「恵みの管理人」  


 Tコリント4章1〜2節
 2006年2月5日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。

今週の土曜日は2月11日です。この2月11日は行政の定めるところでは建国記念の日とされています。1872年(明治5年)に明治政府は古事記や日本書紀で第一代天皇とされる神武天皇が奈良の橿原神宮で天皇に即位した日を「紀元節」と制定し、この日を祝日としました。国家神道最大の祝日、国民生活高揚の日とされたのです。またこの2月11日は大日本帝国憲法が発布された日でもあります。このような経緯を持つ紀元節は戦後、国家神道の解体とともに廃止されましたが、1967年に佐藤内閣の時に建国記念の日の名称で国民の祝日として復活されました。ちなみにこの日はよく建国記念日と言われていますが、正確には建国記念の日であります。これは史実にもとづく建国の日とは関係なく、建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えに基づいているからだと説明されています。しかしこれらが信教の自由の原則に反することや戦前の国家体制への回帰を目指す動きにもつながることなど多くの問題をはらんでいることは明らかであります。

キリスト教界ではこの日を「信教の自由を守る日」と覚えています。憲法で保障されている信教の自由が侵されないように、そして戦時中のような体制の国に戻らないように、その自由が保障される国であり続けたいと願い、その意味を考える日としています。そのことを覚えるため考えるために全国各地で集会がもたれます。高知でも日本基督教団高知分区の主催により高知教会で集会が行われます。信教の自由を守るために、この日の意味を考え、この集会にご参加下さればと願います。

今月の主題はスチュワードシップです。これはあまり聞きなれない言葉であるかもしれません。スチュワードシップという言葉はギリシャ語のオイコノミアからきた言葉で、「管理人の働き」を示す言葉です。

このスチュワードシップのスチュワードの女性形はスチュワーデスです。これは家の財産や家事などを取り仕切る管理人、執事、ちょっと古い言い方をすれば、家令を指す言葉です。ですからこのスチュワードには雇い主である主人がおります。この管理人は主人の財産の管理を任されているのです。管理人の役割は主人の財産を上手に管理、運営し、主人の家に繁栄をもたらすことです。管理運営する権限は与えられていますが、所有権は当然のことながらありません。

本日の聖書の箇所においてパウロは「管理者に要求されるのは忠実であることです」と述べています。管理者には財産を運用する手腕の優れていることが求められますがそれだけでは管理者は務まりません。管理者には、主人に対する忠実さが求められます。この忠実さとは「自分の立場をわきまえ、主人の所有権を侵さない、主人の財産に手をつけるようなことはしない」ということです。また管理者に求められる忠実さとは主人に対してだけでなく、主人の期待に対してもです。

マタイによる福音書25章14節からには「タラントンのたとえ」として有名なたとえ話が出ています。主人の財産をそれぞれの力に応じて預けられた僕の中で、その預けられた富を用いた二人の僕を「良い忠実な僕」と語り、それを活用しなかった僕を「怠け者の悪い僕だ」と言っています。主人が何を期待し、どのようにこの財産を運用することを望んでいるのかを考え行動する管理者こそが忠実な管理者です。ある人はスチュワードシップとは「良き管理者たる道」とおっしゃっています。自分の立場をわきまえ、主人の信頼や期待に最善をもってこたえること、これがスチュワードシップなのです。ですからこれはとても困難な道であります。

それでは、私たちクリスチャンにとって、スチュワードシップとはどのようなことなのでしょうか。言うまでもないことですが、クリスチャンにとっての主人とはイエス・キリストのことです。ですから、クリスチャンにとってのスチュワードシップとは、主人であるイエス・キリストにそして父なる神さまに忠実であろうとすることを意味します。

創世記の天地創造物語には神さまが6日目に創造のわざを完成され、神さまがその造られた世界をご覧になると「それは極めて良かった」とされています。神さまはその世界を人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言って人間に世界の支配を委ねられました。ここで言う支配とは、動物に対しての言葉でありますが、その支配は「動物の世話をし、面倒を見、養うという羊飼いのあり方」であります。全ての動物が平安に暮らすことができるように守っていくことであります。それは決して君臨したり、搾取する支配ではありません。またイエスさまは、支配することとは 仕えることであると教えておられます。人間は良きスチュワードとしてその支配が委ねられているのであります。

しかし人間は神さまの造られた世界を自分の好き勝手にしてしまっているように見受けられます。自然を破壊し、環境を変えてしまい 動物さえ虐殺してしまっています。また人間同士の関係においても、暴力と殺戮を繰り返し、一部の地域に飢餓を起こすような振る舞いをしています。 

