「祈りを教えて下さい」   


 ヘブル人への手紙1章1〜4節
 2005年11月20日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先週は日本バプテスト連盟の題51回定期総会が行われ、当教会より代議員として派遣下さり、出席いたしました。お祈りを心から感謝申し上げます。私は昨年は待機中であったことから、昨年の総会には参加しておりませんので、久しぶりにお会いする方も多く、私の体のことをご心配下さっている方から声を掛けていただきとても感謝でした。私がここまで牧師として立っていけますのは、多くの方の祈りとお支えによるものであることを強く思わされました。主にある同労者の存在は大きな励ましであると同時に慰めでもあります。

後ほど報告の時にも報告をさせていただきますが、ここ何年か続いていた隔年開催から、今年から定期総会は毎年開催となりました。そのためプログラムに余裕が出来たこともあり、分科会の時間やこれからの伝道プログラムについて協議する時間が持てたことも感謝でした。私たちの日本バプテスト連盟は教団組織ではなく、各個教会主義に基づく伝道協力体です。これは本部の決定したことに基本的に従うというのでなく、主体は教会にあります。そのことに立った上で、全国330教会・伝道所が対等な連帯の中で協力伝道を進めています。昔のようにアメリカからの財政的支援の無い現在は、それぞれの教会・伝道所が協力伝道献金を献げることで運営されています。教会の意思決定は各個教会、それぞれの教会に委ねられており、この世のどんな外部の団体からも拘束されるものではありません。しかし一つひとつの教会には限界があります。そのそれぞれの教会が神さまの働きを、特にみ言葉を宣べ伝えるために協力連帯していくことは大きな力となります。私たち高知伊勢崎教会も今までも日本バプテスト連盟のそしてそこに連なる全国の主にある教会の祈りと支えにより歩むことが出来ました。今後とも私たち一人ひとりが連盟に連なる者としての意識を高め、祈りつつ主にある働きをなしていければと願っております。

先週は父なる神さまはイエスさまが十字架で死なれた後にも、パラクレートス、聖霊なる神さまを遣わして私たちの傍らに常にいて下さり、助け導いて下さることを聖書から聴きました。パラクレートス、これは私たちに与えられている聖書においては、「助け主」「弁護者」と訳されていますが、目には見えませんが、いつも私たちに関わっていて下さいます。そしてその関わり、導きに応えることを神さまは私たちに求めておられます。その応え方は神さまを信じその導きに全てを委ねていくことでありますが、その中心とも言える一つが「祈り」があります。パラクレートス、聖霊を通して私たちに語りかけて下さる神さまは、私たちが神さまを親しく呼びかけることを期待しておられます。その神さまへの呼びかけが祈りです。

 ここに記されている祈りは、私たちが毎週礼拝において献げている「主の祈り」です。この「主の祈り」は私たちが祈っているものと少し違いがありますが、内容的にはほぼ同じであると言えます。これはイエスさまが直接祈りの言葉を示して下さったものです。そのためキリスト教会ではこの祈りをとても大事にし、今日に至るまで続けて用いられています。

 1節にあるように、イエスさまの弟子の一人が「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったことに端を発し、そのことへの答えであります。当時はそれぞれのグループ、パリサイ派やバプテスマのヨハネに従う者たちなど、グループごとにそれぞれ独自の祈りの習慣と形式を持っていたのだろうと言われております。イエスさまの弟子も他のグループと同じように祈りの形式、言葉を求めたのです。

聖書教育においても触れられていますが、祈りは旧約の時代から必要不可欠なものとされていましたが、宗教が制度化される中で、祈りも儀式化され、形だけのものとなってしまう傾向がありました。祈りが形式化するということは、信仰も形式化、形だけのものとなる危険性があります。そんな中でイエスさまはこの祈りを示されました。これはとても破格な祈り、型破りな祈りだと言えます。それは冒頭の神への呼びかけに現われています。

