「パラクレートス」   


 ヨハネによる福音書14章15〜21節
 2005年11月13日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先週が「アガペー」今週が「パラクレートス」と片仮名ばっかり。何が何だか分からないと思われた方もおありだと思います。週報に次週の宣教のタイトルを載せておりますから、正直言って、タイトルを決めるのに十分な準備ができないというのが現状です。説教の準備の方策は人によって様々ですが、私の場合は聖書箇所は、聖書教育の箇所を採らせていただいていますから、先ず新共同訳聖書でその箇所を何度か読みます。そして聖書教育を読み、それから註解書や説教集を読みます。タイトルを決めるのは、そこまでの作業を終えた時です。勝負はこの時です。この後に原文を読み、そして他の訳の聖書を読み、具体的に言葉化してメッセージを作成していきます。その後試行錯誤し、先に進まず今までの作業を繰り返すのですが、時間切れで日曜の朝を迎えることがしばしば、いやしょっちゅう、毎週です。ここまでの作業を終えてからタイトルを決められたらよいのですが、なかなか前の週にここまで済ますことができませんので、見切り発車のような形でタイトルを決めています。今日のタイトルも思いつかず、結局ギリシャ語をそのままタイトルにしました。これは「弁護者」前の訳では「助け主」となっていました。すなわち聖霊のことです。そのまま「弁護者」や「助け主」でもよかったのかもしれませんが、少しでも印象に残るように、またこれを見た方が「えっ、どういう意味?」とでも思い、立ち止まって下さればと思い「パラクレートス」としました。

 聖書教育にも記されておりますように、4世紀初頭に、「イエスは神であるか、それとも人だったのか」ということが論争となり、最終的にはコンスタンティノープル公会議で「三位一体説」が確立したとされています。

イエス・キリストは人としてこの地上に歩まれたが同時に神でもあったと私たちは信じていますが、このことは当時においても大問題になったようです。この公会議前のニカイア公会議においても父なる神と子なるキリストとは同質なのではなく、類似しているのだとする考えのアリウス主義と父と子と聖霊の三者は同質であるとするアタナシオスを代表とするグループとが論争を戦わせ、アリウス主義が異端とされました。

キリストはフィリピ書2章6〜7節にも、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあります。イエス・キリストは神に忠実に従っていかれたことにより、神になられたというのではありません。イエス・キリストは母の胎に宿られるより前から、もっと言うと、天地創造の前から神と共におられた、初めから神であったのだというのです。これは理性的合理的に考えるならば全く理屈に合わない考えです。もうこれは理性で捉えようとしても無理な話です。信仰によるしかありません。

 コンスタンティノープル会議で確立された三位一体論ですが、実は聖書にはこの三位一体という言葉出て来ません。意外に思われる方もおられるかもしれません。確かに聖書にはそれに類する内容が記されてはいます。今は詳しくは述べませんので、後ほど開けて見て下さればと思いますが、代表的なのはマタイ28章19節とコリント信徒への手紙二13章13節です。特にコリント書の方は、礼拝の最後に牧師が祈る「祝祷」の言葉となっています。

 この三位一体ですが、これは、父なる神、子なるキリスト、御霊なる聖霊の三者は本性においては一つであり、父・子・聖霊は三つの「位格」、これはラテン語の“persona”のことで、英語の“person”の語源となった言葉です。人間に当てはめれば、「人格」となるのでしょうが、神さまは人間ではありませんので、「位格」をもつとされます。これは父・子・聖霊がそれぞれ他と区別された固有性持つことを指す言葉です。すなわち三位一体とは、神は唯一で実体は一つであるのだが、父・子・聖霊という三つの位格をもって私たちに関わって下さるというのです。一つなんだけど、三つのあり方がある。分かったようで分からない論理です。だいたい限界ある私たち人間が神さまの存在を言葉で表現したり、頭で捉えようとすること自体に無理があるのです。ただここでおさえておきたいのは、聖書の神さまは他神論ではなく、唯一神であるということです。三大異端とされる「ものみの塔(エホバの証人)」「末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)」「世界基督教統一神霊協会(統一協会)」はそれぞれに異なりますが、三位一体論には立っていません。

 この三つの「位格(ペルソナ)」の中でも最も捉えにくいのが、今日の聖霊です。この聖霊の理解をめぐって、教会が混乱したり、分裂したりすることが多分に起こっています。また聖書においても、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)と今日のヨハネ福音書を含むヨハネ文書とでは、その理解の仕方が異なります。ヨハネ文書とはヨハネの名が付けられている、福音書と手紙1〜3と黙示録です。

