8月7日 英語礼拝

Temple of the Holy Spirit


聖書 マタイ27:51-54 ヘブライ7ケ21-28
霊の導きによって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありま
せん。(ガラテアの信徒への手紙5:16)
魂が乾いていると、精神も乾き、そして主を求める。水のない生活をわたしたちは想像できない
のと同様に、神様の存在しない世界を想像することはできない。「わたしの魂は夜あなたを探し、
わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。」イザヤ書26:9 神無しで神とつながることはできない。
モーセはユダヤ人が聖堂とした神殿について、シンボルである神殿は魂のシンボルとなるべき神
聖な場所で、聖なる中の聖、つまり、精神の象徴となるべきである。神にひざまずき、尋ね、求
め、ノックせよ。どこにいても神様はそばに来て一緒にいて歩いてくださる。
 澗れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める(詩篇42)
 神の神殿について。ソロモンの神殿では、内と外が15cm ほどの厚さのカーテンで区切られて
いた。その神殿は体(生)、魂(心)と精神との3つに分けることができる。天の父は心の創造者。
キリストは生きたもの、精神は生きてゆく中で神と共存することの明示となる。
 クリスチャンとなった時にあなたは神に対する罪の意識を感じたか?罪悪感から神に近づき、
愛そうとしたか。今、あなたは神に対して罪の意識をどれくらいもっているか。わたしたちは神
の存在を信じ、彼の供え物として愛する御子イエスの購いを覚える。そうすると精霊を通して新
しい命が与えられる。なぜそれが大切なのか。神殿について考えてみると位の高い聖職者のみが
1年に一度だけ聖なる神殿の中へと入ることができた。聖職者は鈴を体にぶら下げ、ロープを腰
に巻いて自分の存在がわかるようにして入った。それほど、聖なる神殿に入ることはその当時危
険なこととされていたのだ。また、外では動物が購いのささげ物と焼かれていた。
 「罪を購うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外
で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なるものとするために、門の
外で若井に遭われたのです。」
 イエスが最後の時を迎えた場面に移ろう。マタイ27:45−54その中で多くの奇併的なことがお
ったが、特に51-2節に着目する「その時、神殿の垂れ幕が上から下までまっ二つに裂け、地震が
起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。神殿
にあるような15cm の厚さ程のカーテンがまっ二つに裂けること。つまり、そのカーテンは精霊
を示し、それが裂かれて神の真の存在を人々に知らしめたのだ。それは位の高い聖職者のみがあ
づかる恵みではなく、全ての人々に向けて神の愛を示したとなる。それによってわたしたちはい
つでも神様を求めることができる。神の存在を感じることができる。全てのクリスチャンは、頭
だけで考えるクリスチャンとなってはいけない。牧師だけが特別な存在ではなく、信徒一人ひと
りが神と向き合い、神の伝道者、証し人、証言者となるのである。
 「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者
であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(ヘブライ人へあ手紙3:1)
 イエスは大祭司となるが、それよりも意味深い事は彼自身が血を流され、神へのささげ者とな
つたことである。(ヘブライ人への手紙10:10−17)そのことを覚えましょう