英語礼拝報告10月2日

Silence沈 黙

ヨブ記231-12


主よ、あなたはいつ も私達のためにいて下さると約束して下さいました。私たちから離れず、見捨てられません。よく主が私から去ってしまうのではと思います。それは貴方がいな いからではなく、また私に話しかけられないとか愛さないからではなく、私自身が心を閉ざしているからです。私自身が貴方に気づかず、わがままや自己信頼、 独立独行によるのです、私の心を貴方に向けさせてください。耳をあなたの言葉に傾けさて下さい。精神をあなたの恵みと愛と導きの中に置かせてください。

  沈黙。旧約聖書で は神の沈黙について記述している箇所がある。一見神はそこに居ないかのように思えるが、ダビデやヨブ記やアブラハム、モーゼ、くじらの中でのヨナも3日間 沈黙の中に居た。そんな時は神の声を聞きたいと思い、また人生を変えたいと感じるだろう。神の存在を示してほしいと感じる。しかしそこには居ない。クリス チャンは「どうしてこのようなことが起きるのか」と思うだろう。2つの違った状況が考えられる。一つは神が沈黙と共同しているということ、クリスチャンに とって、沈黙は苦痛を伴う。それは家族を失うほどの意味があり全てを失うようなものだ。神が沈黙する理由は出エジプト記イザヤ書817に記述している。

 わたしは主を待ち 望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なお私は、彼に望みをかける

イザヤの前でもイス ラエル人の前でも神は顔を隠した。しかし「主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なお私は、彼に望みをかける。」この箇所を信じる。こ れは祈る者が神をたたえている。「なお私は、彼に望みをかける。」この祈りは生活の中ですばやく祈ることができる。長く祈らなくても簡単な フレーズです。「私は主を待ち望む」。主といつでもつながることができる。私達が沈黙を破る時、神ご自身も沈黙を打ち破る。

 ヨブ231-12 

 どんな時にも、あ なたが何をしていても、神はいつもそこにいる。どこにでもいつでも変わらない。しかし我々は神が私たちの前に現れてくれることを望む。そこが私たちの問題 点なのだ。変わらなければならないのは、私自身。心を変えてください。

 質問。もし教会に 来なくなると、どれくらい貴方の信仰心は残るであろうか。いつもの礼拝から離れ、クリスチャンの友だちからはなれると?聖書を読まなくなると?迫害を受け ると?全てを失ったとしても十字架はあなたのうしろに残っている。しかし、神への気持ちをつかむものは何もない状態で信仰や神の存在を見て感じ続けること がどれ程できるであろう。信仰を持続させることは大変難しい。しかし、神はいつもそこにいることを知っている。日々の糧となる神の御言葉を用意してくれて いる。話しかける準備が出来ている。創世記、アダムとイブ、ノアの箇所。神の沈黙をカインとアベルの記述どうして神はアベルの犠牲を受け入れたのか? 創 世記4章5-7 カインはかなり怒っていた様子。すると主はカインに「なぜ怒っているのか?どうして顔 を伏せるのか?もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せね ばならない。」

新約聖書でも反映さ れている箇所は使徒言行録510 ルカ211-4 第一コリント97 創世記412

カインは自己信頼を し、アベルは神に信頼を置き、感謝した。カインは神に「私が神に対してどれ程努力しているかを見てください」といい、アベルは「主の恵みに感謝し、私の感 謝をあなたにお返しします。」

つまり、カインは罪 を征服できずに嘆く者だった。それに対してアベルは主を讃美する者であった。

創世記413 でカインは主に嘆きながら 訴えた。しかし、主は約束している(1コロサイ1013

「あなたがたを襲っ た試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練 と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

神はカインをつねに 守ることを約束した。そうすれば、すくなくとも彼は傷つけようとする誰にも復習しようとは思わなくなる。しかし数10年後カインはまた神を忘れて自己信頼 に陥り、努力する者のみが神から恵みを受けるようになるのだと信じ始めた。

神は彼から顔を隠し た。しかし雨を降らせて恵みを続けてきたが、彼の存在と知識は気づかれなかった。だからカインは神から顔を背けてしまった。

 対照的に、ノアは 神への信仰心を求め続けた人間だった。創世記6

旧約聖書を読むと何 度も、神に希望を置き、神を捜し、そこにおられることに気づく。ダビデが神に尋ねた時も、神は彼から離れず、見捨てないと約束している。

 友情なども壊れや すいものである。友情を深めるとき、神はあなたを見捨てるか忘れ去る時に感じるような別れの期限を試すであろう。神が遠くに離れていると感じる精神的な暗 黒、疑いそして神から疎遠となるそれは「魂の暗い闇」等とたとえられる。

 しかし、実際神は 私たちから顔を背けその姿を隠しているときもある。祈っても何も起こらない。悪魔を非難するも何も変わらない。友人があなたのために祈っても罪を告白す る…。何が起こったのか?

真実はあなたにとっ て何の悪い問題もないということ。それは普通に起こりえることだ。神はあなたに彼の存在を感じさせたいと願う。しかし信仰によって感じることよりも主への 信頼を考えることに赴きを置いてしまう。彼を感情ではなく、信仰で感じる。

神が沈黙している時 に何が起こっているのかわからない時こそ神をどのように讃えているだろう。コミュニケーションが取れない危機の中でどのように神とかかわりを進めていく か。心を満たして感じたことを神に伝えよう。ダビデは「私は信じます。そしていった。私は完全に破滅した。つまり、私は神を信じます。しかし私は落ちぶれ ました。ダビデの率直さは深い信仰心を示している。神を信じた。そして神は彼の祈りを聞かれると信じた。さらに彼は彼が神を愛していると感じさせた。

 神が変わらざる キャラクター周囲に惑わされることなく確固たる存在であるということ、永遠に変わる事のない神の愛を覚えていてほしい。神は私たちと共に居てくださいま す。そして私たちの人生に良い計画を立てて下さいます。レイモンド・エドマンは「神が明るい元であなたに話したと言って、暗がりの中でも決して神を疑う な。」

ヨブの人生が神から 離れて、神が沈黙したとき、ヨブは神を讃えた。

 彼は良いことをな し、愛してくださる。 彼はいつもパワフル。 彼は私の人生の細かいことに目をむけてくださる。 彼は全地をコントロールする。人生の計画を立てて下さ る。そして、私を救われる。

神に信頼し彼の約束を守りましょう。精神的に暗黒な時も忍耐強く、彼に信頼を置き彼の約 束にゆだねよう。あなたの感情から出るのではなく、より深く完成されたものである。友情は隠された内側の感情が基礎となっている。だから問題によってトラ ブルを招かないようにしよう。環境は神の人格を変えられない。

神の恵みは力で溢れている。彼はあなたが感じていなくてもあなたのために恵みを与えて下 さっている。どのような状況の中でも神の言葉を感じようと求めること。ヨブは言う、「わたしは神の口から出る戒めを守る。私は神の口を通して聞く言葉を日 々の肉の糧よりも大切にする。」