 共観福音書では母マリアが処女であった時にイエス・キリストをみごもったのは聖霊によったとされ、イエスが洗礼を受けられた時に聖霊が彼の上に下ったとされています。イエス・キリストは聖霊によって油注がれることによって、わざが委ねられ、それがイエスの生涯の働きを支え、奇跡を可能にしたという。神の国に属するものはすべて聖霊の働きによるだと説きます。それに対してヨハネによる福音書では、今日の所にもあるように「父にお願いして別な弁護者を遣わしてもらおう」と、聖霊を弁護者、“パラクレートス”と呼んでいます。

 最初にも述べましたように、これは口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。文語訳聖書でも「助主」でした。「弁護者」と聞くと、“弁護士”を連想し、少し違うイメージが与えられるようにも思います。

 19節に「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」とありますが、これはヨハネによる福音書では13章からイエスさまは地上での最後のメッセージとして弟子たちに語られていることによります。自分はあなたたちと共におれなくなるから、その代わりに別な弁護者、助け主が与えられるのだ、というのです。

 17節には「この方は真理の霊であり、この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである」とあります。イエスさまと一緒に歩めなくなったとしても、父が真理の御霊を送って下さり、あなた方と共にいることが出来る。この後の16章においても、パラクレートスについて語って下さいますが、この話を聞いた弟子たちは何のことだかよくは分かってはいなかったことでしょう。このイエスさまの約束が成就したのは、イエスさまが十字架で死なれ、天に挙げられた後のペンテコステの出来事でした。使徒言行録1章3節をご覧下さい(213ページ).

使徒言行録1章3〜5節

この「聖霊によるバプテスマ」が授けられたのが、2章ペンテコステの出来事であったのです。この時にはとても不思議なというか、超自然的な現象が起こったようであります。3節の「炎のような舌」が現れ、その場にいた一同に留まると、彼らは当時の世界中の言葉で話をし始めた。それはただ外国語で語られた話であったというのではなく、11節にあるように「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語ったのです。そしてこのこと以降、弟子たちは全く変えられていったのです。それまでは、イエスさまの十字架を最後まで見届けることも出来ず、ユダヤ人を恐れ、隠れていたのですが、この事件以降は、死をも恐れずイエスのことを宣べ伝える者とされていったのです。

さて、ヨハネに戻りましょう。今日は21節までを読んでいただきましたが、26節にパラクレートスの働きが記されています。「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」先ほど見たペンテコステの時に、聖霊、パラクレートスを受けた弟子たちは、イエスさまから教えられてきたことを思い出しました。そしてそれまではよく分からなかったことが理解出来るようになったのです。

16章8節をご覧下さい。その方、パラクレートスは「罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」とあります。

12節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方すなわち、真理の霊がくると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」

イエスさまが死んで天に挙げられたのであれば、それ以降に生を受けた者たちは、私たちもそうですが、イエスさまと共に過ごせないのか、そうではないというのです。神は唯一のお方です。その神とイエスさまと私たちを結びつける働きをして下さるのがパラクレートスなのです。

霊の働きは自由です。私たちはこの高知伊勢崎町で礼拝しています。そしてこの場に神さまがご臨在下さっていると信じます。それは目には見えません。しかしこれと同様に、日本の各地だけでなく、時差はあるでしょうが、世界中の教会で礼拝が献げられており、そのそれぞれの場に主は同時に共にいて下さるのです。これが聖霊の働きです。

三位一体は分かりにくい、理解し難いことだと述べました。それと同じように、聖霊については私もよく分からないというのが偽らざる気持ちです。そしてこの聖霊理解は様々です。聖書においても違いがあります。また教派や教会によって違いが大きくあります。そして一人ひとりによって捉え方に違いがあるでしょう。この場にお集まりの皆さんに聞いても、おそらく10人にお伺いすれば10通り、いやそれ以上の考えを聞くことになるでしょう。私はそれでよいと思っています。なぜなら霊の働きは自由だからです。それを、これこれは聖霊の働きで、あれは違うといった具合に規定してしまわないようにしたいものです。規定してしまうことで、教会内に区別が起こり、それが対立を生み出しかねません。そのような対立が聖霊の働きであるわけがありません。ただ自由にと言えば聞こえはよいですが、勝手に何で聖霊の働きだと捉えていくと、はっと気づけば聖霊から離れてしまっていることにもなりかねませんので、常に聖書を読み、祈り求めていくことは忘れてはなりません。今は教理について取り上げている中ですが、聖霊については一度には語り尽くせません。それゆえ、これからおいおい取り上げご一緒に聖書に聞いていきましょう。

パラクレートスは「弁護者」です、「助け主」です。その助け方、弁護の仕方が様々であるはずなのです。神さまは一人ひとりに応じて、またその時や状況に応じて、私たちを弁護し、助けて下さるのです。今日の18節には「あなたがたをみなしごにはしておかない」とイエスさまは約束して下さっています。この約束を、そしてパラクレートスの働きが助けが、弁護があることを信じて歩みたく思います。お祈りをします。いつものように黙想の時をもちましょう。


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