「怒りの子から神の子へ」  


 エフェソの信徒への手紙2章1〜10節
 2005年12月4日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。アドベント第二礼拝、2本目のキャンドルが灯されました。クリスマスまでの残りの日々イエスさまをお迎えするために心静かに待ち望みたく思います。

先ほどの白川兄弟の証しにもありましたが、前回の映画会で上映した映画は、『素晴らしき哉、人生』でした。日本ではあまり知られてはいないようですが、これはアメリカではクリスマスの定番の映画、アメリカ人(カナダ人もかもしれませんが)なら知らぬ人はいないほど有名な映画です。来られた方は少なかったですが、とても良い映画でした。ジェームズ・スチュアート演じる一人の実業家が人生に絶望し自殺しようとするのですが、それを一人の天使が助ける物語です。この人はとても真面目に町のために尽くして生きてきたのですが、あることで大金(8000ドル)を失います。生きていく気力を失い、橋から飛び降りようとする時に、天使によって死ぬことを思い留まらせられます。この天使を通して、自分が生きていることには意味があることに気づかされて家に帰ってみると、奇跡が起こると言う物語です。それがクリスマスイブの日であったのです。この奇跡に関しては、ここではあえて申しません。興味のお有りの方は是非ビデオでご覧下さい。

また、先週私は1日の映画の日に「マザー・テレサ」を見てきました。とても良かったです。このマザー・テレサの役を演じることを熱望していたというオリビア・ハッセーも素晴らしかったです。印象深いシーンは幾つもあるのですが、私には二つのシーンが忘れられません。一つは、インドで学校の先生をしていたマザーがある時カルカッタの町に出て行き、その町の様子を見つめるシーンです。その当時はシスターが修道院の外に出て活動することは許されてはいませんでした。しかしマザーは自分の働き場は人々が苦悩している町中であることを確信します。その時のマザーの町の人々を見つめる目は忘れることが出来ません。ただそういった貧しい人に同情する眼差しではなく、そこに世の不条理とまた神の愛を伝えることの使命を帯びたような目で見つめるのです。もう一つは、かつての教え子に何十年ぶりかに会ったシーンですが、彼女はその教え子の名前を覚えていたのです。彼女は町の子どもたちを集めて、勉強をみてやったりするのですが、その中の一人の男の子のことを忘れてはいなかったのです。その大人になったその子どもの方はマザーのことを覚えていますが、さすがに名前までを彼女が覚えているとは思いもしなかったのです。彼女はとてもたくさんの人々の出会いますが、その一つひとつの出会いを心に刻みこませていた。一人ひとりの出会いを大切にしていったことを示された場面でした。

世界中の人々、それは私たちキリスト者だけでなく世界中の多くの人々に大きな影響を与えたこの一人のシスターの原点を示されたように感じました。それは映画の中でも実際にマザーが述べる言葉ですが、「自分は神の手にある鉛筆、ペンに過ぎない」という彼女の信仰です。確かにとても強い女性です。あのような働きは誰にでもなせるものではありません。ではあの強さはどこから来ているのか、私はマザーは自分がいかに弱く小さな存在であるかを強く自覚していたのだと思います。彼女の強さの根本はその自分の弱さ、小ささに対する自覚だったのではないでしょうか。「自分は神の手に握られた鉛筆に過ぎない」、神さまによってそしてイエスさまによって赦され生かされている者に過ぎないと強い自覚、その思いによって彼女は歩んだのであり、その結果あのような大きな働きを成し遂げたのではないかと思います。週報でもお知らせしておりますが、公開は今週金曜日までですので、まだご覧になっておられない方はお急ぎ下さい。

さきほどお読みいただいた聖書の言葉では「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もってしてくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」とあります。ではその「神が前もってしてくださった善い業、キリスト・イエスにおいて造られた」とはどういったことなのでしょうか。今日はそのことを共に見てまいりたいと思います。

最初に今日の宣教のタイトルは口語訳聖書の言葉からとりました。それは3節です。新共同訳では「生まれながら神の怒りを受けるべき者」とありますが、口語訳では「生まれながらの怒りの子であった」とされています。わたしたちは生まれながらの状態では、神の怒りを受けるべき子であるというのです。しかしそんな私たちを恵み子として下さることが起こったというのです。それがイエスさまの十字架と復活であり、それが「キリスト・イエスにおいて造られた」ということなのです。

著者の使徒パウロは、今日の箇所において私たちの「以前」と「今」の状態を鋭く対比させて、信仰に生きる者の喜びと光栄が、神の賜物として明らかにされています。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでい

たのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すな

わち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯し

て歩んでいました。」(1〜2節)

