英語礼拝  717

  Holy Spirit 聖霊

     The Personality of the Holy Spirit 聖霊の人格

 

 

ヨハネによる福音書15:1−8

わたし はまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこ れをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に きよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけで は実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。も し人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つでき ないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのであ る。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるで あろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

 
Galatians 5:2225 I (ガラテヤ人への手紙5 : 2 2-2 5)

 But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and Self-control. Against Such things there is no law Those who belong to Christ Jesus have crucified the sinful naturewith its passions and desires。 Since we live by the Spirit, let us keep in step with the Spirit.

 
 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、善意、忠実、柔和、巨利であっ て、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉.,その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きる のなら、また御霊によって進もうではないか。

 聖霊とは何か。先の礼拝より,聖霊についてのシリーズを始め、キリストの命にいたる新しい道を歩み始めたと信じてい る。多くの人にとっては、聖霊を語ることは、異言や預言、癒しなどを想像させるであろう、しかしこれらは聖需の第一の実ではなく、第二の実にすぎない.第一の実とは何か.きょうの聖書の箇所ガラテヤ人5 : 22-25に示してあ る。

イエスにつながる人生を歩むな ら、わたしたちは聖霊にもつながっているはずである。しかし聖霊にことについてあまり多くのことを知らないのではないか。聖霊の人格を今日は紹介しよう。 聖霊を人格をもったものとして知ろうとすることから始めよう。実ばかり注日しているが、おいしい実はおいしい木になるのだ。 水は実にかけるのではなく、 木の根にかける。そうすると栄養が木を通り、実がなるのだ。イエスはぶどうの木、しかし聖霊はいのちの水である。

聖霊なる人格、わたしたちが崇拝する対象、信仰、愛なる方である。また、里塞は、わたしたち の野さと無知の中で神髄的ですばらしい方となり、完全に聖なるもの、賢<、力強く、やさしい方であり、わたしたちを捉え用いられる。もしわたしたちが聖霊を、多 くの人が考えるように、ただのカや権威と考えるならば、このように考えるのではないだろうか。「どうやったらもっと聖霊を得られるだろう。」 しかしもし 聖書の言うように神なるひとと考えるならこう考えるのではないか。 「どうやったら聖霊がわたしをもっと捉えるであろう。」

 これがわたしたちがすべきことである.自分を、教会を、家庭を聖霊に 捧げること。わたしたちは自分で生活をコントロールしようとして聖霊に反しもがいている。しかし神はわたしたちの行ったことのないところへ導こうとされて いる。そうするには、自.分勝手な運

転をあきらめなければならない。2人の人が同時に車を運転すると どうせるか、動きはしな

い。無理やり動かそうとすると、 事故たなる。

 聖霊を神の力、椿威とする考文字は、自己賞賛や月己満足へとつながる。聖霊をこのように 考え、同時に受けていると忠う人は精神的にプライドが高く優泰なクリスチャンかなにかのように自慢したがるものだ。そしてそのような人を、聖霊に満たされ た人とよぶことがある。

 しかし、聖霊は完全なる威厳、栄光、神聖なる方、力であり、そしてわたしたちの内に住

まわれ、用いられようとされる方 である。

聖霊を人として知るという経験。 何千何万という人間が聖霊を知って、人生に祝福が訪れたことを証しする。彼らは聖霊を恩恵あふれる力として知るだけでなく、本物のイエス・キリスト 永遠 に存在される方、愛する友、力ある助け人−と同じように本物の人格をもったものとして知る。それはいつも彼らの側におられる方というだけでなく、毎日いつ でも心の中に住まわれ、人生の非常時に責任を負ってくださる方であるということを。これらの証は多くの人から聞くことができる。

 聖霊は人であると聖書の中には少なくとも4つのはっきりした証拠があげら れている。知識、感覚、感情、意志である。考え、感じる実在するものはなんでも人格を持つ。                                          

1コリ2:1015

そし て、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが 知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊で ある。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言 葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。 生れながらの人は、神の御霊の賜物を 受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人 は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。

 知識は聖霊から出る。意志も聖霊から出る。心も聖霊から出る。

ローマ827

そし て、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる からであるギリシャ語で「心」は広い意味を持ち、思考や感情、 目的という考えも含む。

ローマ1530

兄弟た ちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほし い。

 愛も聖霊から出るものである。 聖霊の愛ということばーイエス・キリストの愛に深く思い 巡らすことはあるが、璧釜の愛に黙想することがあるだろうか。日々の生活で、クリスチヤンとして生きるなら、父なる神の臨在にひざまづき、神を見上げ、 「感謝します。父なる神よ。あなたの一人子をわたしのためにカルバリで十字架のうえでしにわたされました。その愛に感謝します。」と祈る。日々、わたした ちの救い主、主イエス・キリストに、「恵み深き主なる救い主、神の子イエスよ、あなたは神と等しいものであることをよしとせず、自分をむなしくし、御宙の 栄光を捨て、地上に下り、恥と罪をその身に負ってカルバリの十字架で死なれました。その愛に感謝します。」と祈る。

 しかし、聖霊に対して、「ああ永遠で完全なる神の霊よ、罪に満ちた暗い世にこられ、わた しを探し、救いを必鼻とするわたしの罪を見せ、救い主イエス・キリストを示してくださった感謝します。」と祈るだろうかもし、わたしの罪を見て、カルバリ の十字架での一人子の死にわたしへの完全なる贖いを与えてくれる父なる神の愛がなげれば、わたしたちは地獄に落ちてしまう。聖霊の愛はわたしの目をひら き、罪を見せてくれるものであり、聖霊の忍耐強い、疲れない、完全でやさしい聖霊の愛がなけれぼ、わたしたちは地獄に落ちてしまう。

 聖霊はただの権威や力ではなく、父なる神、子なるイエス・キリストが本物であると同じ

くひとである。聖霊はぶどう一の 木を流れる活力であり、聖霊がなければわたしたちは実をむすばず、祈りも儲ふれない。そして切り落ときれるのみである。