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英語礼拝 9月4日
Exodus 出エジプト
From Humility to The Promised Land 謙虚さから約束の地へ
彼に神の霊を満た し、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、(出エジプト31:3)
(マタイ6:33)
昨年、ブームに なった韓国ドラマ「冬のソナタ」。わたしは、サン・ヨクに魅かれると同時に嫌悪感を覚えたものだ。それは、サン・ヨクにかつての自分の姿を重ねて見たから だった。自分のものではないものを追い求め、傷つき、痛みを抱えているその姿こそかつての自分であった。そして、旧約聖書の人物にも、神から離れていた自 分、神に近づいていた自分、信頼し寄り頼んでいる自分、自分自身を頼りにしている自分を見る。
モーセは、イスラ エルの問題を終結させたのか。いやまだ多くの問題があった。私たちも、救われているが、問題はある。彼らと同じような問題がある。神は未来への約束をして いる。新約聖書では、神の約束の地へと導くとされている。天国ではなく、神の御国である。
出エジプト31:3、マタイ6:33
求めれば、すべて のものは与えられる、とある。何を神から求め、見出そうとしているのか。クリスチャンだが、神が与えてくださるものをすべて喜んでいるとは限らない。到底 受け入れられないと思うことがある。ひとは、自信と誇り、謙遜と弱さを混乱していないだろうか。自分の人生を正しく豊かにしたいなら、まず求めること。神 の国と神の義を第一とする姿勢が必要だ。
神を父とするこ と。自分を謙虚にする段階で、まず大切なのは、神を真の父とする思いを持つことである。わたしには2人の息子がいるが、わたしは少し退いて、彼らにこう言おう。「わたしはお前たちの真の父 ではない。天の父なる神様こそが、お前たちの真の父である」と。このことは、とても痛みをともなうものである。しかし、それが「何よりもまず、神の国と神 の義を求める」ということである。
申命記8章
炎の蛇とさそりの
いる、水のない
帯篇23篇
「たとえ死の陰の谷
を歩むとも」は、英語ではガin the valley
of...”ではなく、”through the valley of..."と麦妥されている。through《通して》一必ず終わりがあるということ。しかし、神はその途上では、私たちを低く謙虚
にさせられ、なぐさめられる。わたしたちは、神の上に自分を置いたり、偶像を拝んだり、わたしたち自身が偶像になってしまったりしてしまう。私たちは、神
がわたしたちと共にいて支えてくださることを忘れがちである。
わたしたちは、約
束の地を求めるだけではなく、約束を守られる神に目をとめるべきである。天国だけ
を求めても得られな
い。神を求めるなら、すべてのものを与えられる。
蔵言16:19、29:23、11:2
謙虚さとは、自分 の属するものに自分を低くすること、自分の力や権威、独立心をとりさり、他のものに捧げること。神に従順であるなら、神を見上げるために一歩下がることで ある。神の力のもとに帰ること。神が、神の約束をこの世で果たすために、神はあなたを信頼し、必要としそいる。奇跡ま、人を通しておこる。わたしたちが、 選び取らなければ神のわざの奇跡はおこらない。神がわたしたちに何かをさせようとする前に、自分自身を低くして、わたしの力ややり方は誤っていると認めな ければならない。神のやり方を行うとき、物事は成功へと導かれるものだ。約束はかなえられる。
列王記上3章
ソロモンは王とし
て教育を受けた大人であったが、自分の知識の限界を知っていた。10−15節「あなたは自分のために求めなかったから・・・」神を求めるなら、すべてを与えられ
る。すべてを求めるなら、何も与えられない。これが神の方法だ。
マタイ18:3,4
「キリストは、自
らを低くするものを高くあげられる」クリスチャンになったとき、だれもが謙虚さを持っていたはず。しかし、時がたつにつれ、自分を低くすることを忘れ、神
を求めることなく、自分のやり方を通そうとする。神の権威を拒んでしまう。子が親に反抗し、自分にやり方を通そうとするとき、親はそれに応えて、教え導か
なければならない。ただ子のしたいようにさせてはならない。子は過ちを犯し、自分中心の立場をとるが、親も自己中心の立場をとり、親と子が互いに拒みあっ
ている。このような時、神に立ち返らなければならない.神の恵みに立ち返らなければならない。どこに行けばいいのか、示してください、と祈れば、神は真実
な方であるから、あなたを正しい道に導かれる。
神はすべてを治め られる。自分のやり方を捨てて、神に従おう。そうすれば祝福が与えられる。新約聖書の約束は、旧約聖書の謙虚さのうえにある。わたしたち人間は、誇りやす いもの、罪をおかし神から離れてしまう.
