皆さんお帰りなさい。新しい年になってもう8日目となりました。新しい年も神さまの恵みのうちに歩めることを信じ共に歩んでいきたいと思います。
毎年発表されるその年の歩みを表す漢字があります。これは日本漢字能力検定教会が発表するもので、全国の公募による投票で決まります。昨年の漢字も年末も発表されましたのでご存知の方もいらっしゃることと思いますが、全投票総数の約5%を集めて第一位になったのは“愛”でありました。好評であった愛知県で開催された愛・地球博や卓球の福原愛ちゃんの活躍もその要因であったようですが、世の人々が愛を切実に求めていることがその理由であろうと思われます。誰もが愛されることを求めている一年だったのでしょう。昨年も暗い話題が先行し、世の中に愛が不足していることを皆が感じられたことによるのでしょう。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(ヨハネの手紙一4章7節)。今年も一人でも多くの方が神さまと出会われ、イエスさまを信じる信仰に導かれればと願います。
新約聖書には「誇る」という言葉が37回出てまいります。そしてそのうちの半数以上の20回が今日のコリント信徒への手紙二に登場します。さらに言うと、10章以降に集中しています。今日の聖書箇所は12章1〜10節といたしましたが、広げるならば10章以降今日の所までの全体を取り上げることになります。そのようにパウロはこの「誇る・誇り」ということにとりわけこだわってきた人物であったことが分かります。それはパウロが一般的に言われる意味での誇り高い人物であったというのではなく、人間にとってこの誇りというのがどうしても罪に結びついてしまうことを知っていたからでしょう。
パウロは自分の中にある誇りという気持ちと激しく戦ってきた人物でありました。彼は名門の家に生まれ、最高の学問を身につけた当時のエリート中のエリートと言える人物でありました。律法に関しても完璧に守ってきた人であり、彼の著であるフィリピの信徒への手紙による「ファリサイ派の中のファリサイ派」でありました。しかし彼は復活のキリストと出会うことで、それらを今では塵あくたのように思っていると述べています。
誇るという言葉を日本語の辞書で見てみますと、“優れていると思って得意になること”また“誇示すべき状態にあるまたはそのことを名誉に思うこと”とあります。ですから要は何を誇るかが大切になるのであります。確かに誇りに思うことはすべてが悪いこととは言えないのです。しかし自らの経歴や知識を誇ることは自慢になってしまい、驕り高ぶることなってしまいます。彼は自分が名門の家の出であることや当時の最高の学歴を持っていたことを復活の主と出会うまでは誇りに思っていたのでしょう。しかし彼はそれがどれだけ愚かなことであり当てにならないかを身をもって知らされたのでした。そして主イエス・キリストがどれほど大いなるものであるかを知ったのです。
しかしパウロはここで「誇っても無益ですが」と断りながら自分が誇りとすることを述べます。誇ることがいかに愚かなことで無益なことであるかを重々自覚した上で誇るのです。それには理由がありました。それはこの手紙を書いた頃に彼は、色々と批判を受けていました。この手紙の10章以降によると、彼はあまり風采の上がらない人となりだったようです。また、10章9節では「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われていると述べています。彼に敵対する人物たちは相当激しく攻撃を加えてきたようであります。
そのために彼は11章1節で言っているように「少しばかりの愚かさを我慢してくれ」と言って誇ることを始めます。彼が誇るのは二つのことです。一つは10章37節に「誇る者は主を誇れ」とあるように主を、そのみわざに関してです。ちなみにこの言葉はエレミヤ9章23節をとっているものと思われます。そして11章30節から述べているように「自分の弱さ」に関して誇るのです。
今日のところで主が見せてくださったその啓示についてまず述べます。このことを語るにあたってパウロは自分のこととして語るのでなく、「キリストに結ばれた一人の人を知っていますが」と一人称ではなく、第三者のこととして語ります。しかしこの「キリストと結ばれた一人の人」がパウロ本人であることは明らかだと言われています。ここにも自分のことを誇ることが無益であることを承知していたことが見受けられます。
この「14年前、第三の天にまで引き上げられた」とする事柄が何をさすのかは明らかではありません。しかし彼は「楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」とその啓示があまりにもすばらしいからだと言います。
そしてその上で「自分自身については弱さ以外には誇るつもりはありません」と明言します。その弱さのあらわれとして彼には「身に一つのとげ」が与えられたことを述べます。それは思い上がらないように送られたサタンからの使いだというのです。神さまはサタンをもご自身のためにお用いになられます。このとげが何であるのかは古来より色々なことが推測されています。パウロはとても視力が弱かったようですから、何らかの目の病気ではないかとか、癲癇持ちではなかったかとか、彼はマラリアに罹っていたのではないかとも言われていますが断定は出来ないようであります。この「とげ」は彼を相当苦しめたようで、8節には「離れ去らせてくださるように、三度主に願」ったとあります。しかし彼はその祈りの中で主からの驚くべき言葉を告げられたと述べます。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分にはっきされるのだ」と。力は弱さの中でこそ十分に発揮される。強ければ主の力が働く余地がないこととなります。キリストの力が内に宿るためにも、自分の力を誇ってそれにより頼むのでなく、その弱さを大いに喜んでその弱さを誇ると彼は述べます。10節では人生で遭遇するであろう「侮辱や窮乏、迫害、行き詰まり」をも満足するのだと主張します。これらは本来的には満足するようなものではありません。こういった状態にならないようにと願うものです。パウロも本心においてはそうだったと思います。しかし願うと願わざるとに関わらず、こういった試練とも思える事態はやって来るものであります。その中で何をよりどころとするかが重要となってくるのであります。
今巷ではとてもいやな風潮なのですが、「勝ち組、負け組」ということがしょっちゅう話題になっています。人生の成功者と敗北者を区分けしてレッテルをはろうとしているように見受けられます。そのような物差しで人を区分けするならば、教会は負け組の集合体でありましょうし、私はそれでよいと思っています。強さを求めるのでなく弱さを誇ることの出来る場所が世の中にはあってもよいのではないでしょうか。私たちは強くあるのでなく、弱いままで神さまに用いられ、神さまのちからにすがって生きていく、それこそがイエス・キリストを信じる者に求められていることではないでしょうか。
大阪の釜ヶ崎でその活動をされているカトリックの本田哲郎という神父がおられます。本田神父はその働きの中で聖書を読み直し独自に「小さくされた人々のための福音」という聖書の訳を出されています。その翻訳の用語解説のところで、
“バプテスマ”という言葉について説明されています。本田神父は、洗礼を受けることは「けがれから洗い清められる」ことと誤解されてきたために、洗礼を受けた人は「清い人」受けていない人は「けがれた人」という錯覚を多くのキリスト者に抱かせてきたとおっしゃいます。ところが“バプテスマ”とは本来、低みから低みへと流れる水の水面下に全身を沈めて「低みから見直させる」ことであり、けがれを洗い流すというようないわゆる“浄−不浄”の問題とは関係ないことを語ります。
本田神父はまたその翻訳においては“悔い改め”という言葉をも「低みに立って見直す」訳されております。イエス・キリストは私たちに弱さを脱却して強い人間となることを説いているのでなく、私たちに弱さのままで世の最も低い所に立ってものごと見直すことを勧めているのです。
私たちはクリスマスにイエスさまが家畜小屋のそれも餌箱でお生まれ下さったことを見ました。イエス・キリストはそのように世の最も低みにまで降りて来て下さった。だからこそ、私たちが高みではなく低みに立って歩む時、その中に強く働いて下さるのです。どうぞそのイエスさまの強さに身を委ねて歩んでいければと願います。お祈りします。
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