「驚くべきは救いの順序」  


 ヨハネによる福音書7章53〜8章11節
 2005年12月11日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



お帰りなさい、アドベント2週目が終わり、3週目に入りました。子どもの頃はアドベントなどというものは知りませんでしたが、12月になってクリスマスが近づいてくるのは何だかワクワクしたものでした。ノンクリスチャンの家庭で育ちましたが、両親がクリスマスイヴの日には近所の洋菓子屋さんでショートケーキを買って来てくれて、ソノシートの“きよしこの夜”をかけて、家族でクリスマスをお祝いしたものでした。もちろんクリスマスの深い意味は分かってはいませんでしたが、何だか厳かな気分になったものでした。そして我が家にもサンタがやって来て、プレゼントを置いて行ってくれました。あの頃はクリスマスを本当に心待ちにしたものでした。

そして大学生の時から教会に通い始めましたから、私も教会で迎えるクリスマスは二十数回目となりました。大学2年生に教会で初めて迎えたクリスマスはとても印象に残っております。その時は子どもの時のようにクリスマスが待ち遠しかったものです。何だか年々その気持ちが失せていっているように思います。もう一度あの子どもの頃のまた教会に通い始めた頃の心に戻ってクリスマスを迎えたいと思います。

 

 本日の聖書の話はとても有名な話です。そしてとても印象深い話として愛されてきた箇所ではないでしょうか。今日の箇所を7章の最後からとしたのは、53節からがこの話の始まりだからです。ま、それは良いとして今日の話は一人の女、彼女は3節によると「姦通の現場で捕らえられた女」でしたが、この女の裁こうとする人々、律法学者たちとファリサイ派の人々とイエスさまのやりとりの場面です。

4節 彼らは言います。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。実際の真意はイエスに判断を委ねようとしているのでは全くなかったのです。彼らの真意は「イエスを試して訴える口実を得るため」でした。もしもイエスがモーセの律法どおりに死刑にすることを主張されたとしたら、ローマの法律を無視したローマへの反逆罪として訴えるつもりであったでしょう。というのは、この当時はユダヤの国はローマの属国であり、ユダヤ人には死刑を決定する権限は与えられていなかったからです。またそれだけでなく、日頃取税人や罪人たちを赦し食事を共にしてきたイエスが、ここで姦通の罪を犯したこの女を断罪したとしたらその首尾一貫していないことを触れ回るつもりでもあったと思われます。そしてもし「赦してやれ」とでも言おうものなら、モーセの律法を守らない者として訴えることでしょう。まあ、どちらにころんでも訴えてやろうという思いであったのです。これは全く悪意に満ちた意図でありました。彼らの中ではこの女の姦通の罪なんかはどうでもよかったのです。この女こそがイエスを罠にはめるための口実にすぎなかったのです。

 そのような八方塞りとでも思える事態の中でイエスさまはどうされたのでしょうか。正に板挟み状態です。イエスさまは、かがみ込んで指で地面に何かを書き始められました。一体何を書かれていたのか興味がそそられます。しかしここで大事なことは、何を書いておられたかと言うことではなく、彼らの質問にお応えにならなかったということです。

 ところがイエスさまを陥れようとした者たちにしてみれば、何も答えようとしないのは、答えに窮しているのだと思いました。それで「こんなことが答えられないのか」と言わんばかりにしつこく問い続けます。そこでやっとイエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい」とおっしゃいました。そしてまた身をかがめて地面に何かを書き続けられました。イエスさまは答えに窮しておられたのでもまた答えることを避けられたのでもありませんでした。彼らの質問にそのまま答えることは、ただ彼らの思うつぼにはなりことをご存知であったのであり、悪意に満ちた質問に答える必要を感じられなかったからでしょう。

 イエスさまは律法をないがしろにはされませんでした。罪を罪としてさばくことを放棄はされませんでした。ただしそこに一つの条件をつけられたのです。「罪を犯したことの無い者が」という。自らが罪を持っているものに人を裁く資格はありません。この言葉はとても権威に満ちたものでした。年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまいました。彼ら律法学者やファリサイ派の者たちもそれなりの良心をもっておりました。特に年長者は長年生きてきたことで自分の中に罪があることを自覚していたのではないか。そしてイエスさまからこのように切り返されたことで逆に自分たちの方が窮地陥りその場を退散するしかたなかったのです。

 そしてついにその場に残ったのはイエスさまとこの女だけになりました。そして身を起して「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われました。女が「主よ、だれも」と答えると、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」と言われました。ここにいた人たちの中で人を裁く権限をお持ちの方は、言い換えれば罪の無い人はイエスさまだけでした。その権限をお持ちのお方が「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃったのです。何故イエスさまはこの女を裁かれなかったのでしょうか。彼女の罪を御自分が背負い、彼女が受けなければならない刑罰を御自分が引き受けられることによって、彼女の存在そのものを赦して下さるためです。これがイエスさまの私たちに対する態度、私たちに与えて下さる恵みなのです。

 今日はこのところから、最後に二つのことに注目してみたいと思います。一つはこの女がこの場に残ったということです。「罪を犯したことの無いものが石を投げなさい」とイエスさまから言われたことで、人々は立ち去った時、この女も一緒に立ち去ることも出来たのではないでしょうか。律法学者たちはそのようにイエスさまに言われることで自分の罪を示され、その罪と向き合わされました。そしてそのことに耐え切れず自分の罪から逃げ出したのです。もし彼らがここに残っていたならば、彼らもこの女が受けたようにイエスさまからの罪の赦しを宣言を得ることが出来たのです。彼らは大きなチャンスを逃してしまったのです。

 一方この女はひっ捕らえられた時から、自分の犯した罪と向き合わされていました。そして本当のさばき主の前に出ても、事態は変わらなかったのです。ただ彼女は自分の罪から逃げ出すことをしなかったのです。彼女はイエスさまからの赦しの宣言を得ることを予想して残ったのではありませんでした。自分の犯した罪をきちんと清算しようとしてその場に残ったのです。

 注目すべき二つ目は、イエス様のその「赦し、救いの宣言」です。そして驚くべきはその順序です。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

ここでイエスさまは「もう罪を犯してはならない、そうするならばわたしもあなたを罪に定めない」とはおっしゃっていないのです。まず最初に「私もあなたを罪には定めない」と無条件の赦しの宣言をしておられるのです。この女には罪がありました。それは律法によると石打ちの刑に処せられるものでした。しかしその罪を犯す権限をお持ちのイエスさまは「同じ過ちをくりかえさないと誓うならば赦そう」とおっしゃったのではなく、無条件の赦しの宣告を優先させておられるのです。

イエスさまは罪を裁こうとするものには「罪のないものが石を投げなさい」と条件を付けられました。しかし赦しの宣言をなさる時にはそこに何の条件も付けられることはなかったのです。

この世の論理、そしてこの世の刑罰に従うとこうはいきません。何らかの罪を犯した者は罰金や実刑の判決を受け、最終的に赦されるときには二度と同じ罪を繰り返さないと約束して初めて釈放となります。しかしイエスさまは無条件に罪を赦しを与えてから釈放して下さるのです。何故そんなことが出来るのか、その赦しを与える罪を全部自らが担って下さったからです。それが十字架の出来事です。

クリスマスまで後、2週間です。今年もイエスさまは世の人々の罪を全部担うために十字架にかかられるためにお生まれ下さいました。そのイエスさまの赦しを受ける者として感謝もってクリスマスを迎えたいものであります。

お祈りします。黙想の時を持ちましょう。


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