「聖霊によって一つとされる」  


 使徒言行録2章37〜47節
 2006年1月15日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さんお帰りなさい。昨年12月よりとても寒い気候が続きました。北日本では記録的な大雪に見舞われていますし、高知でも12月としてはとても珍しく積雪を記録しました。年が明けてからも厳しい寒さは続いていたのですが、先週末より今度はその寒さが緩み、昨日一昨日は久々の雨でした。数年来地球温暖化が叫ばれ、毎年暖冬が続いていたものですから、今年の厳しい寒さは温暖化の中でどういうことだろうかと思っていたら、どうもこの寒さも温暖化によるもだと聞かされ少し戸惑うほどであります。温暖化の問題は本当に深刻なものでありますから、私たち一人ひとりの取り組みが大切になるように思います。この天地をお造りなられた神さまは人間を創造された後に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃいましたが、それは決して人間がこの地球環境を変えてよいというお墨付きを与える言葉ではなかったはずであります。それを人間は自分がこの世界の王であるかように思い、その地球環境を破壊しているように思えます。神さまがお造りなったこの天地を壊してしまっていることの表れの一つに地球温暖化があるのではないでしょうか。私たちは今こそ、悔い改めるべきところにいるように思えます。地球温暖化の問題の解決は国レベルでの取り組みだけでなく、それとても大切ではありますが、私たち一人ひとりの取り組み、今の生活を根本的に見直すべきところにいるおかれているのではないでしょうか、小さな些細なことと思っていることの中にも地球規模の問題につながる事柄があります。私たち一人ひとりがどうすべきであるかを祈り求め、実践していく必要があるように思います。

 9月以降、聖書教育に従って教理について学んでまいりましたが、クリスマス頃から聖書教育によらずにメッセージをさせていただいておりました。聖書教育では1月は教会をテーマとされています。その中で今日は

使徒言行録2章の初期の原始キリスト教会の様子から教会とはどんな姿であるかについて見ていければと思っております。

ここは弟子たちに聖霊が降ったあのペンテコステの時のことです。その中の一人であったペトロが聖霊の導きによって語った説教がこの2章の14節からに出ています。彼はナザレのイエスこそが神から遣わされた者であり、十字架につけられた後神はこのイエスを復活させられたことを語ります。この説教の最後の2章36節では「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです」と人々に説きます。

 この時のペトロの説教はとても雄弁で力があったようであります。聴衆たちは大いに心を打たれ、ペトロたちに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。ペトロは答えます。38節です。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい」と勧めます。するとこのとき3000人の人たちが一度にバプテスマを受けたとされています。3000人のバプテスマ何て現代のわが国においてはちょっと考えられないほどの数字です。そしてその群れが歴史上最初のキリスト教会となっていったのです。ペンテコステは教会の誕生日だと言われるのは今日の箇所がその根拠となっているのです。

 その教会では何が行われていたのでしょうか。42節にそれが記されています。彼らは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心で」ありました。「使徒の教え」とは、人々が使徒たちの教えに耳を傾けていのことを指すのでありましょう。彼らの中には深い交わりが起こされていきました。46節によると「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」そして熱心に祈りました。ここで言う交わりとは単にけんかせず仲が睦まじくすること、助け合っていたさまのことではありません。ここには礼拝が献げられ、祈り合う群れが形成されていったのです。この「パンを裂き」とはキリスト体であるパンをいただくことです。すなわち主の晩餐のことです。イエスさまが最後の晩餐と呼ばれる十字架つかれる直前に弟子たちと最後の食事を取られた時にパンを裂いて使徒たちに与えられたことから、原始キリスト教会においては聖餐・主の晩餐のことを「パン裂き」と呼んでおりました。そのようにして彼らは47節にあるように「一つにされ」ていきました。

 ここに記されて姿だけが教会のあり方であるとは言えません。もしそうであるならば44・45節のように「すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて分け合」わなければならことになります。このような姿だけが一つにされた教会のあり方だとは思いません。しかし私たちの教会目指すべき方向性がここにあるとは言えるでしょう。それは教会の交わりです。教会はキリスト者同時の交わりを通して成長していくのです。教会は共に礼拝を献げ、祈り合うことを通して教会となっていくのです。その中では宣教に耳を傾け、また主の晩餐を守ることを通してイエス・キリストの体にあずかり、イエス・キリストを中心とする交わりの中で教会がイエス・キリストを信じる信仰によって一つとされていくことを示しています。

 キリストを信じることによって教会が一つとされる、とてもきれいな言葉です。しかし現実はどうでしょうか、教会は一つとなっているのでしょうか。よく言われることに、聖書教育にも記されてありますが、教会の一致とは画一化されることではありません。一人ひとりが違っていてもかまわないのだ、またその違いがあることが教会の教会たるゆえんだというのです。しかし実際問題、違いを乗り越えるのはとても困難です。

 実際、耳に入ってくる教会の話は世の中のニュースと同じで暗い話が多い、気分が滅入ってしまうような話がとても多くあります。信仰によって一つだといわれても、ガタガタガタガタしているというのが現実でしょう。教会に幻滅することがあまりにも多いように思われます。ではどうすればよいのでしょうか。今以上に礼拝を大切にし祈りに熱心になるだけでよいのだろうかと、私は考えさせられます。

