「神の息と霊」  


 詩編104編5〜30節
 2005年11月27日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先ほどの証しにもありましたように今日から世界バプテスト祈祷週間です。配布させていただいております祈りのカレンダーに合わせまして、最初にお祈りをさせていただきます。

祈り

 そして更に今日からアドベント、待降節(降誕を待ち望む)に入ります。教会暦の枠組みに捉われずに教会活動を行うバプテストにおいても、イースター、ペンテコステ、そしてクリスマスとアドベントは大切に守ることが求められていると私は信じております。私たちバプテストの者にとりましても、このアドベントの時期をどのように過ごすかは信仰生活においてとても重要だと思っております。

 今日から12月25日のクリスマスまでのアドベントの期間は、私たちの救い主、主イエス・キリストのご降誕を待ち望む時です。心静かに備えをしてまいりましょう。このアドベントですが、これは11月27日から12月3日までの間で、11月30日に最も近い日曜日を最初の日とし、24日のクリスマスイブまでの四週間をそのように呼びます。ですから例年ですと、25日の直前の日曜日がアドベント第四主日となり、プロテスタント教会ではその日にクリスマス礼拝の日と行なっています。しかし今年は25日が日曜日ですので、四回のアドベントの礼拝を終えた後の25日がクリスマス礼拝となります。

 このクリスマスですが、聖書にはイエス・キリストの誕生日が12月25日だとする記述はありません。プロテスタント教会とローマカトリック教会ではこの日をクリスマスと位置づけておりますが、東方教会、ギリシャ正教会やロシア正教会では1月6日にクリスマスをお祝いします。12月25日にクリスマスを祝うようになったのは、記録によると4世紀からです。この日になったのはその頃ローマ帝国で行われていた異教の太陽の誕生の祭りに対抗してのことのようです。初代教会の時代にはイエスさまの誕生をとりたててはお祝いしていなかったのです。彼らの関心はそれ以上にイエスさまの復活、イースターでした。現代では教会だけでなく、世の中全般でクリスマスが定着しており、クリスマスがキリスト教最大のお祭りであるかのように思われていますが、キリスト教初期の教会ではクリスマスは祝われてはいなかったのです。クリスマスが何月何日なのか、これははっきりとは分かってはいないのです。

 こういったことからでしょうか、エホバの証人(ものみの塔)ではクリスマスをお祝いすることは問題だとしています。確かにクリスマスに関してはこれ以外にも、聖書に基づいていない事柄が多くあります。しかしだからと言って、イエス・キリスト救い主の誕生をお祝いしないとするのは短絡的というか、極端な発想です。暗黒のこの世に義の太陽として、救い主としてイエスさまがお生まれ下さったことには大きな意味があり、そこに神さまの私たちへの深い愛があるのですから、そのことを感謝してお祝いすることはとても重要なことであります。神さまのお喜びになることです。ただ、先にも述べましたように、聖書的根拠のないクリスマスに纏わる事柄があるのも事実です。そのことは次週話させていただきます。

 本日与えられました聖書テキストは詩編104編です。現在詩編を祈祷会で読んでおりますが、本当に教えられることが多くあります。私は今まで恥ずかしながら、詩編をきちんとした形では読んではおりませんでした。しかし今回読んでいくことで、新約聖書を理解する上においても詩編を読むことがいかに重要なことであるかを思わされています。

 この教会の礼拝でも毎週詩編を交読していますが、元々詩編は何らかのユダヤ教の儀式というか、礼拝の中で用いられていたものだろうと言われています。詩編は分からないことだらけです。何時」「誰」が書いたのかさえ分かっていません。現在私たちが持っている聖書には、今日の104編には記されはいませんが、表題の付けられた詩が多くあります。そこには「ダビデの詩」と書かれたものがありますが、これは後世の編集者が付けたものだろうと言われており、ダビデの作とは考えられないというのが定説となっています。これも余談ですが、中に文章の下に〔セラ〕と記されている詩があります。これも未だにその意味は解明されていません。詩編の謎の一つと言えるでしょう。しかし何か意味があって記されているのであり、これはれっきとした聖書本文です。ですから礼拝の交読の時には読むようにしていただければと思います。