この手紙の読者はエフェソにある教会の信徒たちです。彼らはパウロたちユダヤ人からすると異邦人キリスト者たちです。彼らは罪の中にあってこの世を支配する者、空中に勢力をもつ者、すなわち不従順な者たちの内に今も働く霊に従っているのだといいます。ユダヤ人たちは空中をサタンの住まいとみなしていました。サタンは空中更に地上で、その勢力をふるい、神に反抗して人々を支配し、神に背かせているのです。

3節では主語がそれまでの「あなたがた」から「わたしたち」に変えられています。そのような歩みをしているのは何も異邦人たちのことだけであるのでなく、自分たちユダヤ人も同じである、神を知り、神に選ばれ、律法に従って生活をしていると思っているが、現実には神のみ心に従うのでなく、かえって肉や心の欲するままに行動していたのだ、と主張します。従って自分たちも「生まれながらの神の怒りを受けるべき子」であったというのです。私たち現代に生きる異邦人キリスト者も同じです。

キリスト者ではありませんが、あの宮沢賢治はその死の10日前に弟子たちに向かって次のように辞世の句を残したと言います。

「あなたがたは自己の持つ才能や財力などにたよって、蜃気楼のような人生を築いてはならない」と。ただ何となく生きていて、将来はなんとかなるであろうという願いは根拠の無いものにすぎない、また人間は歩めば歩むほど良くなっていくというものではなく、むしろ生きるということは失敗を重ねることであり、それは言い換えれば罪を増すことにほかならないのでしょう。

来週読む聖書の箇所ですが、ヨハネの8章には一人の姦淫の女が裁きの場に連れて来られたことが載っています。この女を連れて来たのは律法学者やファリサイ派の人たちで、彼らは彼女をどのように扱ったら良いかを尋ねることでイエスさまを試みようとしました。詳しくは来週見ていきますが、この時「あなたがたの中で罪をおかしたことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい」とイエスさまから逆に問い返され、年長者から始まって一人また一人と立ち去ったとあります。何故彼らは何もせずに立ち去ったのでしょうか。その場の者たちの思いはいろいろであったかもしれませんが、「罪を犯したことの無いもの」と問われることで、年長者の方が反論出来ない思いが起こったのではないでしょうか。人間は年毎に清められ、高められる人生を生きるのでなく、年と共に罪をましつつ生きざるを得ないのが現実なのではないでしょうか。

私たちは悲しいかな「怒りを受けるべき子」なのです。私たちが生きていくということは、罪を犯していくということです。私たちは恵みを受けることなど出来ないのです。何故なら生きるということは罪を重ねることであるからです。私たちはこれから生き続けていっても、良いことは何一つ出来ないのです。罪を犯し続けるだけだからです。神さまの赦しを得るにたる行いをすることは出来ません。私たちは私たちの力では神の赦しを得ること、恵みの子となることは出来ないのです。

4節からはパウロの論調が全く変わります。怒りを受けるべき子であるそんな私たちを神さまは愛して下さった。罪に死んでいた私たちをキリストと共に生かして下さった。そしてあろうことか、キリストと共に天の王座に着かせて下さったというのです。(4〜6節)これこそがキリストの十字架と復活の出来事であります。これは全く神さまの恵みだとパウロは述べます。人間を新しくし命ある者へとかえるのはただ神の憐れみと神の愛であり、それはただ一方的な恵みであります。

私たちは罪のゆえに死に定められた者です。死んだ者であります。しかしその死んだ者をその死から解き放ち、キリストと共に甦らせて下さったというのです。それは自らの行いや業によるのではない。イエス・キリストをそしてその十字架と復活を信じることで救われたのです。

教会に通い始めた頃の私はそのことがよく分かっていませんでした。自らの力や行いによるのではない。それは分かる、しかし信仰によるのだと言うのなら、その信仰は本人の信ずる力なのではないかとそのような考えにとらわれてしまったのです。そんな私を解放してくれたのは、パウル・ティリッヒというドイツの神学者の言葉でした。

「信仰とは受容の受容である」

すなわち心を神に向けて開き、神の恵みの賜物を感謝して受け入れること

信仰とは「私たちがありのままの姿ですでに受け入れられているということを自らが受け入れること」

私たちは怒りを受けるべき子どものままで受け入れられている、そのことを素直に信じること、受け入れればよいのです。なぜそんなことが可能なのか、そこにはイエス・キリストの十字架と復活があるからだ。この十字架と復活によって、私たちは怒りを受けるべき子から恵みの子へと替えられるのです。

お祈りをします。黙想の時を持ちましょう。

20006年説教ページに戻るトップページに戻る