 今回の聖書教育2006年1〜3月号の巻頭言で聖書教育の編集委員の一人でいらっしゃる三島教会の中條譲治先生がある牧師の言葉を引用されています。中條牧師はその言葉がとても心に残ったと書かれています。

教会の現実の姿やいろんな方の不満の声にウンザリという思いになることがあるというのです。そんな時に与えられたのが次の言葉だったそうです。「教会とは信ずるべきものではないか、そんなことが牧師としての働きを重ねる間に少し分かってきたように思います」。これは日本基督教団の総会議長も務められた松山番町教会の小島誠志という牧師の言葉です。中條先生はおっしゃいます。教会とはあれこれと人間がその考えや行動でつくりあげるところではなく、まず感謝し、信ずるものなんだと。教会の真ん中に主イエスがおられ、すべての責任を負って下さることを信じて期待してよいのだと。だから人の作為をめぐって右往左往することがあっても幻滅する必要はありません。教会は何があっても主の教会なのですから。

 私はこの言葉にとても慰めを得ました。現実の教会形成の中であれもしなければこれもしなければ、またその中でうまくいかないことを経験させられる中で、私たちの作為、行動や考えで作るのでなく、主が教会の真ん中にいて下さって、主が教会の歩みの責任を担って下さるのだと信じることは大きな慰めと安心が与えられました。

 使徒言行録に書かれている教会、今日の箇所だけ読むとその当時は何の問題もなかったかのようにも読めますが、実際は6章などを見ると、日々の分配のことで苦情が出てきたことが記されていますし、その後のそれぞれの教会の歩みも分裂や争いが絶えなかったことが分かります。

 38節をご覧下さい。そこにはペトロが「どうすればよいか」と尋ねられたペトロが悔い改めて洗礼を受けて罪を赦してもらうようにというペトロの答えがあることを先にも見ました。しかし38節はそれだけでは終わっていません。その続きのところでペトロは次のような言葉を加えているのです。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。

「どうすればよいか」との質問に対しての彼の最終的な勧めは、「悔い改めて、洗礼を受けるなさい」というのでなく、それは賜物としての聖霊を受けることの前提であるのです。私たちが求めるのはそして目指すのは聖霊を受けることにあるのです。

 昨日の依岡勝馬さんの召天50日記念会の奨励の中でも語らせていただいのですが、昨日はお集まりの方たちは全員ノンクリスチャンでした。そこで聖霊について私は、あれも聖霊の導きで語らされたのかもしれませんが、聖霊とは「目に見えない神さまの導き」と私はお話ししました。今までのメッセージの中でも述べておりますが、父なる神、子なるキリスト、み霊なる聖霊、この聖霊についてはいろんな説明が聖書の中でもされていますが、最後のところはよく分からないというのが私の正直な思いです。聖霊は目には私たちの目には見えません。しかし私たちは変えられたり、導かれたりすることがある、そして後で振り返るとあれは一体何だったのかと思わされることがよくある。そして聖書は信仰者はそれを聖霊の導きと信じてきたのではないでしょうか。

 今日の聖書の話は初代教会が一つにされていったことの描写です。そして一つとされていったのは彼らがバプテスマを受けたからでも悔い改めたからで、また主の晩餐に与ったからでも、祈りに熱心だったことが彼らを一つにしたのではなく、それらの行動はすべて聖霊を受けるための方策であったのではないでしょうか。聖霊は目には見えません。しかし目には見えないがゆえに、それは信仰の領域の事柄なのです。その意味で中條先生や小島先生がおっしゃるように、教会とは信ずるものであるのです。強教会とは私たちの手でつくりあげるものなのではなく、私たち教会に呼び集められた者たちが賜物として聖霊を受けることで一つとされていく群れであるのです。

 昨年の5月29日の礼拝で語らせていただいたことですが、弟子たちだけで舟でガリラヤ湖の対岸を目指した時のことでした。波風に苦しめられ、前にも後ろにも進めなくなった時のことです。どうにもしようがなくなった弟子たちの舟にイエスさまは近づいてこられ、「わたしだ、恐れることはない」と声をかけてくださいました。この「わたしだ」はギリシャ語で“エゴーエイミ”「わたしはある」という意味の言葉ですが、この声を聞いた弟子たちは、イエスさまを舟に“迎え入れよう”としました。すると間もなく、「舟は目指す地に着いた」という話があります。マタイやマルコでは、イエスさまを舟にお乗せすると「風は静まった」とあるのとは違い、ヨハネでは彼らを苦しめていた風がどうなったかについては全く触れられていません。ヨハネにとっては、弟子たちがイエスさまを舟に“迎えようとする”かどうか重要だと思ったからこのように記したことと思われます。舟は教会を象徴します。教会を前に進ませるのは、私たちの力によるのではありません。そのために尽力すること、教会を整えていくわざは大切ではあるのでしょうが、そのことが決定的要因ではないのです。私たちにとって必要なことは、イエスさまを舟に迎え入れようとすること、教会を進ませるのはイエスさまであることを信じることで一つとされることではないでしょうか。

 教会を苦しめる苦闘させる波風はそのままかもしれません。しかしイエスさまを迎え入れることで教会が一致するならば、舟は教会は前に進み、目指すべき地に着くことが出来るのです。

お祈りをします。しばらく黙想の時をもちましょう。


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