 「父よ」これは当時の言葉で言うと「アッバ」となります。これは幼な子が父親に対して、日常的に呼ぶ言い方です。全く肩肘張らず自然に親しみを込めて呼ぶ呼び方ですから、「お父ちゃん」とも訳せる言葉です。祈りは人前で発表するような、人に聞かすものではない、いつも傍らにいて共に歩んで下さるお方にありのままの自分をさらけ出して述べる言葉であって良いことを教えて下さっているのです。

 旧約聖書の中にも、神を父とする信仰やそのような祈りはありましたが、これは当時の人々には衝撃的なものであったようです。神に向かって「お父ちゃん」と言うのですから。その馴れ馴れしさは人々の怒りさえ招くものでありました。

 しかしイエスさまは祈る時、あたかも小さな子どもが父親に話しかけるように、親密に素直に話しかけるようにと教えられました。これはイエスさまがなさったように、弟子に「アッバ」と呼びかける特権を与えられたのです。「父」と呼ぶからには、そう呼ぶ者は「子」となります。イエスさまはこの祈りをする者に、「子」としての地位を与え、弟子として幼な子が父親と話すように、信頼に満ちて「天の父」と話す資格を与えられたのです。そしてこのように神を「父」と呼ぶ習慣は初代教会の祈りに受け継がれていきました。(ガラテヤ4章6節)

 御名があがめられるように、御国が来ますようにと祈った後に、日毎の糧を求め、負い目、これは負債のことでありますが、祈ります。名はそのものの本質を指しますから、名が崇められることは神さまそのものを崇めることを指します。御国とは死んでから行く天国のことではなく、神の国、すなわち神と共に歩むことです。そのような祈りに続いて日々の糧を求めます。

 聖書は肉欲的な生き方や飽食を勧めてはいませんが、かと言って禁欲主義を説いているわけではありません。禁欲を美徳とは決して述べてはいません。ストイックな禁欲的な生き方は一見信仰的に思えますが、そのこと自体を神は喜ばれません。なぜならそれは律法主義にすぐ繋がるからです。その行為自体に救いがあるかのような思いとなるからです。神様が私たちに望まれるのは、求められるのは神に救いを求めることです。神に頼って生きることです。しかし神さまは私たちの肉体が食べなければ生きていけないことをご存知です。それゆえ、その糧を神に求めて祈ることを喜ばれるのです。

 また、罪の赦しは神さまがお与えになるものですから、その罪を神さまに日々赦していただくように祈ります。そして赦された者が周囲の者たちを赦すと宣言するのです。ここは非常に厳しい祈りです。自分には出来ないと尻込みしてしまいます。しかし神さまの赦しは、私たちを変える力を持ちます。自分に負い目、負債のある者を赦す気持ちなど、私たちの内側には逆立ちしたって出て来ません。しかし神の赦しは私たちを変える力があるのです。そして人を赦すと宣言し、実際に赦した時、自分自身が赦されていることが深められていくのです。

 主の祈りは内容が深く、また広範囲にわたっていますので、一度で話し切ることは到底出来ません。祈りは神を求めることです。神を呼ぶことです。そしてその神を親しく呼ぶことの特権が与えられているのです。

 今日は4節までを取り上げましたが、これに続いてイエスさまは二つの譬えを話されています。そこでは、祈りとはしつこく願い求めることだと教えられています。誰でも、求める者は与えられ、探す者は見つかり、叩けば門は開かれるのだと。

 そしてその話の最後(13節)では、天の父は求める者に聖霊を与えて下さると、イエス様はおっしゃっています。「祈りを教えて下さい」という弟子の求めのイエスさまの最終的な答えは聖霊を与えることであるのです。

先週も述べましたように、聖霊は「パラクレートス」「助け主」「弁護者」です。聖霊はいつも私たちに与えられ続けており、たとえ目には見えずとも私たちの傍らにいて下さり、私たちを助けて下さるお方です。祈らなければ聖霊が与えられないわけではありませんが、神さまは私たちが自らの力や業に頼るのでなく、神さまに求めるものを喜ばれます。神の名を呼ぶこと者に応え、助け主、パラクレートスを与えて下さるのです。お祈りをします。いつものように黙想の時を持ちましょう。


20006年説教ページに戻るトップページに戻る