出エジプトは、わた したち一人一人に起こるもの。神はわたしたちを導き出してくださる。「探せ、そうすれば見出すであろう。たたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。」乾 いた、広くて恐ろしい荒野−だれも人生をこのように感じることがある。この世は、恐ろしい。主に購われた者であっても、罪深い側面を持っている。楽な方へ 行きたくなる。人はノアの世からまったく変わっていない。しかし、神は遠い砂漠の地からあなたがたを導き出してくださった。あなたが何をしたのでもない。 ただ、神が「苦しめ試し、従わせた」のである。ひとは謙虚
に従った。 ひとは 自分以外のだれからも謙虚にさせられることはない。自分自身が選んで低くなるのである。私たちが選んで謙虚さを得るなら、わたしたちは自信を得、力を得、 神の約束を得るのだ。
蔵言15:33
謙虚さを得るな ら、栄誉もすべて与えられている。キリストは、罪にとらわれていた私たちに与えられ
た。
帯篇23篇
「たとえ死の陰の谷
を歩むとも」は、英語ではガin the valley
of...”ではなく、”through the valley of..."と麦妥されている。through《通して》一必ず終わりがあるということ。しかし、神はその途上では、私たちを低く謙虚
にさせられ、なぐさめられる。わたしたちは、神の上に自分を置いたり、偶像を拝んだり、わたしたち自身が偶像になってしまったりしてしまう。私たちは、神
がわたしたちと共にいて支えてくださることを忘れがちである。
わたしたちは、約
束の地を求めるだけではなく、約束を守られる神に目をとめるべきである。天国だけを求めても得られない。神を求めるなら、すべてのものを与えられる。
蔵言16:19、29:23、11:2
謙虚さとは、自分 の属するものに自分を低くすること、自分の力や権威、独立心をとりさり、他のものに捧げること。神に従順であるなら、神を見上げるために一歩下がることで ある。神の力のもとに帰ること。神が、神の約束をこの世で果たすために、神はあなたを信頼し、必要としそいる。奇跡ま、人を通しておこる。わたしたちが、 選び取らなければ神のわざの奇跡はおこらない。神がわたしたちに何かをさせようとする前に、自分自身を低くして、わたしの力ややり方は誤っていると認めな ければならない。神のやり方を行うとき、物事は成功へと導かれるものだ。約束はかなえられる。
列王記上3章
ソロモンは王とし
て教育を受けた大人であったが、自分の知識の限界を知っていた。10−15節「あなたは自分のために求めなかったから・・・」神を求めるなら、すべてを与えられ
る。すべてを求めるなら、何も与えられない。これが神の方法だ。
マタイ18:3,4
「キリストは、自
らを低くするものを高くあげられる」クリスチャンになったとき、だれもが謙虚さを持っていたはず。しかし、時がたつにつれ、自分を低くすることを忘れ、神
を求めることなく、自分のやり方を通そうとする。神の権威を拒んでしまう。子が親に反抗し、自分にやり方を通そうとするとき、親はそれに応えて、教え導か
なければならない。ただ子のしたいようにさせてはならない。子は過ちを犯し、自分中心の立場をとるが、親も自己中心の立場をとり、親と子が互いに拒みあっ
ている。このような時、神に立ち返らなければならない.神の恵みに立ち返らなければならない。どこに行けばいいのか、示してください、と祈れば、神は真実
な方であるから、あなたを正しい道に導かれる。
神はすべてを治め られる。自分のやり方を捨てて、神に従おう。そうすれば祝福が与えられる。新約聖書の約束は、旧約聖書の謙虚さのうえにある。わたしたち人間は、誇りやす いもの、罪をおかし神から離れてしまう.
出エジプトは、わた したち一人一人に起こるもの。神はわたしたちを導き出してくださる。「探せ、そうすれば見出すであろう。たたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。」