 さて104編ですが、この詩は創造のみわざを通して、神さまをほめたたえたものです。とても叙情的で華麗な詩であり、「詩編中最も美しいものの一つである」とも言われています。

もう一度お読みいたします。(5〜30節)

壮大な自然をお造り下さった神の豊かさが読み取れます。そして私たちが「自然」と呼んでいるものの全てが神の創造の御業によるのであり、またそこに生きるもの全ては神の御手によってその命が支えられていることを述べています。

 今日はお読みしませんでしたが1〜4節には、天上空中の諸現象を神さまはご自分のものとして駆使されるお方であることが詠われています。そして5節からは地上にある地や水をもご支配され、そこに秩序を保たれていることが分かります。10節からでは野の獣や空の鳥、草木さえもが主によって生かされたその存在であることを語っています。現代の世界観においてはこれらはばらばらにして捉えられていますが、それがここでは世界は神がお造りになりご支配されるという視点から結び合わされています。水の流れ、鳥や獣の棲みか、地の構造に至るまで主が介入されているというのです。そして14節に人間を登場させることで、その人類の命それ自体がその生態系に組み合わされていることを述べます。世界の中心は我々人類にあるのではなく、その人類も神の与えられる地の糧によって生かされている、神の創造された世界に依存して生きている存在に過ぎないことが教えられます。このことは、19節からの主が時をも定められていることを述べる中でも、23節の人の生活のサイクルも神の摂理の中で営まれたものであることを述べています。

 25節からでは、詩人は神がお造りになった被造物はいかに夥しいか驚きの叫びをあげます。海さえもお造りになり、その中を動き回る生き物は数知れない、そして旧約聖書の中では海の中に住む怪獣とされているあの“レビヤタン”さえその御手の中で戯れているのだと。

 今日の宣教のタイトルは「神の息と霊」としました。これは30節の言葉から取らせていただきました。「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる」。ここにある「御自分(これは神さまのことですが)の息」の息は、 “ルアッハ”という言葉です。ここは口語訳では「あなたが霊を送られると」と訳されていました。新約聖書においても、霊と息、また風は一つの言葉です。イエスさまはヨハネ福音書の3章で「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と霊のことを風を例にして語られました。

 創世記2章7節には、神さまが人を造られた時「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」と、神の息(これが“ルアッハ”で霊でもありますが)を鼻に吹き入れて人を生きる者とされた、とあります。「あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる」はこのことを指しています。私たちは神さまの吹き入れて下さる息によって造られ、生かされています。世界は神の霊で満ち満ちているのです。神さまの送って下さる霊によって、被造物そして天地万物は日々新たにされ保たれているのです。人類はそのことを忘れるべきではないのです。

 実はこの詩編104編は伝統的にペンテコステ・聖霊降臨日において読まれてきた箇所です。それはこの30節の言葉によっています。私たちは神さまが送って下さる聖霊さまによって、導かれ、助けていただけることを先々週見ました。また、先週は、イエスさまが主の祈りを教えられた時に、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と、自分の子どもには悪い物でなく、良い物を必ず与えて下さるのだと教えられました。

聖霊は助け主です、弁護者です。そしてその聖霊を神さまは、ご自分の息として私たちに送って下さいます。その霊によって私たちは造られたのであり、またその霊によって新たにしていただけるのです。

最後に復活されたイエスさまが弟子たちにそのお姿を現された時の記事を見て終わりたいと思います。ヨハネによる福音書20章19節です。

ヨハネ20章19〜22節

お祈りをいたします。今日与えられたみ言葉を感謝して暫く黙想の時を持ちましょう。


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