英語礼拝

 癒しの十字架  パ ート 2                    

4月3日
 
ロー・マ8:11
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っ ているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょ う。

詩篇 109:1−9
わたしのほめたたえる神よ、もださないでください。 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、偽りの舌をもってわたしに語り、恨みの言葉をもってわたしを囲み、ゆえなくわたしを攻めるのです。彼 らはわが愛にむくいて、わたしを非難します。しかしわたしは彼らのために祈ります。彼らは悪をもってわが善に報い、恨みをもってわが愛に報いるのです。 彼の上に悪しき人を立て、訴える者に彼を訴えさせてください。彼がさばかれるとき、彼を罪ある者とし、その祈を罪に変えてください。 その日を少なくし、その財産をほかの人にとらせ、その子らをみなしごにし、その妻をやもめにしてください。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた 傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に おかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のよう に、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるも のの地から断たれたのだと。 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨 であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手に よって栄える。


 神の力は、私たちの中で働き、癒しを与え、神の求める姿を作る。神の計画の中で、十字架は信ずるものに許しを与え、愛を受けるものとされる。クリスチャ ンの多くは、聖書の「エデンの園」「罪への誘惑」「十字架の購い」の話は知っている。しかし、イエスが復活し、今も生きて、人を通して奇跡を行っていると いうことを信じない人が多い。救い、罪の許しを信じる人も、今聖霊が働いているということを信じることができない。
 もし、神の愛が、現在目に見える形で働いていることを信じないならば、十字架の力を信じないのと同じではないか。というのは、十字架上で起こったこと は、今おこっていることに比べようもないほどの奇跡であり、その十字架を信じることができるのなら、現在の聖霊の働きを信じることができるはずである。

 マタイ2:1−12
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見 よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見た ので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長たちと民の律法学 者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしてい ます、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者 となるであろう』」。 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく 調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に 進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に 会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。


 あなたは、罪が赦されたというのと、起き上がって行きなさいというのとどちらがたやすいと思うか。イエスがどんな方かを表している箇所である。十字架以 前のイエスの奇跡を見ると、彼が多くの人を癒している。しかし、イエスの行為に周りの人々、パリサイ人たちは文句を言っている。イエスは掟をやぶり、宗教 に反する行為をしていた。イエスは手をのばし触ると、人は力を失い弱くなったように見えたが、それが癒しであった。奇跡が起こっているのを目にしたにもか かわらず、聴衆は力が抜け弱くなった人を見て、恐れを抱いた。イエスが自分たちの考えていること全てを知っているということを知ることも、恐ろしいことで あった。

 マタイ9:2

すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。

 信仰が先に来る。癒しは人間の側で起こる。イエスが救い主であるということを信じると、罪の許しが与えられ、癒しがおこる.

すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた

 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言わ れた。

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救っ たのです。安心して行きなさい」

 許しは癒しより難しい。より大きな奇跡であると言える。癒しは常におこっているが、十字架以前から、救い主の血による許しが起こっている。
 世界の教会では、救いは語られるが、癒しや予言、奇跡といった考えを持ち込むことに抵抗があるのも事実である。今、聖霊の力を語らず、神がこのような奇 跡をなさることを教会が信じなければ、何を信じるのか。

 マルコ1:40,41

ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言っ た、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。


 もし、あなたが神に近づくなら、神は喜んで罪を赦してくださるであろう。と語られている。教会もクリスチャンも、神の贈り物をいただいているのに、どう して箱の中にしまつているのか。信じ、近づかなければ神の愛、許しを実感できない。

 ノレカ8:41〜

するとそこに、ヤイロという名の人がきた。この人は会堂司であった。イ エスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと、しきりに願った。彼に十二歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた。ところが、 イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた。ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれに もなおしてもらえなかった女がいた。この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。イエスは言われた、 「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答え た。 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、み まえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があ なたを救ったのです。安心して行きなさい」。イエスがまだ話しておられるうちに、会堂司の家から人がきて、「お嬢さんはなくなられました。この上、先生を 煩わすには及びません」と言った。しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。それか ら家にはいられるとき、ペテロ、ヨハネ、ヤコブおよびその子の父母のほかは、だれも一緒にはいって来ることをお許しにならなかった。人々はみな、娘のため に泣き悲しんでいた。イエスは言われた、「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである」。人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ 笑った。 イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、「娘よ、起きなさい」。するとその霊がもどってきて、娘は即座に立ち上がった。イエスは何か食べ物を与える ように、さしずをされた。両親は驚いてしまった。イエスはこの出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。


 父親は娘の命を救うため、イエスに近づき−、信じ、主とあがめた。神の力は、キリストの名による力、聖塞の力は今も続いている。神は、世界を作られた創 造主である。地を作り、指で川を作り、海の水にこぼれないように命じた。イエスは水の上を歩き、水をワインに変えた。少しのパンと魚で、5,000人を満 たした。盲目の人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにし、ラザロを死から救った。救いを信じるのなら、より小さい事々も信じることができるは ずである。