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Holy Spirit 聖霊
All for one and One for all
(皆は一人の為に、一人は皆の為に)
聖書 マルコ1:1-15
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるよ うにして下さる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を 知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネによる福音書14:16-17)
聖霊について、
霊の導きに従って歩みなさい。 そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:16)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信 じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。(エフェソ1:13)
み言葉から神を学ぶことは大切 だ。主が言われることを信じよう。多数の聖書からの引用文は信じる人全てが救いの瞬間に聖霊が内在していることを教えている。神は人が必死に求めるものを 既に与えて下さっているのにもかかわらず、人は何かを求めてもがき苦しむ。エフェソ1:13は私達がキリストを信じた瞬間、主が聖霊を私たちの内に送って下さり
彼自身の証印を押されます。あな たは主を信じた時に聖霊を感じたことがありますか?聖霊を受けた時が神を信じた時です。主は良きカウンセラーですが、人の実際は聖霊に満たされていない事 が多い。牧師、教会、クリスチャンは聖霊が無くては成長しません。聖霊に満たされた時力で包まれ聖霊の実を結びます。
後に、パウロはキリスト者は盗 みや、嘘や怒り等の不健全なことを避けなさいと諭している。クリスチャンは罪を犯しても尚、聖霊は人から離れない。むしろパウロは「神の聖霊を悲しませる な」と言っている。聖霊は私達
から離れないが、罪を犯す時に嘆 いている。罪ではなく、聖霊に注目しなければならない。
パウロはまたコリントの人に向 けて道徳心について述べている。コリントは宗教という名を借りた不道徳な罪を犯した娼婦がいることを誇っていた町だった。パウロはかれらに娼婦とこれ以上 かかわらないよう警告している。その理由について「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のも のではないのです」と述べている(19節) またローマ人には8:9で「キリストの霊を持たないものは、キリストに属していません」と述べています。明らか に、聖霊を持たないものはクリスチャンとは言えないのです。だから当然クリスチャンなら誰しも聖霊に満たされているのです。
空のコップには何が入っています か? 空気ですね。その空気を抜くにはどうすればよいでしょうか?その空気を私達の罪だとしましょう。私達の心は罪でいっぱいです。空にすることは容易で はありません。ではどうすれば? 聖霊と言う名の『水』を入れます。聖霊を注ぐと罪の心は聖霊で満たされる。それが主を 信じると言うことです。
あなたは何も感じないかもしれ
ないけれど、その事実は変わらない。あなたがキリストを信じたならば聖霊に満たされ、神の言葉を信じ、その真実の中で心は休まります。