私たちは神さまから委ねられた管理人・スチュワードに立ち返る必要があるのではないでしょうか。そして神さまの目に良しとされた世界に戻すために私たちにはやることがるあるのではないでしょうか。殺し合いを止めること、また自然環境をより良い状態に戻すことなどなすべきことはいくつもあります。しかしその第一歩は、造り主なる神さまと被造物でありスチュワードたる者との関係に正すことであります。神の良きスチュワードシップとしての働きを見直すことであります。2月の一ヶ月間、このスチュワードシップについて考えていこうと思っています。今日は時間のスチュワードについてみますが、これから体・命や賜物・献金のスチュワードについてご一緒に聖書から聞いていければと思います。

時間のスチュワードシップ、時間の管理と言っても、これは一日のタイムスケジュールをきちんとたてて行動することや分刻みに一日を過ごすことではありません。1分1秒を無駄にしないことでもありません。神さまから与えられた時として時を管理し、神さまに時を献げることであります。 

日経新聞が取った意識調査に「私たちの暮らしを変えたものとは何か」というのがありました。4位はテレビ、3位はインターネット(これはパソコンを含んだものと思われますが)2位は携帯電話でした。では1位は何だと思われますか。少し意外な気もしましたが、なるほどそうだろうな、と思わされるものでした。それはコンビニでありました。私も以前にコンビニで夜間のアルバイトをしたことがありますが、そこで求められたのはとにかく “早く”ということでありました。四十歳を越えたような者だとレジ打ちも若い学生さんのようには迅速には出来ませんでした。何度かレジ打ちに手間取り、お客さんが待ちきれずに帰られたことがあり、そのことが店のオーナーの耳に入り、苦言を呈されたことがありました。コンビニとは“Convenience Store”その名の通りとても便利な存在です。24時間いつでも開かれていて、必要なものを提供してくれる。そこで第一とされているのは“迅速さと効率”であります。早く、早く・・・

先ほどの今城由香里姉妹の証しにもありましたが、私たち現代人は待つことが出来なくなっています。コンビニもその象徴でありますが、テレビもそうです。一昔前はチャンネルを変えるには、テレビの所まで行ってチャンネルの摘みを回さなければなりませんでした。それが今ではリモコンのスウィッチを押すだけでチャンネルは切り替わります。コマーシャルの間の時間を待てず、他のチャンネルを見てしまうことようなことはよく行なうことではないでしょうか。

現代人はそのように時間に追われ、そのことでストレスをため込み、イライラし、周囲に対しても暴力的となり、挙句には自分自身を追い込み、自らの体さえ傷つけてしまっている。

これは人間だけのことにはとどまらないようです。ブロイラーや養豚場で飼われている鳥や豚にもそのような現象が見られるというのです。そのような施設ではとにかく早く卵を産ませる、餌を食べさせ肥え太らせることが効率的に求められます。鳥に私たちが求めているのは、早く卵を産んでくれることです。豚に求めているのは早く成長して太ってくれることです。その結果、彼らは種として劣化し不安定化し混乱し、挙句の果ては暴力化していきます。鳥は互いに突っつき合い、豚は尻尾を噛み合うようになるそうです。

全て早く、早く、効率的に・・・そのように時間に追われることで、私たちは自分たちを追い込み、また動物たちさえも駆り立てしまっているのです。

コヘレトの言葉の3章を見ましょう。(1〜11節)

ここにはさまざまな人間のわざがあり時があることが記されています。そしてそれらの時はすべて神が定められた時であると言います。神は全てを時宜にかなうように造り、永遠を思う心を人に与えられた。コンビニやテレビ・携帯電話などが全て悪いとは思いません。しかし時間に追いまくられている私たち現代人はその中で、その営みをストップし永遠を思う心が必要なのではないでしょうか。

以前にもお話しさせていただいたことですが、安息日の「安息」の原語は、“シャバット”という言葉です。これを日本語では「安息」と訳されていますが、元々の意味は「止める、終わらされる、ストップする」です。ユダヤ教においては、そのため土曜日を安息日とし、全てのわざをストップして安息日を過ごします。そのため厳格なユダヤ人たちは料理をつくることも、この日にはしません。そして神の前に出るのです。永遠を思うのです。私たちキリスト教徒にとっては安息日は日曜日です。この日曜日に私たちは日常のわざを中断して、教会に集い神さまを礼拝します。それが時間を献げることであり、礼拝することで永遠を思う時をもつのです。

またこのことは日曜日にだけしか行えないことではありません。平日の時間の中で、その手のわざを中断して立ち止まるのです。忙しければ忙しいほど、切り詰められた時の中で時を献げ永遠を思うのです。それは神を礼拝する行為であり、また祈りにつながります。 神さまから与えられた多くの恵みに感謝して、その中で時を献げて、永遠を思い神さまに祈りを献げることで、そのみ心を聴き良きスチュワートとして歩むためにです。

お祈りをします。いつものように黙想の時をしばらく持ちましょう。



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