愛」を受けないことには、人を愛することは出来ないのです。今日のみ言葉の19節にもあるように「愛される」ことを求めることから、「愛する」ことは始まるのです。

 聖書教育にも記されていますが、ギリシャ語には「愛」を示す言葉がいくつかあります。表題の“アガペー”は「神さまの無条件の愛」を示します。次に“フィレオー”これは「近しい関係にある者への愛」、「友情」や「親愛の情」を指します。また“ストルゲー”は「家族同士の間の愛」「骨肉の情」です。そして一般によく言われる「男女間の愛」に代表的に見られるものが“エロース”です。この“エロース”が愛する対象の持つ価値に惹かれることであるのに対して、“アガペー”はその対象そのものに向かう愛です。“エロース”がより高いものに向かう自己中心的な愛であるのに対して、“アガペー”は他者中心の自己を犠牲にする愛です。この“アガペー”の愛こそが、私たちへの神さまの愛であり、それはとりわけイエスさまの生涯中でも十字架に表れています。

 ヨハネの手紙は新約聖書には三通あります。これらの手紙とヨハネ福音書とを合わせて通常「ヨハネ文書」と呼び慣わされています。この「ヨハネ文書」には独特の文体と神学の上で相互に多くの共通点が見出せます。そういったことから、これらの文書は全てイエスの弟子のゼベダイの子ヨハネがその作者であるとの伝承があります。しかし現在ではそうではなく、三通の手紙と福音書とは別な作者の手によるものだとの見解が有力になってきています。ただ聖書の著者に関して重要視すべきは、その作者が誰であるかでなく、その書かれている内容そのものであります。

 今日の4章7〜21節の内容をまとめるなら、それは「互いに愛し合うことの勧め」であり、その根拠は「神は愛であり、その愛が私たち人間に注がれていること」と言うことが出来るでしょう。

 ここではただ単に「愛し合う」ことが勧められてはいません。その愛がどこから来ているのか、そしてその愛を知ることで「互いに愛し合う」ことの大切さが説かれているのです。

著者ヨハネは2章において、「愛し合うこと」を新しい掟と言っています。しかし同時にそこにおいて、これは初めて耳にすることではなく、聞いたことのあるなしでいうならば、それは古い掟だともヨハネは言います。ギリシャ語には「新しい」という言葉が二つあります。それは「時間的な前後関係」を表す「新しい」ともう一つ「質的な新しさ」を表すものがあるのです。ここで言う「新しい」は、質的な、本質的な「新しさ」を示しています。

既に律法の中でも愛することが命じられています。レビ記19章18節です。(192ページ)ここにおいて、隣人を愛する掟が既に与えられているのです。律法を通して、またその後の時代には預言者を通して、神さまは愛することを人に伝えて下さいました。しかし人間は愛し合うどころか、憎み合い、いがみあってばかりいた。旧約の時代から変わらず、神は愛であったのです。新約の時代になって、急に神さまが性格を変えられたのでは全くありません。神さまは天地創造の時から、変わらずこの世界をそして、被造物を愛され続けたのです。

しかし人間は、その愛なる神に目を向けないので、その愛を知らず、憎み合ってきました。そこで最後の切り札として神さまはその独り子であるイエス・キリストをこの地上に送ってご自分の愛をお示し下さった。これは全く画期的な新たな方策であることから、ヨハネは「新しい掟」と呼んでいるのです。

 9節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」とあります。神が独り子を与えられたことは、最高の贈り物です。そこに最高の自己犠牲の愛を示されたのです。ここは10節もそうですが、日本語に訳されているのとは違い、原文では「ここに神の愛が示された」が分の頭に来ています。この事を特に強調されたことが分かります。この愛は私たちに起点があるのではありません。愛は神から出て、その愛を受けた時に私たちはその愛を知ることが出来るのです。神の目的は私たちの罪を償ういけにえです。イエスさまの十字架にこそ、神さまの愛が示されています。

 その愛の対象は罪人です。罪は神さまの怒りの対象です。私たちが立派であるから愛されたのではなく、神さまを怒らせ悲しませる罪人を愛して下さったのです。これが“アガペー”です。私たちは自分にとって益となる、値打ちがあるものを愛します。これが“エロース”です。神さまの愛はそうではなく、自分の大切な独り子を失うことを覚悟の上で愛して下さった。ここに“アガペー”の愛があります。神さまは正しい者ではなく、罪人を愛して下さったのです。

 ローマの信徒への手紙5章をご覧下さい。(279ページ)6節からお読みします。

 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

7節にある「正しい人」とは、間違いをしない心の正しい者のことです。そのような人のために死のうとはほとんど誰も思いません。「善い人」とは善人のことです。善人のためなら命を惜しまないと考える者ならいる“かも”しれません。しかしキリストは、罪人のために死んで下さったのだ、とパウロは述べます。これが“アガペー”なる愛です。

 13節以降では、その愛を受けることで、人を愛することが命じられています。そして私たちはその愛を実践することで、神が私たちの内側に留まっていて下さるのです。ここでヨハネが述べていることを言葉を替えて言うならば、愛は貯めこんでおくことは出来ないということではないでしょうか。そうです。愛は用いなければ無くなってしまうのです。使えば使うほど増えていく、愛すれば愛するほどにその大切さを実感出来る、それが愛なのです。

先月の特別伝道集会でも述べさせていただいたことですが、私たちは愛されるために生まれてきました。その神さまの愛だけが私たちを根源から変えることが出来るのです。

 最近よく妻と話すのですが、神さまを信じることによって、信仰を持つことで人は変わることが出来るのだろうかと。私たちはどんなに強い信仰を持つことが出来たとしても、そのことによって私たちが生まれ変わることは出来ないのではないだろうかと。

 私たちは、というよりは、私は生まれ変わりたいと常々思います。もっと善い人間になりたいと願うのです。人との応対においても、何故あんな物の言い様をしてしまったのだろうかとか、もっと善い性格の人間になりたいといつも思っているのです。しかし変われないとこれでも苦しんでいます。でも生まれ変われない・・・・

 自分自身をまた人を変えることの出来るのは愛しかないのではないか。愛こそが自分や周りの人間を、そしてこの世の中を変えることが出来るのです。人をそして世界を変えることが出来るのは愛だけではないでしょうか。神さまの愛を充分に受けることで、私たちは生かされていくことを本当に感謝することが出来る。その愛が私たちを変えてくれるのではないでしょうか。そしてその受けた愛を人々に分かち与えることで、この世界はより善い、神さまの国と変えられていくのではないでしょうか。そのことに期待して歩んでいきたく願います。お祈りをします。しばらく黙想の時をもちましょう。


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