英語礼拝  9・月18日

  Love vs Antilove
  愛 対 アンチ愛




「神は愛」なのか、「愛は神」なのか。      
 聖書は「神は愛」と述べている。しかし、「愛は神」だと人々は信じ、焦点を間違えているため、神に近づくことができないでいる。わたしたちは、命の創り 主であり、愛の源である神に焦点をおかなければならない。 現在、多くの人が神より先に愛を置き、隣人を愛し、それから神を愛すると言う。が、それでは、 馬の前に馬車置くようなものだ。 このことをより分かりやすくするために、1戒を見てみよう。
“あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。”
 神はすべての基であり、愛である。ぶどうの木につながるように、わたしたちが神につながっているなら、神の完全な愛がわたしたちにも流れ込んでくる。こ れが他のすべての戒めのうち最も大切なものである。
“あなたはいかなる像も造ってはならない。
 生きている方の前になぜ死んだものをもってくるのか。日本は、偶像の国。人々は、流行に流され、有名な人の兵似をしたりする。人々は、力や金、自分自身 を偶像化して拝んでいる。しかし、わたしたちが頼るべき方は、神のみである。
 十戒の中で神が言っていることは、イエスが言っていることと何も違わない。彼の伝道においても同じことをなされたことを見ることができる。今の牡の中 は、本当の完全なる
愛がどのようなものかをまた忘れてしまっている。 ここで言う「愛」は、自由な愛とか、気ままな愛とか、譲歩の愛、また自己愛というものではなく、神の愛 である。“愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自侭せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜 ばず、兵実を喜ぶGすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。”
                        (コリント1 13:4〜8)
 愛 対・アンチ愛
 何が愛で、何が愛でないのかを考えよう。「心をつくし、魂をつくし、あなたの碑である主を愛せよ」というのは第1の戒めである。第2の戒めは、「あなた の隣り人を愛せよ」である。すべての法律も預言もこの2つの戒めによる。
 イエスはわたしたちに、天の父が完全であられるようにあなたも完全なものとなりなさい、と言われた。2つの戒めをただの理想であるとするか。どれだけの 人が神のことばを行おうと努力しているか。どれだけの人が、完全に神に変えられることを望むのか。しかし、それはわたしたちの側が選ぶことではない。神は 完全のみをご存知なので、わたしたちに神がなさることも完全なのである。これは、私たちの知る悪を正してもらえるという
見方で碑を望むものたちにとっては、問題となる。わたしたちは、碑に自分たちの悪を正してもらったらストップをかけたいという思いを持つ。神の法には反す るが、わたしたちが好むことについてはそのままにしておいてほしいという思いを持つ。しかし、神は、そのようには働かれない。神に、あることにおいて改善 を願い求めるということは、すべてのことについて作り変えられるということを望むのと同じである。それには、わたしたち
の望むことよりも、望まないことを作り変えられることが先になることもありうる。神にすべてをゆだねるとは、自分たちの側の好むと好まないという選択では ない。神がわたしたちを神の目に完全であるように作り変えられる。その過程では理解できないことも、終わってみれば、すべては完璧であることに驚くであろ う。
 このようなことは、神にとっては、あなたを神ご自身に近づけるために必要なことである。言ってみれば、わたしたち人間は油で、神は水。油の方が壊され、 水のようにならなければ、決して混じりあうことはできない。この世は十戒を排除したいのではない。というのも、人間は規則を好み、数多くの規則を作ってい る。この世が排除したいのは、棒威である.
 サタンは良い道徳に反しているのではなく、イエス・キリストの権威に反するものである。
 −度ある女性と話をする機会があった。彼女は、強く戦争に反対している一方で、この人が嫌いだ、あの人が嫌いだとどなり散らした。彼女の平和へのメッ セージは、怒りの中で全く沈んでいた。嫌悪の中にいる者は、平和を祈るべきではない。信仰による平和、平安の中にいる者は、すでに祈りは聞かれている。
 白分の家庭、学校、仕事場、自分白身に平和がなければ、どうして平和な国を生み出すことができるだろうか。兄弟姉妹、隣人を愛さないならば、その人のい う愛にどういう意味があるのか。
 アーサー・ピンクが教会の人々についてこう言っている。
「彼らは祈りの家に身体を運んではくるが、魂を伴ってはいない。彼らは、口では礼拝をしているが、霊とまことからではない。彼らは、毎朝の神への礼拝には 口うるさいが、心を勤勉に保つことには全く考えが及んでいない。彼らは、伝統的な決まりごとにはうるさいが、キリストの警告を無視している。彼らは、教会 へは必ず献金をしているが、仕事は什事だといいながら、商品の説明を偽ったり、客をごまかしたりしている。彼らは、神の法より、人の法を重んじている。そ れは、神を恐れるということが彼らの目にはないからである。」と。
 はじめにはただ1つの法しかなかった。それは、「心をつくし、魂をつくし、思いをつくして神を愛する」ということだけであった。この基本に戻って、わた したちのすべてをかけてただ神を愛す時が今なのだ。神の前に何ものをもおかず、自分白身をも、徳の高いと思われるものをも。神を第一とする信仰を。