821日 英語礼拝報告

      The Word 言葉

Word LivingSpirit Living(言葉に生き、聖霊に生きる)

              聖書 ルカ171326

雲の導きによって歩 みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテアの信徒への手紙516

預言は、決して人間 の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙2121

わたしは神の口から 放たれる言葉で生きている。どのように生きるか、それは王国を生きること。主を讃美しよう。

「わたしは福音を恥 としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ116

神の言葉は、信じる 者全てにとって神の力となる。では神の力とは?それは物事への可能性だ。言葉がなす可能性を信じること。

言葉は神の力とな る。

「御子は、神の栄光 の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えられておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所にあられる 大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブライ13)

彼は神の輝きや光や 栄光を表す唯一のもので、神の自然なるイメージ、支持し支え続けるもの、また力のある御言葉によって世界が導かれて推進する完全なる印である。力ある言葉 を聴いたとことがありますか?神の大国へ繋がるみ言葉は阜の他の言葉と比べるとなんと無意味なものかとかんじたことがありますか?それは万物を推し進める が、しかし人はその言華を神よりも高く持ち上げようとする。神よりも他の世界を優先している。

 もし、自分の言葉 の世界のみを信じるならあなたは自己の言葉にのみ影響を受ける。

「わたしは福音を恥 としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ116

 御言葉の救い。わ たし達は、イエスが蘇った救いが今の世に生きるわたしたちにもたらされた救いだということ理解する。わたし達の多くは十字架の前で止まる。しかし、イエス は蘇り新約の時代において言葉を通して聖霊によって生きている。神の救いのすばらしさに着目するとき神の大国と聖霊の働きを感じるのである。全て神のよっ て作られたものは言葉と聖霊を通してできる。救い、安全、軍の妨害からの救い、倫理観、救世主による解放、本当のクリスマスのプレゼントが示す救い、地球 上の病を癒しキリストが天から下り、永遠の御国に入る喜び。救い、癒し、神のお守り、それは神が出エジプト記においてユダヤ人を守ってくれたことと同じで ある。私達は、聖書は神によってより聖霊を通して具体的に啓示を受けたものであることを信じる。

 だから私達は救い の中、キリストの中、そしてみ言葉の中、−王国に生きている。

「イエスはお答えに なった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一ろの言葉で生きる。』と書いてある。」(マタイ44

 神が捜しているも のiま 人々が神の言葉の中で生きているということ。しかし教会の中での多くの人々は神の御言葉のみで動いているわけではなく、自分自身の患いと混ざっているの で、世界のシステムに従い、神の国に従っているというのでない。どのくらいの人が神のシステム以上に言葉のシステムの上に世界を置いているか?神はいつも あなたにより勝っている。いつでも捜し、求め、ノックするのを待っている。み言葉はまた聖霊の創造と臨在からくるのである。今までに聖霊とその臨在につい て話してきたが、イエスは私達一人ひとりが聖霊によってバプテスマを受け、主を信じたことでより素晴らしい奇跡を感じた。400年前の宗教改革で言葉は人 々のもとヘ返されたので真の信仰や人生がみ言葉の中に生きている。私は、今がかつてない程の時代を迎えていると思う。もし本当に真の神の国に生きるのなら ば、神の口からうまれた御言葉のなかで生きるべきだ。出エジプト記で神の民となるために自由にさせて下さったように聖霊に導かれてパブテスマを受ける。

 神の王国に住み続 けるためには何が必要か?

 神の王国を見る。 神の約束を信じ、御言葉を信じる。信仰はゆらいではならない。一時のきまぐれや一面、趣味等であつてはならない。選択の自由ではなく、人生そのものなの だ。

 「イエスはお答え になった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある。」(マタイ44

 人はそのように生 きているか?人が神の言葉によって生きたなら、神の言葉は神の国について語られる言葉である。それは人生の基礎となる。家族や医者や政治家やメディア、い ろいろな人々が放る言葉があるが、生きる糧となるのは神の言葉だけである。しかし、もし人が神の言葉と世の言葉を自分の事情により使い分けて都合よく選び 取るならば、何も得るものはないでしょう。

 聖書は神の言葉が 全て語られている。モーゼのように神の口から出る言葉に聞き従い歩む人生に意味がある。